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一病息災という考え方

一病息災という考え方。
無病息災ではなく、一つくらい病気があった方がかえって健康に気を遣って結果的に長生きする。
みたいな意味らしい。

実際どうかは置いておいて、私はこの言葉について「一理あるな」などと思っている。
というのは、病気をした私は病院との距離が近い。
物理的ではなく心の。
ちょっと気になることがあるとすぐ病院に行くし、すぐドクターに相談する。
周囲の同年代の人々が病院に行きたがらないのを、首を傾げて見ている。
でも確かに、何年も病院に行ってないし、かかりつけ医も無いし、診察券も無いし、みたいな人が病院に行くのは相当ハードルが高いのだろうな、とも思う。

そもそも私が最初に病気をしたのは中学生の頃。
甲状腺の病気にかかり、長期療養を余儀なくされた。
若くして一生付き合うような病気にかかってしまって、今後先の余りある(と思われていた)人生、どう生きれば良いのだろう、と多感な時期真っ只中の私は考えた。
そして出会ったのが「一病息災」という言葉だ。
一つくらい病気があったって良い。
むしろこれだけの頻度で病院に通っているのだから、他に病気をしてもすぐに対処できるだろう。早期必見に繋がるかもしれない。
だから大丈夫。良いこともあるもんだ。
お守りのようにして、「一病息災」という言葉をそばに置いていたように思う。

そして30歳を過ぎたある日。
定期通院でとんでもない貧血を指摘された。
そのうち腎機能が下がりはじめ、これはやばいぞと大きな病院へ。
致命傷を食らったものの、なんとか「早期発見」の部類で大病の進行を食い止めることができた。
顕微鏡的多発血管炎という、変な名前の病気だった。

会社の健康診断は4ヶ月後。
もしここまで異変に気付かなければ命に関わっていただろう(実際は自覚症状もあったので、限界になったら健診を待たずに病院に行ってたかもしれない。それもそれでやばい)。

早めに異常を察知して、「この異常は放置しちゃいかん気がする」という感覚が養えたのも、多感な時期の私を悩ませた“一病”のおかげだったのかもしれない。
これこそが一病息災………。
20年越しにその言葉の意味を再認識するのであった。


………でも待てよ。
結局、一病だけでは済まず、違う病気にかかったのだ。
早期発見できたとはいえ、これまた一生付き合う厄介な病気に。
あと腎臓がやばい。透析一歩手前。
現状一病どころか、二病、三病になってしまったわけだが、果たして。

人生をはじめて30年ちょっと。
三病息災なるか。乞うご期待

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