心配するのではなく、祈る
誰かのことが心配なとき。
それは本当に相手のことを想ってのことか?
それとも、自分が安心したいだけなのか?
と考えてみる。
あの人は本当は何を考えているのだろうか。
あの人は本当はどういう気持ちなのだろうか。
そういうことを想像したくなることがある。
私にしてほしいことがあるのならしてあげたい。
だから相手のことを想像する。
それは良いことのように思える。愛情ある振る舞いのように思える。
しかし相手は、してほしいことが実際にあるのかもしれないが、それを私に言わないのである。それは相手が、今は言うべきではないと判断しているか、相手の中でもまだ思いがまとまっていないのかもしれない。相手にも相手のペースというものがある。
相手に「あなたが何を考えているのか教えて」と迫るのは、相手のペースを考えていない。それはたいてい、自分がはやく安心したいという理由でなされる、自分本位な行動である場合が多い。
こういうときに必要とされるのは、「祈る」ような心的態度だと思う。
あなたが何をかんがえているかはわかりませんが、
そしてこれからどういった結論に辿り着くのかもわかりませんが、
私はあなたが幸福であることをただ祈っています。
私に伝えるべきことがあったらいつでも伝えてください。
それに応える用意だけは、いつも整えておきますね。
この態度は「真実が知りたい」という欲求からくるものではない。
真実はどうあれ、あなたよ幸福であれという、相手のために祈るような態度である。
相手がなにも言ってこないとき。
一人の人間がそんな相手にできることなんて、極論、祈ることだけなんじゃないだろうか。
何が相手のためになるのかなんて、自分にも相手にも、本当のところはわからない。
しかしもし、相手が他ならぬ私に助けを求めてくれたなら。
それに応えることが相手を助けることになるのは間違いない。
それが一見、攻撃的な要求だったとしても、それも含めて「助けてほしい」という、私への依頼なのだろう。
我々は、求められたときにしか誰かを助けることはできないのだ。
CM
オンライン執筆教室を開催しています。
読みたい本がたくさんあります。