見出し画像

【ガンバレ廣井勇!】"山脈"を作った高知のスーパースターをもっと知ってもらいたい〜土木スーパースター列伝 #15

こんにちは。高知大学講師の坂本淳と申します。

大学の防災関連の学科に所属し、地域防災力の向上や安心・安全なまちづくりを支援する研究者です。2019年から2年間、土木学会誌編集委員会のメンバーとして特集や連載に関わってきました。その後,土木広報センター委員のメンバーとして土木学会TVの学会誌のコンテンツを作成しています。

今回は、私と先祖が同じ高知県という縁で、土木界で知らない人はいない偉人、廣井勇を2つの伝説を基にご紹介します。

2つの顔を持つスーパースター廣井勇とは?

廣井勇の生誕地

皆さんは廣井勇を知っていますか?廣井は日本の橋梁学を確立した超著名人で、日本初のコンクリート製長大防波堤を小樽港で完成させ、当時の日本の技術力を世界に知らしめたことでもよく知られています。この港湾工学での功績により『日本港湾工学の父』とも呼ばれています。

また、功績は学問だけにとどまらず、後に世界で活躍する多くの人材を育てた熱心な教育者としての顔もあります。「技術を通して文明の基礎づくりに努力すべき」という思想は、後世の技術者に受け継がれ、数々の偉業を残しながら昭和3年(1928年)に65歳で亡くなります。

そんな廣井は文久2年(1862年)、土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に佐川の領主である深尾氏の家臣の長男として生まれました。写真は廣井勇の生誕地です。平成元年に建立された生誕地碑は、私も場所を発見するのに何度か迷うほど傘も差せないような細い道を抜けてようやくたどり着き、住宅の奥にひっそりと佇んでいました。

廣井は、安政南海地震の爪痕が残り、明治という新しい時代に突入した矢先、父親を失い、わずか9歳で廣井家の当主として家を背負うことになります。その2年後の11歳の時、学問を修得したいという強い決意のもと親戚を頼りに東京に出ます。

東京では、親戚の家に居候しながら勉強し、東京外国語学校英語科入学を経て札幌農学校へ2期生として入学します。卒業後は生活を切りつめて貯めたお金でアメリカにわたり、当時の最先端の技術を身につけ、著作「Plate Girder Construction」を残しました。

1つ目の顔:短銃を忍ばせ、「命を懸けて」挑んだ大事業

小樽港防波堤の激浪(工學博士廣井勇傳より)

皆さんも「死ぬ気でやろう」「覚悟を決めよう」、そう思って何かに取り組んだ経験があると思います。『日本港湾工学の父』とも呼ばれた廣井も富国強兵の時代の波に飲み込まれるように大事業を任され、強い覚悟を決めた瞬間がありました。

廣井は、明治30年(1897年)から小樽築港事務所長として防波堤の建設に携わります。当時、札幌周辺の開発に伴い、小樽港に立ち寄る貨物船が増加していましたが、船舶は度々激しい浪に遭遇し、大損害が発生していました。それを解決する切り札が小樽築港だったわけです。

築港:ちっこう。港を築くこと。また、その築いた港。

しかし、当時、世界では海中に使用するコンクリートの耐久性について疑問視されており、さらに、1904年の日露戦争の勃発により工事費は大きく削減されます。

そのような中でも、廣井は緻密な準備と試験を行い、工事を順調に進めます。写真はセメントの強度を解明するために製作されたコンクリートのテストピースです。コンクリートの配合や強度が十分に解明されていなかった当時、何百種類ものテストピースを用いて、最適解を模索したのです。

百年試験用コンクリート・テストピース(佐川町うえまち駅に展示)

工事が始まってから2年が経過したある冬の日、猛烈な嵐が防波堤を直撃しました。工事に使用した資材や設備は波にさらわれ、その光景を目の当たりにした廣井は最悪の事態を想定し、嵐がおさまるころ、短銃をしのばせて現場に足を運びます。防波堤が決壊したら全責任をとって自決しようと覚悟を決めていたのです。

しかし、廣井がそこに見た光景は、猛烈な嵐を耐え抜いた防波堤の姿でした。絶体絶命のピンチの中、4番が逆転満塁ホームランを決めるようなカッコよさでしょうか(違うか…)。

私には、仕事の締め切りが近づくと「さてどうやって言い訳するかな」と諦めモードに突入することがあります。しかし、本当に「死ぬ覚悟」で仕事に臨んだ廣井の姿を想像すると、私にはない、本当の「サムライ魂」が廣井には常に宿っていたのかもしれません。


2つ目の顔:長官の依頼も断る!たった2人のための”激アツ”授業!

廣井の講義資料の一部(工學博士廣井勇傳より)

みなさんにとって、大学の授業はどの程度重要視されるもの(だった)でしょうか? 学生の立場からすれば「次の授業は寝れる」とか「あの先生の授業、後ろに座ったら怒られるんだよね」なんて思い出もあるでしょう。教員の立場からすれば、授業中に急な仕事が入ったから巻いていこう!なんてことも...

さて、数々の弟子を育て上げた教育者の顔を持つ廣井の授業はどんなものだったのでしょうか? 聞くところによると、激アツだった!そうです。

ある日のこと、ドイツ艦隊が小樽港に寄港しました。北海道長官がドイツ語の堪能な廣井に通訳を頼むため、書記を札幌農学校へ向かわせ、書記は廣井が授業をしている教室に駆け込み、その旨を伝えます。しかし、廣井の回答は意外なものでした。

「いま授業中です」

廣井の言葉に書記は驚いたようです。書記はきっと、“授業なら、北海道長官からの依頼を優先して対応してくれるだろう”と思っていたのでしょう。廣井にとって授業とはそれだけ重要なものだったのです。その時の受講生はたった2人。その2人に対して、写真のような英語の講義資料を片手に難解な授業を続けたわけです。

書記が教室に入ってきたとき、学生は一瞬「ラッキー!」と思ったかもしれません。でもすぐに「廣井先生なら、まあそういう展開になるよね」と思い直したことでしょう。

廣井は講義を非常に重要視しており、遅刻者が出たときには厳しく叱責するあまり、その日の授業が成立しなかったこともあったようです。そうなのです。「激アツ」というのは、授業に熱が入るあまり、時には怒りとして爆発してしまうということなのです!

私が学生だったら、逃げ出してしまったかもしれませんが(つまり偉人になれなかった(笑))、怖いもの見たさで一度ぐらいは廣井の授業を受けてみたいですね!

偉大な廣井山脈

台湾のヒーローとして語りつがれる八田與一、国づくりの相談役として技術輸出の道を作った久保田豊、パナマ運河建設工事に単身で渡った青山士などなど、廣井が育てた弟子は枚挙にいとまがないですが、彼らは、北海道長官の依頼よりも授業を優先し、遅刻者を絶対に許さない廣井のアツく厳しい教育を受けて世界に羽ばたきました。

土木史研究家の高崎哲郎さんは、廣井の優れた知人友人や門弟たちを「廣井山脈」と名付けられました。廣井のもとに集まった人脈がどれだけ素晴らしいかを物語る言葉としてピッタリだと思います。


ガンバレ廣井勇!さあ、仁淀ブルーを見にうえまち駅へ

元名教館から青山文庫と廣井勇像を眺める

教育・研究で多大な功績を遺した廣井ですが、実は地元高知での知名度は高いとは言えません。2021年6月に高知テレビで放映された廣井勇のドキュメンタリー番組のために実施された調査によると、中心市街地で10~80歳代の男女50人に質問したところ、牧野富太郎を知っている方は44人、知らない方は6人であるのに対して、廣井勇を知っている方は5人、知らない方は45人と、とても寂しい結果となったようです。

「日本の植物学の父」と呼ばれる日本の植物学の第一人者で、高知県の有名な観光地である牧野植物園があるにも関わらず、牧野富太郎を知らない方が6人もいたことにも驚きましたが(笑)、県内で廣井勇の名前を見かける場所は圧倒的に少ないのです。地元高知でこの知名度の低さ…。

実は、2022年初春現在、牧野富太郎がモデルのNHK朝ドラが決定し、高知は盛り上がっています。もとより県民の知名度に差があったのに、いよいよ周回遅れとなってしまったような……ガンバレ廣井勇!

廣井勇の功績をより多くの県民に知ってもらうため、現存する日本唯一の木造2等客車を展示している高知県のうえまち駅(さかわ観光協会)では、新たに廣井勇の銅像や展示の整備がされています。“仁淀ブルー”こと「奇跡の清流 仁淀川」を見に行かれるついででもよいので、ぜひお越しください。

一般社団法人仁淀ブルー観光協議会,うえまち駅のホームページはこちら


本稿の執筆にあたり、1930年に発刊された「工學博士廣井勇傳」を読み、高知大学の郷土資料のすばらしさに改めて気づかされました。発刊当時は、今でこそ土木偉人として称えられる方々が偉業を達成する前の姿が描かれています。なんだか歴史の途中にいるようで、ワクワクしたことを覚えています。

お知らせ
土木学会TV(https://www.youtube.com/c/JSCEtv)では,土木学会誌に関する動画を配信しています。土木動画チーム「DDT」が、毎号の主査をお招きして、秘話や読みどころを語っていただきます。ぜひご覧ください!

文責:坂本淳(高知大学講師)
プロフィール
専門は都市計画、防災計画。土木学会誌編集委員会委員(2019.6~2021.5)、土木広報センター委員(2021.6~)。五世の祖にあたる坂本源弥は、天保元年の高知県高岡郡越知町生まれ(らしい)。祖父の代で広島県に移住し、筆者は広島県生まれ。幼少時代には、夏休みになると親戚が住む仁淀村(現仁淀川町)に家族で遊びに行き、川遊びやアマゴ釣りを楽しんだ。