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なぜ束縛してしまうのか——占有願望について

(傷だらけの恋愛論 第十回)


占有願望は誰もが持っているものなのか

好きな人の目に自分以外の誰かが、自分と同等か、あるいは自分より優越した存在として映ることに耐えられない。それが恋する者の常です。そしてしばしば、恋する者は、愛する人を自分以外の対人関係から遠ざけようとするのです。

ということで今回は、「好きな人を独り占めにしたい」「束縛したい」というような占有願望がどうして芽生えてしまうのか、ということについて考えていきたいと思います。


まず恋愛以外の一般的な意味で、なにかを占有したいという願望は人間に元々備わっているものなのか? ということについて。

これはあくまで経験的な直感でしかないのですが、私の考えでは、独占欲は劣等感の裏返しです。例えば、幼少期から人に分け与えてもらったり、分け与えたりすることが当たり前の環境で成長した人は、強い独占欲を持つようになることは稀です(もちろん、可能性がないとはいいませんが)。一方で、他者からなにかを奪われたり、不当に誰かに独占された、という気持ちを抱えている人は、自身も独占欲を持つようになりやすいと思います。

問題は、普段から強い独占欲を持っているわけではない人でさえも、恋愛においては相手への占有願望や束縛願望を抱えることがある、ということです。それは、恋愛における独占欲というものが、日常における物やお金に対する独占欲とはまた違う様相を呈しているからです。恋愛における占有願望は、恋愛に巻き込まれていくことによって、その関係性の場から否応なく生まれてきてしまうものなのです。



恋の虜になることは、相手に従属すること

恋する者が頻繁に占有願望を持つのは、端的に言えば、まず自分自身が相手によって占有されていると感じるからです。言い換えると、相手に従属せざるを得なくなっているということです。

恋に落ちて、相手ののようになってしまった経験がある人は多いと思います。

例えば、相手からの連絡を待っているとき、そわそわして、他のことが何も手につかなくなります。「待て」をさせられている状態です。この時点ですでに、相手に対して従属していると言えるでしょう。

しかも、連絡が来ることでその従属関係が解消されるわけではなく、また次の新しい従属の機会がやってくるだけなのです。さらに次の連絡を待つことになるか、呼び出されて急いで駆けつけることになるか。どんな内容にせよ、結局のところ、自分自身の手で相手に従属するための場を確保しているのです。

それでも最初のうちは相手に従属する立場を受け入れようとすることでしょう。なぜなら、従順さを見せることによって、自分の懇願の意志をはっきりと相手に示すことができるからです。従順であることは単なる弱さなのではなく、ある意味で、最も強いメッセージを放つ行為なのです。


しかし、やがてこの不当な関係性に耐えられなくなるときがやってきます。具体的な例を考えてみましょう。

あなたは、好きな人にデートの申込みをしました。しかし相手は、「その日は予定がどうなるかわからないから、返事はもう少し待っていてほしい」と言います。あなたは仕方なく、やきもきしながら待ち続けます。やがて、相手から「その日はやはりどうしても外せない用事があって、抜けられそうにない」と返事が届きました。この相手の決定に、あなたは従うことしかできません。

しかもあなたはこのとき、自分が二重に従属していることを感じます。あなたが従っている相手もまた、なにか別の他者が絡む事情によって(つまり別の他者の決定に従属して)、彼自身の決定を下しているのです。

どのような事情があるのかまでは、あなたは知らされません。とにかく、あなたの預かり知らない遠い所でなにかの決定がなされ、それが相手を通してあなたのところに下りてきたときには、あなたにはなんの選択肢も残されておらず、すでに決定されたことを受け入れることしかできないのです。

上の方でなにやら決定されたことが、自分のところにようやく下りてきて、それにただ従うことしかできない、というこの経験によって、自分自身がヒエラルキーの最下層に位置しているかのように感じます。そのとき、この不当な仕打ちに耐えられなくなるのです。

この不公平さを解消したい。私があなたに隷属しているのと同じように、あなたも私に隷属すべきだ。こうして、誰の心にも占有願望と嫉妬という感情が芽生えることになるのです。



占有願望を手放そうとすることも占有願望のうち

そのようにして占有願望が芽生えると、冒頭で述べたような束縛行動に出るようになります。

しかし今度は、そうした自分の束縛が相手を窒息させていくということに気がつくはずです。

私は脆くデリケートで、恋の相手による隷属からなんとか逃れようとしていて、同情に値する人間だ、と信じていたのに、気づけば私自身が相手を押しつぶしている。そのとき私はいつの間にか、自分自身が脅迫的で、ねちっこく、要求の多い、醜い人間になっていることに気づくのです。

嫉妬するわたしは四度苦しむ。嫉妬に苦しみ、嫉妬している自分を責めて苦しみ、自分の嫉妬があの人を傷つけるのをおそれて苦しみ、嫉妬などという卑俗な気持に負けたことで苦しむのだ。つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並みの人間であることを苦しむのである。

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「嫉妬」


そうして、今度は二度とあの人を占有しようとするまい、と決意をすることでしょう。占有願望を手放そうとするのです。しかし、その「占有願望を手放す」という行為さえも、占有願望の裏返しなのではないか、という考えが頭をよぎります。

わたしはあの人を断念したふりをする。しかし、あいもかわらず(秘かにではあるが)あの人を征服しようと欲しているのではないか。わたしが遠ざかるのは、より確実にあの人を捉えんがためではないのか。〔…〕(最後の罠。一切の占有願望を断念することでわたしは、自分に「善きイメージ」を与える。そしてこのイメージに興奮し、うっとりとなる。わたしは恋愛体系の外へ出るわけではないのだ。〔…〕

同書「占有願望」

相手を占有しない、という態度を見せることで、「善いイメージ」を身にまとおうとすること。断念したふりをしながら、そうした自分の懐の広さに相手が心打たれるのを秘かに願うこと。このような、裏返しの感情とも言える非・占有願望が表れるのです。

非・占有願望は決して相手には知られてはいけない感情、いわば「すけべ心」です。つまり、それでは本当に欲望を手放したとはいえず、恋愛の情熱から逃れることができていません。私の中にはまだ苦悩と妄執が残ったままなのです。

わたしの脳裡には愛しています ju t’aime がある。しかし私は、それを唇の裏側に封じこめておく。わたしは発語しない。もはやあの人ではない者に、いまだあの人ではない者に、沈黙のままに言うのだ。わたしはあなたを愛することを堪えているのです、と。

同上



非・占有願望を捨て去るには

このようにして、非・占有願望にも欲望が注がれ続けるのです。それはいつまた占有願望に反転するとも限りません。

この表裏一体の占有願望を完全に捨て去ることはできないのでしょうか。不可能ということはないはずです。しかしそれはとても難しいことでしょう。

『恋愛のディスクール・断章』の著者であるロラン・バルトはこう述べています。

非・占有願望の占有を望まぬこと。(あの人より)来たるものは来たらしめ、(あの人より)去りゆくものは去らしめる。なにひとつ占有せず、なにひとつ排除せず、受け入れて保持せず、産み出してわがものとせず……あるいはまた、「完全な道にはなんのむつかしさもない。選択の回避ということをのぞけば」。

同上

カギ括弧の中の部分は老子の思想を出典としているようなのですが、ここでいきなり老子を持ってこられても、欲の捨て方がわからないから困っているのに「欲を捨てろ」と言われているようなものです。

しかし私はあえて、バルトの言葉を支持して、その意図を汲んでみたいと思います。彼はこうも言っています。

(なにやら正体不明の疲れのせいで)〔…〕いわば、ごく単純に、すわりこんでしまうのでなければならぬのだ(「なにもせず、平静な心ですわりこめば、春が来たり、草はひとりでに育つ」)。

同上

今度は、カギ括弧の中の部分は禅の思想が出典のようです。これら二つの文章を合わせると、こういうふうに読むことができます。

疲れてただ座り込むことしかできなくなったとき、来るものを拒まず、去るものを追わず、何も求めない心を知ることができる。何にもこだわらなければ苦しみもなく、あるがままの目の前の世界を味わい、愛することができる。なにも選ぼうとしない、ということだけが唯一のすべきことだ。


自分で書いていて思いましたが、これは、本当に大切なことです。

執着しない、ということは、なににも興味を持たないということではありません。むしろ、あらゆるすべてのものに興味を持つことなのだと思います。

恋に苦しむ人は少なくない確率で、来るものを拒み、去るものを追っているのです。なぜかというと、眼の前に現れるものは不完全に見え、逃れ去っていくものは完璧に見えるからです。しかしながら、第五回でも述べたように、「完璧さ」などといったものは存在しない幻想です。私から逃れ去っていくという欠点こそが「その欠点さえなければ完璧なのに」「もし私のものになったら完璧なのに」という幻影を見せるのです。まずそれを自覚することは大切なことだと思います。

そして、訪れるものすべてに興味を持ち、愛そうと努めるならば、もはや去っていくものに心惹かれることがあっても、それを追いかける暇などないはずです。

結局のところ、愛は、たまたま出会った物や人との関係性の中から見出そうとすることでしか見つかりません。


最後に、ジッドの『地の糧』という本から、私の好きな一節を引いておきたいと思います。

夕暮を、一日がそこに死んでいくのだと思って眺め、朝あけを、万物がそこに生れてくるのだと思って眺めよ。
君の眼に映ずるものが刻々に新たならんことを。
賢者とはよろずのことに驚嘆する人を言う。

ジッド『地の糧』(今日出海訳)



今回のまとめ

恋愛における占有願望は、恋に落ちることによってまず自分が相手に従属したように感じてしまい、その不当さに耐えられなくなることで芽生えるものです。

しかし恋する者は、嫉妬に悩み、自分が占有願望を抱えていることに悩み、相手を傷つけることに悩み、そのくだらなさに悩むのです。そうして、占有願望を捨て去ろうとするのですが、それでもまだ恋の病から抜け出したとはいえません。

非・占有願望さえも、恋愛の戦術の中に取り込まれてしまうのです。この表裏一体の欲望をまるごと捨て去るためには、「執着を手放す」「足るを知る」と言ったような禅の話にまでつながってきます。

ただ単純に「疲れて座り込んでしまう」とき、そういう心を知ることができるのだとバルトは言います。そしてあるがままに、来るものを拒まず、去るものを追わない、という心を持つことができるのだと。

なんとなく、わかるようでわからない説明です。これを読んで今すぐ実践できるというような話でもないので、余計に腑に落ちにくいかもしれません。

しかし私には、この話が実感として理解できるのです。実際、私は目覚めている間、ずっと疲れて座り込んでいるようなものです。私にはもう、十代から二十代前半の頃までのような、幻想を追い求めて奔走する体力がありません。でもそうなって初めて、ただ目の前に現れる世界をしっかりと味わおう、私のもとを訪れるものすべてを愛し、愉しみ尽くそう、という気持ちになれた気がします。そういう意味では、「疲れていること」も悪いことばかりではないのかもしれません。


もうひとつつけ加えておけば、嫉妬という感情については、前回の結論もなお有効です。名前のついていない、世界のどこにもない独自の関係性を作り上げること。ステレオタイプな関係をなぞっていると、自分たちの関係が「普通」からズレていることばかり気になって、嫉妬が生まれます。独自の関係性、独自の距離感で落ち着くことができれば、そういった悩みはなくなるはずです。興味があったらそちらも読んでみてください。



さて、次回は「恋文」についてなにか書こうかな、と思っていますが、詳しくは未定です。

最近、少し体調が安定しておらず、更新頻度が下がり気味です。すみません。いつも感想やスキをくださるみなさん、とても励みになっています。大勢の人に読んでもらうことよりも、たった一人でも私の文章を深く受け止めてくださる方がいることの方が嬉しいのです。いつもありがとうございます。

そろそろ気分転換のためにも、別のマガジンを始めたいところです。なにか妙案が思いついたら突発的に始めると思います。

というところで、今回はこのへんで。

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