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アムリタを読んで。~神様の飲む水~

この前のトークショーで知った、吉本ばななの「アムリタ」を読了した。
久しぶりの小説だったが、とても面白かったし、素敵な文章が沢山あった。

内容はざっくり、あらすじを読んでもらえたら分かると思う。

かなりスピリチュアルな内容だった。
私は初めて吉本ばななの本を読んだので、そういう作風の作家なのかと思ったほど。
ただ、あとがきに「後年、自殺を考えていた時期を振り返ると該当する時期がアムリタを書いた時期だった。精神的にも肉体的にも疲弊していた。※概要」と書かれていたので、合点した。
恐らく、作者自身の心情や考えを反映した作品なのだろうか。

私自身は霊感や第六感はないけれど、パワーストーンや色、迷信。
”昔の人が確実に存在していた場所”で当時の人が見ていたであろう景色や空の色、風、匂い、音を感じて見て、彼らの気持ちを想像するのが好きなので、スピ系は割と好きだと思う。
ここで私が言っているのは、城や神社、寺、跡地、自然。そういうモノです。

主人公の朔美、弟の由男、彼氏の竜一郎、竜一郎の友人夫婦のコズミくんとさせ子。由男の友人のきしめんとメスマ。
他にも登場人物は沢山いるのだけど、上記の人物は全員第六感を持っています。途中から登場人物のキャラが濃すぎて、笑いながら読んでしまった。
そこも実は吉本ばななの作戦で、癖の強い人やシチュエーションの中に流れる日常を書きたかったらしい。
オチもしっかりあるし、誰かが消えても日常は続いていく儚さと美しさ、虚しさみたいなものが伝わった。
繰り返しになるけど、とても美しい文章が多く、散りばめられていたので、それだけでも、読む意味があると思った。
今回は、私自身が登場人物たちと近い経験をした話と、作品の中で素敵だと感じた文章を紹介したいと思います。

1.人生で一度経験したスピ体験

私は小学2年~5年の3年間、福岡に住んでいた。
この期間は短くとも、自身の思想や性格、好みを大きく形成したので、濃ゆかったし、今でも福岡という場所が好きです。

ある土曜日の昼過ぎ14時くらいだったと思う。
何かの用事で父は家におらず、母は家事をしていた。
私は弟を向かい合う形でダイニングテーブルに座り、お菓子か何かを食べていた。
丁度私の対角線上の部屋の扉が開いており、折りたたんだ敷布団の上に明治時代の恰好をした、燕尾服を着て高さのある帽子を被り、ステッキを持った男性がいた。大久保利信をイメージしてもらえたらいいと思う。
「えっ」と思いもう一度同じ方向を向くと、もうそこにはいなかった。
昼過ぎだったので、部屋は明るく、シルエットが確実に見えていた。
弟も丁度、同じ方向を見ていて、そのシルエットを目撃していた。
最初は不審者がいると本気で思い、母に話し、3人でその部屋を探したが、もちろん不審者なぞ、おらず。
そのままその会話は終了した。

その数日後。
学校から帰り、お風呂に入った後、リビングでだらだらしていると、私の部屋の開けていた扉の向こうに、中年男性のシルエットが見えた。
全身グレーのスウェットを着ていて、肘をつき顔を固定しながら、寝そべる姿勢でテレビを見ている。
隣にはビールが置いてあって、何かつまみものを食べていた。
この前の明治時代の恰好をしたおじさんのシルエットが見えた時間より長い時間、そのシルエットがいた。
時間にすると30秒ほどだろうか。
気になって、部屋に入ると、何もいなかった。
どちらも顔は見えていない。

すぐに母親に話をすると、この前の見えたことも合わせて「それは父の父(私の祖父)と父の祖父(私の曽祖父)かもしれないね」と話した。
曽祖父は戦死したので、父は会ったことがないし、祖父も父が大学生の時に亡くなっているので、会ったことがない。
2人とも写真の中でしかみたことがない。
また母はこう続けた。
「初めての転勤だし、上手く生活しているか、元気にしているか、見に来たのかもしれないね」
だったら、父がいるときにきてくれればいいのに、少し照れ屋な祖父なのかもしれない。
思えば、祖父は単身赴任先で病気に倒れ、そのまま亡くなったらしい。
亡くなる半年前、父が大学1年で上京した時に、合わせて来て、キャンパス近辺を散歩しながら、「ここで過ごしていくんだね」と会話したそうだ。
だからこそ、家族を連れての転勤とはいえ、知らない土地で元気にやっているか心配だったのかもしれない。
だけど、テレビを見ているシルエットだったということは少なからず、心配は解けて、安心してくれたんだろうか。
これも全て、生きている私たちの都合のいい解釈とされれば、それまでだけれど、言ってしまえば幽霊を見たことになると思うけれど、心温まる出来事になった。
アムリタの作中でも、第六感を持った登場人物たちが体験するのは上記のような心温まる出来事ばかりだ。

それ以降、私はこのような体験をしていない。
心配ないことが分かったから、安心したのかもしれないし、私自身が成長して、大人になってしまったのかもしれない。
父を始め、家族全員幸せに暮らしているし、健康であるので、安心していて欲しい。

2.アムリタから流れる美しい言葉

彼女は確かにとんちんかんな人だったが、いつも自分で決めた。
自分で決める力が必要以上強い人だった。
服も、髪型も、友達も、会社も、自分の好きなことや嫌いなことも、どんなささいなことでも。
それが積み重なって、後に真の「自信」というフィールドをかたちつくるような気がしてならない。

アムリタ・上巻

自分の行動に責任を持つことに気づくのが早ければ、早いほど、人生は充実して、濃いものになると思う。
私がこれに気づいたのは高校3年生の時だ。
だから、私の高校生活は楽しいものではなかった。
それまでは他責にして、悪いものや失敗は全て人のせいにしていたからね。
でもそれに気づいて、以降は自身の意志で決めることにして、ここまでやってきた。
今、まさにひとつの決断をしようとしているけど、それまでのことで「自信」がついているのは大いにあると思う。
というか、自分の場合、どうにかなるだろう、と思えるようになった。
事実、自身で決めて行動してきて、もちろん失敗も多くあるけれど、どうにかなってきたからだ。
この文章は人生の教訓にしたいほど、端的で美しく、強いことばだ。

ある種の愛が家庭を存続させるのに必要なのよ。
愛ってね、形や言葉ではなく、ある一種の状態なの。
発散する力のあり方なの。
求める力じゃなくて、与えるほうの力を全員が出していないとだめ。

アムリタ・上巻

これは私の理想の家族の状態だ。
紆余曲折あったものの、自分の家族や祖父母も同じ状態だと思う。
まさにギブしている状態が必要なんだと。
テイクして受け取るだけではなくて、自身が与える続けていかないと。
与え続けることってとても難しくて、一瞬の気のゆるみで無くなって、均衡が崩れてしまう。
意図して、続けるのは、努力も必要だ。
でも、私は与え続けている。自負がある。だからこの文章を読んで、自信が湧いた。
そして、与え続ける愛で、その愛が強固になることも知っている。
例えば、いつかのnoteでも書いた遠方に住み、ラインをしていないため、頻繁に動画や写真を送れない祖母に向けて、私は月に1度程度、手紙を送っている。手紙といっても最近の写真を現像して、裏面に近況を書いて、送るのです。
最初は何も還元できていない祖母に対して、今までの贖罪の意味を込めてやっていた。存在するだけで許される以上の愛情と富(お小遣いやプレゼントという意味で)を享受してきたのに、何もしないのは失礼だと思ったから。
所謂自己満だと思う。正直今でもまだ自己満でやっていることだと思う。
それでも写真を入れるファイルを同封して、継続してやってきた。
途中からは意地でもあった。
数回で辞めてしまえば、「何回かやれば満足だと思うだろう」私自身が思っているとされることを懸念していた。
実際、自分は文章を書くことが好きだし、特に手書きの方が電子より愛情が伝わると思う。
ある時、祖母と電話をした。
私のこの手紙が生きる希望になっているそうだ。
冗談だとしても、自分自身を求められているような気がして、嬉しかった。
もっとこれからも私の見たことを写真にして、私の文章とともに送っていく。

安達茉莉子さんが前職で疲れていた時にアムリタを読んですうっと大事なものが流れていく感覚がしたと話されていた。
アムリタとは「神様が飲む水」という意味らしい。作品中に書いてあった。
だから、神様が飲む水のように読者の身体に流れていくのだ。
2002年に書かれた本だから、約20年間。
大勢の身体に流れたアムリタは今後も多くの人を潤していくんだろうか。
スピ内容もあって、体力を使うから、元気な時に読みたい本ではあるけど、
枯れている時に読む方がアムリタはとてもよく染み渡ってくれるとも思ったりなど。



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