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他人の物差し

「表現する」一見シンプルな言葉な言葉に聞こえる。だけど近頃、表現することは年々と敷居の高いものになっている気がする。


僕は写真を撮るのが好き。

日常の風景や友達の一瞬の表情などといった自分が感動していいなと思ったその瞬間の空気や雰囲気を切り取ることができる写真が好きである。

それと同時に自分が感動していいなと思って切り取った瞬間をみんなに知って欲しいし、知ってもらうことでその人の考え方や感受性に少しでもいい影響を与えれたらいいな、と同時に思う。

それを知ってもらうにはSNSというのは本当に便利なサービスだと思う。投稿することでみんなに知ってもらえる。下手したら自分の身近の人々だけでなく、そのサービスを使用している世界中の人々に知ってもらえることもある。

一方でSNSが発達して利用する人々が増えたことにより、「表現する」ことの敷居やハードルが高くなった。

いわゆる「インスタ映え」という言葉も今となっては日常会話レベルで使う言葉になった。SNSのタイムライン上に表示される画像、自分が投稿する画像のほとんどは「映え」ていなければいけない。みたいな概念が定着しつつある。

映えていることによって、SNS上の自分は毎日が楽しく充実している風の自分を装って、自分の生活は楽しい・充実していると現実の自分に言い聞かせている人が多くて、
それを「いいね」の数で可視化できるから映えるものを投稿しなければいけない概念の定着を加速させているのではないだろうか。

投稿をするときに、自分はいいなと思ったけどこの投稿を見る人たちはどう思うのか。いくつこの投稿に「いいね」がつくだろうか。そもそも投稿しようと思っているものは「映え」ているのだろうか。みたいな何とも言葉に言い表せないような気持ちが邪魔をする。

でもこれってどうなんだろう。自分がいいなと思ったものは自由に投稿したいなと思うし、その投稿の全ては決して映えている必要はないんじゃないのかな。

多分、「映え」ている投稿や「いいね」が多い投稿の内容は何かしら共通点がいくつかあるんじゃないかなと思っていて、僕はそれらの投稿はどこな似ていて既視感がある気がする。だからそのような投稿を見ても新鮮味があまり感じられない。

人の価値観や感受性を測るのは難しい。
けど他人が自分にいいねする数でそれらが
可視化されたこと価値観などを測る一つの
物差しが生まれた。

いくら自分がいいと思っても他人の物差しで測るとそうでもない。他人の物差しによって
分かりやすくなったせいで自分がいいと思って表現したくても表現できなくなっていく。


でも表現することは本来もっと自由で人が何を思うかを気にせずに、それぞれが好きなときに好きなだけ表現して、好きなだけ共有していいものだと思う。

だから他人の物差しなんかで測らずに、もっと日常な些細なことでもいいなと思ったら表現していいと思うし、共有してもいい。

これからはもっと自由に自分がいいと思ったこと、好きだと思ったことを表現できる風潮になっていって欲しい。

そんな独り言です。
#note #エッセイ #写真#独り言

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