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今村夏子『星の子』

今回もサクサク読めた。
巻末の対談にもあるように、今村夏子は「子どもの目に映ったことしか書かない」から、そこまで活字が得意じゃない私でも読めるのだろうと思う。

以前、『むらさきのスカートの女』についての感想を投稿した時にも思ったように、今回の『星の子』もずーっと不穏な空気が流れる作品だと思った。
主人公である「わたし」の目に映ったこと、事実は、子どもの「わたし」自身が歪みや違和感(マフラーが与えられない環境や、法要のご飯に異常なほどの期待をするところなどなど)にはっきりとは気づいていないから、「えっ」と思いながらも物語はどんどん進んでいく。

宗教を信仰している両親と、そこに大きな違和感を持たずに生きてきた「わたし」が、宗教の会員以外の他者によって違和感を覚えていく。
片思い相手の南先生と一緒に、両親が宗教上の行いをしているところを遠くから見る場面について、南先生は両親の行いや身なりを見て怪しいと捉え、生徒を守る教師になっている。
「わたし」は、好きな人である南先生とその場面を一緒に見ることで、ようやく、自分の両親への違和感の輪郭がはっきりしていっている。
その違和感の輪郭がよりはっきりしていく中、星の子の研修旅行で、「わたし」は両親になかなか会えないでいる。
巻末対談で小川洋子が、いよいよ「わたし」はこの宗教の世界から、両親から、離れていくのだろうなあと思わせている。読み手は書かれていない物語を勝手に作ってしまうというようなことを語っている(p.243)が、まさにそれ。私もそう思いながら読んだけど、個人的にははっきりとしない着地だった。まあそこがいいんだけどさ。

○よくわからなかったこと
なべちゃんの彼氏である「新村くん」について。
「わたしは新村くんのことを好きだと思った。」(p.179)とある。
新村くんがわたしの発した言葉をそのまま受け止めてくれたからだろうか。
前段階として、回転寿司屋でバイトする予定の新村くんが、自分にお寿司をおまけしてくれるって言ってくれたからだろうか。

○春ちゃんの彼氏について
春ちゃんの彼氏、いい奴。
好きな人が信じるものを一緒に信じたいという感情、この小説の中だとより真っ直ぐに思える。
そんな捉え方をしてしまうと、宗教を自分の固定概念で見ていることに気付かされて嫌な感じはするけど。
高校生で、自分の彼女が信じている宗教があるといったら怖気付いてもおかしくないのに、すごいなあと思う。高校生だからこそ真っ直ぐにそう思えるのかのしれないけど。

○ラストについて
「わたし」には流れ星が見えるけど、両親は見えていない。辛抱強く、父と母は「わたし」を挟んで、よりくっつきながら星空を眺めることに時間を費やす。
私はこのラストに希望は見出せない。
絶望でもないけれど。
家族は寄り添ってはいるが、結局は「わたし」と両親は同じものを見れていないのだ。
でも、「いつまでも星空を眺め続けた」とあり、それができるということは、同じものこそ見れないが、家族として向いている方向は同じなのかもしれない。

巻末対談で小川洋子が突っ込んでいたところ、私もすごい気になった。
「わたしが南先生に、公園にいた不審者が自分の両親だと言った時に、『氷細工みたいだった南先生の目の奥に、ぽっと明かりがともった気がした』
という描写」(p.238-239)のところ。
私はここを、「わたし」とドライブデートしたと生徒たちから勘違いされている南先生が、「わたし」への苛立ちがある南先生が、「わたし」の弱みというか、不審者と捉えられるような両親がいることの恥ずかしさを、南先生が発見したから、中ばラッキーみたいな、弱みを握ったみたいな気持ちで明かりがともったのかなとも思っていた。小川洋子がp.239で「ひとつ材料をもらった」と表現しているように。
まあ明かりがともった後に、南先生の目も顔もどんどん赤くなるのだけれども。
巻末対談の今村夏子の話から、あのシーンは、南先生が恥をかいたシーン、「先生が生徒の前でいい格好をしたが、それをちひろが『先生が私たちを守ろうとやり過ごしたあの不審者は私の親なんですよ』」(p.237)ということで、先生があの行動は何も役にたたなかったとわかって恥ずかしくなり、それが怒りに移り変わるシーンだと整理できた。

小川:「今村さんの小説を読むことは、『星の子』の「わたし」や、あみ子の声を聞いているという感じなんです。彼女たちが声なき声で喋っている、それに耳を澄ませているような体験なんです。それは書き手が語り手の目に映ったものしか書かないということに徹しているから、語り手の声になって届いていてくるんだと思うんです。余計な雑音が入ってこない。」(p.235)
これに尽きる。

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