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会社経営2周年のおばさんひよこ、満身創痍で今日も前進

株式会社FRONT.Aの社長になって2周年。50代最後の年なのに、経営はまだひよこ。

12月が決算なので、今更ながら忙しいを理由に自分都合で後回し業務が多くなり、特に税理士先生とそのアシスタントさんには、会計面で多大なるご迷惑をおかけしています。
申し訳ありません。
そして、いつもありがとうございます。

もともと私が会社員であった経験は、仙台の白百合短大(今は大学のみ)を卒業してからたった1年。OLとなったきっかけも、今は亡き担任の保井先生から呼び出しがあり伝えられた「就職をなさらないそうですね。お母様が泣いていらっしゃいます。」

この一言こそがきっかけでした。

私は短大に入ってすぐの頃スカウトをされ、当時ファッションビルの2階にオープンしたガラス張りのスタジオでVJ(ビデオジョッキー)のアルバイトをするようになり、好きな音楽とおしゃべりの世界を垣間見るようになりました。

しばらくして、FM仙台(今のDateFM)でレベッカのノッコさんをプロデュースした小柴大造さんのラジオ番組のアシスタントというかガヤに抜擢されたり
テレビ番組のレポーターをしたり、
CMを読んだり、
司会の仕事をいただくようになったり・・

そんなこんなで、フリーのアナウンサーこそが私の生きる道だと、すっかり思い込んでいたのです。

ところが、担任から伝えられた
「〜お母様が泣いていらっしゃいます。これまで育ててもらった恩に応えることも大切ですよ。もし夢が諦められないなら、働いてから考えて挑戦しても良いのでは。」
この言葉は、母が私に望む気持ちだとすぐに理解できました。

就職して、良きお相手を見つけて、すぐに結婚すること
それが幸せだと思い込んでいる世代です。

すでに同級生たちは学内推薦で就職活動は始まっており、今更どう動いて良いのやら・・

常に直感的?な私は、(OLになるならお酒の会社だな。)と思うのです。
すぐに、以前、夏まつりでアルバイトしたビール会社の人事の方に直接電話をして採用の相談をすると「今年は、自社で新卒募集はないが、洋酒部門は、明日が面接です。学校推薦はもらえますか。」との返答が。

明日面接!!?慌てた。
すぐに担任に相談をすると「学校からの推薦はすでに決まっているから出せないが、担任推薦を書きます。」と言って準備をしてくださり、翌日の面接に無事向かうことができた。

大手ビール会社の子会社ということもあり、1人の枠に多くの応募があったのは確かだ。結果「採用」となり、春からOL生活がスタートした。

後にも先にも正規雇用されたという経験は、この1年だけ。
上司や先輩にも恵まれ、決して嫌いな職場ではなかったが、そもそも会社員の体質が合わないと気がついたのは、入社から1週間も経たない頃だった。

この貴重なOL生活の、たった1年の中でも、今だから言えるやらかしてしまった裏話がある。

当時はWワークなど許されるご時世でもない中、土日の休みはアルバイトでDJをしていた。365日、ほぼ休みのない生活を送っていた。

なんとかして正当な理由を作って会社を辞めたい。
喋りたい。話したい。・・・

どうしたらフリーのアナウンサーになれるのか・・・

調べてみると、当時、東北新幹線「あおば」の名前がつけられた国鉄のコンパニオン「ミスあおば」出身のフリーアナウンサーで活躍している人がいた。

調べてみると、ちょうど「ミスあおば」のオーディション募集の最中だった。それも国鉄からJRに切り替わる大きな時代の転換に関わる任務があった。

家族や会社の皆に内緒で、すぐさま応募した。駅ビルの特設ステージで公開審査であったことだけは覚えているが、他は全て記憶からなくなっている。

私は、この日、5名選出されたミスあおばの一人となった。

振り返ると、ここがきっと、私の夢のスタート地点。

ミスあおば募集のポスター。真ん中に写っているのが私。

その日、家族を説得し、会社にも退職願いを出した。

たった1年のOL生活ではあったが、素晴らしい先輩たちとの出会いは宝物となり幕を閉じた。
(今でも当時の上司や同僚の皆さんとはご縁が繋がっている。)

そして、私のフリーアナウンサーとしての挑戦が始まったのです。

あれからナレーター・司会・ラジオパーソナリティ・リポーターと話す仕事を続けて40年ノンストップでジェットコースターのようなドラマありきの人生が展開されていく。

「bayFM開局で朝のワイド帯パーソナリティ決定!親を説得できないまま東京へ引っ越し。独り立ちを決行したはずが!番組は別の人が担当???」

「全ての運は味方した?難関シグマセブンでナレーター・声優事務所に所属決定!あれから34年」

「絶望からの朗報!!絶頂期ピチカートファイブの小西さんのラジオ番組アシスタント!!」

「恐怖!ワイドショーのレギュラーナレーションの生放送、本番直前なのに原稿まだ?」

「リーマンでレギュラー6本が無くなった。1,000万円から0円へ。」

「出産前後1ヶ月ずつの産休で、自分の立つ場所は自分で守り続ける」

まだまだタイトルが追いつかないほど出来事があります。

変わらず話すプロとしての仕事は研鑽していきたい。この辺りはまた別記事で書いていこうと思う。

スタジオで話し続ける私

そして、30年後の私は、起業を考えるようになっていた。

きっかけは、お客様から話し方・伝え方のトレーニングなどコミュニケーション研修のオファーを受けるようになってからだろうか。

人の成長に関わる仕事に、達成感も感じるようになった。
伝えたいことが話せる講演やセミナーが楽しいと思うようにもなってきた。
時はコロナの時代にも突入し、先手でオンライン講座にも取り組んだ。

オンライン時代到来「声で印象アップ」講座中

相談を受けることも多くなり、確実に自分の在り方が育成にシフトしていることに気がつき始めた。

50歳の時、住まいのある行政の起業塾に通い、翌年、屋号「FRONT.A」を起動。信用金庫の頭取フロアを改修した、行政のレンタルオフィスを3年という期限付きで借りた。
手応えは充分に感じるようになる。

次第に社員のマナー研修、社内人事面の人と人の連携や仕組みづくりといったコンサルティングの仕事を請け負うようになる。

国家資格キャリアコンサルタントの資格も取得した。

「これまで」「今」「これから」の個の働き方に着目しながら一人一人に併走できるコンサルタントでありたいと思う。

そして、2年前、57歳の時に会社を立ち上げた。
私はずーっと前へ進み続けている。

今年、50代最後の年を迎え、これからの人生を考え始めている。

正直怖いと思うこともある。
それでも、バブル時代から積み重ねたジェトコースター経験は、小さなことでは揺るがない気持ちの強さも武器になっている。

人生は、日々選択・・
そしてその先に「今」があるとつくづく思う。

後悔は、追われすぎてきて備忘録がないことだ。写真も動画も記録を残す意識が芽生えていなかった。

最近、noteは私の楽しみになっている。
「本を書く」その目標達成に向けて、これからは記録を残していこうと思う。

株式会社FRONT.Aの会社の設立日は、決して忘れないように、愛情いっぱいのバレンタインデーにした。

開業してすぐに、アクアイグニス仙台の人材育成と顧問のとしての役割も担っているため、復興のシンボルとなる宮城の施設で、皆が元気になることを願い、ひたすら走り続けています。

このステージも私の選択の一つであることは間違いありません。

そして思うことがあります。
改めて、私が私らしく仕事が続けられているのは、決して私を変えようとせず、いつも見守り続けてくれている夫・娘・息子の存在が大きいということ。
家族にも感謝をして、女性起業家のおばさんひよこは、今日も満身創痍で前へ進みます。 

株式会社FRONT.A




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