ことハの独り歩き 2016/04 103枚 1/3
やまさとは ふゆそさみしさ まさりける 人目も草も かれぬとおもへは
【ことハ (ことは)】 名詞 固有名詞 人名 日本人名 日本人の女の子 18歳 京都市在住 大学生 国文科一回生
【彩矢(あや)】 名詞 固有名詞 人名 日本人名 日本人の女の子 17歳 京都市在住 大学生 国文科一回生
ことハの彩矢
【ことハ】+【の】+【彩矢】
【の】助詞 格助詞 連体格をあらわす
1 場所を示す 「大空の月、ことハの彩矢」→「大空にある月、ことハにいる彩矢」
2 時を示す 「宵のもの思い、ことハの彩矢」→「宵におけるもの思い、ことハの時における彩矢」
3 位置・方位を示す 「みやこの北西、ことハの彩矢」→「みやこに対する北西、ことハに対する彩矢」
4 向かっていく時・所を示す 「京のつとに、ことハの彩矢」→「みやこへのつとに、ことハへの彩矢」
5 対象を示す 「夫の操縦法、ことハの彩矢」→「夫についての操縦法、ことハについての彩矢」
6 所有者を示す 「晋文公の夫人は繆公の女ぢゃ、ことハの彩矢」→「晋文公もっている夫人は繆公もっている女ぢゃ、ことハもっている彩矢」 「あなたのものは私のもの、私のものはあなたのもの」→「ことハのものは彩矢のもの、彩矢のものはことハのもの」
7 所属を示す 「本校の生徒、ことハの彩矢」→「本校に属する生徒、ことハに属する彩矢」
8 同格を示す 「若き女の年二十余ばかりにていと清げなる出で来たり、ことハの彩矢」→「若き女で年二十余ばかりにていと清げなる出で来たり、ことハで彩矢」、「弟の三郎、ことハの彩矢」→「弟である三郎、ことハである彩矢」
9 原料・材料を示す 「白たえの袖ふりはへて、ことハの彩矢」→「白たえでできた袖ふりはへて、ことハでできた彩矢」
10 資格や置かれた状態・状況を示す 「博士の称号、ことハの彩矢」→「博士という称号、ことハという彩矢」、「入ったばかりの新人、ことハの彩矢」→「入ったばかりである新人、ことハである彩矢」
11 固有名詞による限定を示す 「大和の国、ことハの彩矢」→「大和という名の国、ことハという存在の彩矢」
12 思い浮かぶもとを示す 「天神様の北野、ことハの彩矢」→「天神様といえば北野、ことハといえば彩矢」
13 体言・形容詞語幹・副詞・句などの属性を持つことを示す 「忘れじの行く末まではかたければ、ことハの彩矢」 → 「(あなたが)忘れじという行く末まではかたければ、ことハという彩矢」 「あなむざんの盛長や、ことハの彩矢」→「あなむざんな盛長や、ことハな彩矢」
14 形式名詞に先立ってその実質・内容を示す 「御心ざしの程は見ゆべし、ことハの彩矢」→「右大弁の子のやうに思はせて、ことハの彩矢」
15 比喩を示す 「花のパリ、ことハの彩矢」→「花のようなパリ、ことハのような彩矢」
(多く、和歌の序詞の技法)上の語句の内容を比喩・例示とするもの。…のように。万葉集[2]「樹この下隠りゆく水の吾こそ増さめ御念ひよりは」。万葉集[5]「鳴きゆく鳥の音ねのみし鳴かゆ」。源氏物語[夕顔]「例の急ぎ給うて」
「ノンフィクション」と「フィクション」のちがいは、言葉というものが、「指示するもの」であり、かつ、「指示されるもの」が存在するか、しないかということに等しい。「ノンフィクション」はこの「指示するもの」と「指示されるもの」の関係がしっかり成立している場合であり、「フィクション」とは「指示されるもの」が不在の場合をいう。つまり、「フィクション」とは、「指示するもの」のみによって成り立っているのである。いわば、「不在の指示」であり、「空虚の指示」であるのだ。
あるいは、こうもいえる。
「フィクション」においては、「ノンフィクション」のように、事実、そこに、「客観的」に存在するものを「指示されるもの」として指示しているのではなく、読者の頭のなかにある「それ」を「指示されるもの」として想定しているのである、と。
とはいえ、もちろん、「フィクション」と「ノンフィクション」をきっぱりと二分してしまうことができる明確な境界線というものが、歴然と存在しているわけではないことは、いまさらいうまでもない。ことに「フィクション」においては、巧みな詐欺師が「虚」と「実」を巧緻にまぜあわせて自分をつくりあげるように、「指示されるもの」がない「空虚な指示体」と、「指示されるもの」がある「充実した指示体」がモザイク状に、キメラ状にまざりあい、構築されている。そして、「ノンフィクション」においても、「客観的」な事実を指し示す事実体、「充実した指示体」のなかに、ひたひたと、あたかも目に見えぬ地下水脈のように「空虚な指示体」がしのびこみ、読み手の脳みそに浸透してくる。著者の思想、すなわち、世界をそのように観じる著者という存在である。……
だとすると「わたし」はどっち?
【ことハ】は、【彩矢】は?
ことハのものは、彩矢のもの。
彩矢のものは、ことハのもの。
あしひきの やまとりの をの したりをの ながながしいよをひとりかもねむ
この世界に存在するもの、起こること、すべてに理由はない。ただ、理由を編みだしてしまうのが、人間ってやつなのよ、困ったことに、ね、ことハ。もっとも、わたしは、理由なんて……。
【ことハ】
【彩矢】
名前というものも、「指示するもの」であり、事実、ここにこうしている、ある肉体、ある存在を指し示している。
つまり、つねに「指し示すもの」であるという意味において、名前というのは、そのものは、つねに空虚なものであることをよぎなくされる。名前そのものが、「客観的」にもいまここにこうしている、肉体、存在であるのではないから。それは、結局、「ノンフィクション」といえども、そのものは「コトバ」という「空虚な指示体」によって構築されているという事実にひとしい。いくら「指示されたもの」である「客観的」事実や「客観的」な物や「客観的」な人が存在していても、それは、つねに、「コトバ」の外側に存在しているからだ。ただし、ときとして、こんな「指示するもの」にすぎない名前が例外的に充実したものであることがある。
ひとつは、「フィクション」における名前。それは、満たされている、「コトバ」という空虚なものによって、めいっぱい。物語で語られること、小説で描写されること、そしてそれをひもとくこととは、たとえば、それは作者によって【ことハ】という名前につめこまれた「コトバ」を、あたかも【ことハ】というラベルが貼られたカンヅメ、しかもタイムカプセルにも匹敵するカンヅメの蓋をあけ、ときにそれはとてもここちよい作業であったり、ときにはむりやりこじ開けなければならないようなこともあるけど、そのカンヅメの蓋を開け、目の前に、ぶちまけること。あ、「ブチマケル」なんて、なんか、下品でぶっきらぼうな言い方だけど。
そして、もう一つの例外、それは、死者の「名前」。死者の「名前」も、生きている者の記憶や時には「伝記」という形式をかりた「コトバ」によって満たされている。そこにはすでに「客観的」事実は存在せず、いぜんその肉体が存在していたというむなしい「過去形」でかたるしかなく、それらはおもにただ「指示するもの」でしかない「コトバ」によって語るしかなく、結局、彼女の存在を保証するのは「むなしい指示体」である「コトバ」でしかなく、「コトバ」しか存在しないが、それでも、「コトバ」によって満たされているのだ。
生きている誰かを「物語」にするとは、「小説」にするとは、つまり、「死者」とひとしい地位に彼女を落としこめることである。
生きながらにして地中に埋葬され生き仏としてミイラとなった僧侶たちとおなじで、生きながらにしてカンヅメのなかに密封しちゃうことにひとしい。もっとも、生き仏の場合は本人の意思によるが、「小説」のばあい、本人の意思なんかには関係ないし、許可なんて、いらない。
つまり、わたしが、この生きている「わたし」を「物語」にする、「小説」にするというのは、生きながらにして、「わたし」を埋葬することなのだ。
いきながら棺桶に入れ、墓穴に入れ、身動きのとれないそのからだのうえにゆっくりと「コトバ」の土をふりかけて、じわじわと、「彼女」を殺していくこと。
そうね、誰かは言った、
「わたしの書く事への情熱は、死への恐怖である。この私という存在が、死によって、ちゃらにされてしまうこと、なかったことにされてしまうこと、この世界から永遠に消しさられてしまうこと、すなわち、無への恐怖である。私がここにこうして書き留めることによって、私は、絶対的な死と宇宙の根源である無にたいして、ささやかな抵抗をこころみているのだ。書くことによって、私は、死と無の目を盗んで、ささやかな生を、私がたしかに生きてこの世界にあったというかすかな痕跡を、しかし私にとっては偉大な証を、残そうとしているのだ。」
そうなの?
わたしは「わたし」をゆっくり、埋葬していく。書くことによって……
そして、最後のコトバをおいたとき、「わたし」の埋葬の儀式が完結する。
【ことハ (ことは)】 名詞 固有名詞 人名 日本人名 日本人の女の子 18歳 京都市在住 大学生 国文科一回生
【彩矢 (あや)】 名詞 固有名詞 人名 日本人名 日本人の女の子 17歳 京都市在住 大学生 国文科一回生
【コトバの独り歩き】 コトバが、その本来の意味や役割をこえて、勝手に、なにかをはじめること……。
そう、だから「わたし」は、このカンヅメをあけなければならない。こじ開けてでも、開けきらなければならない。あくまでも、抵抗するというのなら、ねじ切ってでも。……こうやって……夢みるようにやわらかな、彼女のしろい、ながい首を、こうやって………しめあげ、くしゃくしゃにしたように………
書くこととは……やはり、わたしにとっては埋葬にひとしい。あるいは、大空を自由に舞う小鳥の羽根を、いちまい、また、いちまい、と、もぎとっていくこと。
ここにならべられたコトバは、そんな小鳥の羽根なのなのだ。
わたしがここに、ひとつ、またひとつとコトバをおいていく毎に、空を舞うわたしの小鳥はいちまい、また一枚と羽根を失っていき、……やがて、すべての羽根、すなわち翼をもぎとられたまるはだかの不具な小鳥が、墓穴の底へと、一切の光のとどかない、冥界の底へと墜ちていく。コトバとは、異羽であり、その意味は、「おおぞらを舞うための常の羽根ではない、異なった目的のための羽根」、ということ。
だから……
こんなことは珍しくない。
彩矢がことハを射る。
矢が、空をとぶ鳥を射る。
放たれた矢が、大空を舞う小鳥のハートを射貫いてしまう、なんてことは………。
「不具な小鳥のものがたり」
「不具な小鳥」とは、翼を失った小鳥のこと。
とうぜん、以前のように、大空を舞うことはできない。
だけど、天女のように自由だったあの頃のことを懐かしんでいるのか?
いまの不具を悔やんでいるのか?
悲しんでいるのか?
明け暮れ、悲嘆しているのか?
みにくい、不具な小鳥。
みにくいのは羽根を失ったから。
そう、その羽根はただ大空を舞うためだけのものではなく、自分を飾るためのものでもあった。
【ことハの彩矢】
そして、いちまい、またいちまいとむしりとられた虚飾の羽根が、いま、ここに、虚飾の異羽となってならんでいく。
こうしてわたしは「わたし」の埋葬の儀式をすすめていく。
虚飾の異羽を、手順どおりに、「ものがたり」という手順にしたがって、ならべたてていくことによって。しずかに。おごそかに?
ううん、それはない、オゴソカ、なんて。
むしろ、陽気に。
あらざらむ この世のほかのおもひでに いま ひとたびのふあこともがな
異羽をならべていくことで、カタチづくられてしまうものがある、カタチづくられていくことがある。勝手に。わたしが望むと望まないとにかかわらず、……むしろ、望まないほうに。大空を舞う自由な小鳥からむしりとった 羽根なのに、異羽なのに、だから、むしろなのね?
異羽がかさなっていくにつれて、こんなふうにどんどん「わたし」の自由はちぢこまっていく、狭くなっていく。ある異羽が、次の異羽をつれてくる。当然のように。そんなふうに「わたし」はどんどん包囲されていく。異羽によって、「わたし」がどんどん決められ、カタチづくられていく。大気のようだった「わたし」は、包囲され、狭まり、小さくなって、締めあげられ……最後に、「わたし」は窒息してしまう。彩矢のほそくて、白い指。親指、ひとさしゆび、中指、クスリユビ、小指……みんな、すきだった。足の指も。
ふたりはおたがいのクスリユビをくちにふくんで微笑みあった。
いつか、結婚指環をはめるユビ。
あまい、ことハの指。
あまい、彩矢の指。
目をとじて、……うっとり……かんじあった。
とろけそう……
うん……
だれかが言って、だれかがこたえた。
ううん、わたしか彼女か。どちらでもよかった。
舌のうえでユビがとろけてくちのなかにおたがいの気持ちやエッセンスがひろがり、とけあっていた。
かのじょか、わたしか。ちょっと、指を前後にうごかした。
わたしか、かのじょか。ちょっと、くちびるで指を締めあげた。
いやん、ヤらし。
ふたりは笑いあった。
わたしか、かのじょか。ちょっとあいての乳首をつまんだ。
かのじょか、わたしか。ちょっとあいての乳首をつまみかえした。
「やん、もぉ」
また、ふたりは、笑いあった。
「ことハのものは彩矢のもの」
「彩矢のものはことハのもの」
どちらかが言い、どちらかが言いかえした。
くすくす……ふたりはまたわらいあった。
ことハのとろとろのあまいエッセンスのからまったクスリ指。
彩矢のとろとろのあまいエッセンスのからまったクスリ指。
ふたりはユビとユビをなめあった。しゃぶりあった。
ことハの好きなことは彩矢の好きなこと。
彩矢の好きなことは、ことハの好きなこと。
かのじょの好きなことはわたしの好きなこと。
わたしの好きなことは、彼女の好きなこと。
こうして描きすすむにつれて、異羽が、どんどんわたしを息苦しくする。 「わたし」を囲い、「わたし」を限定し、「わたし」の首を絞めてくる。
「生きるのに飽きちゃった。あと、何十年うちは生きるのか知らないけど、あとは、ヒマつぶしのためにに生きるだけ」
彼女が突然そう言った。
とろとろに、とけあっていた。
彼女のとろとろの体液がわたしのいたるところにからみつき、わたしをとろけさせ、わたしのトロトロの体液がかのじょのいたるところにまとわりつき、彼女を融解し、ふたりのエッセンスはまざりあい、とろとろにとけあっていた。だから、かのじょの言葉は、まるで、わたし自身の肉体から、白い喉から、声帯からはっしているようにわたしのこころに響いていた。
でも……なにか居心地わるかった。わたし自身の言葉なのに、まるで、べつの誰かがのりうつっているかのように。
だって………
一七の女の子が、「生きるのに飽きちゃった」なんて。
傲慢で、フソンで、世間知らずで、なまいきで、……
「あなたに、この世界の、なのがわかってるん?」
そう言い返してやりたかった。
でも、そんなことを思う、わたしこそ、傲慢で、フソンで、無知で、生意気で……。
そう、わたしに彼女のなにがわかってるん?
それに、人が生きたり死んだりするのに、この世界のすべてを理解したり、わかったり、そんなことをする必要はなかった。彼女の知らないことはこの世界にわんさとある。おなじように、わたしの知らないことも、まけずおとらず。そんなのすべてのことをだれも知る必要はないし、知ることだってできない。知ったところで、どうしようもない。わたしの知らない世界で、なにがおきていようと、わたしはまったく知らないのだから。たとえば……あなたのこころのなかでなにが起きているか、なんて、わたしにはわからないし、知る必要もなかった。この世界のことすべてを知った気になって、はしゃいでる人はわんさといるけど、そんな人たちこそ、自分の無知をよく自覚するべきだ。
とにかく、彼女は、飽きちゃったんだ……かのじょが……自分が生きる、ということに。生きている、彼女のこの世界に。いいえ、ジブンジシンの、生に。
彼女が知らないたのしいことや、おもしろいことや、うきうきすることや……たしかに、生きることに飽きた、なんていわなくてもいいすてきなことはほかにもまだまだいっぱいあったかも知れない。でも、彼女は、飽きちゃったんだから……飽きちゃってたんだから……しかた、ナ、カ、ッ、タ………
わたしは彼女をだき、わたしと彼女は、ながいキスをかわした。
ぬれたくちびるとくちびるが、まだ、くちびるの薄皮はおたがいから離れたくないねってねっとりからみあったままだったその瞬間、わたしはすこしだけ、彼女のことが理解できた気がした。たとえ、わたしの、傲慢で、フソンで、無知で、身勝手な、思い込みだったとしても。
くちびるとくちびるは隔たってしまい、そのかわり、目と目が焦点を結びあうもっともちかい距離にきたとき、かのじょはうっとり、ほほえんでみせた。くちびるとくちびるが隔たってしまったぶん、彼女のまなざしとわたしのまなざしとがつよく結ぼれあっていた。
「生きるのに飽きちゃった」
また、彼女はくりかえした。
うれいも、かげりも、嘆きやかなしみもなく、あっけらかんとしていた。
わたしは………、しらずに、微笑みかえしていた。
困った、わたし。どうしていいかわからないとき、どんな反応をしたらいいのかわからないとき、わたしは、そんなわたしを隠しとおすためにこの微笑みの仮面をかぶる。ほんとは、泣きだしたいほど困惑しているのに、それを相手に隠しとおすために。
彼女は、わたしの輪郭をたしかめるように、指の腹で、うなじから肩へとたどっていった。
とけあっていた、とろとろのエッセンスのようだったものに、彼女の指が輪郭を与えていくようだった。彼女とは、べつべつの、わたし。肩から胸、乳首へと……彼女の指は、わたしのおんなを描きだしていった。
でも、ほんとうにわたしに輪郭をうみつけたのは彼女のあの異羽だったのかも知れない。
「うちは、まだ、飽きたなんて……」
わたしは後ろめたいおもいにおびえながら、ただその後ろめたさを悟られないように、ぼっそり、つぶやいていた。
彼女へのささやかな抵抗? 自分でも、ムダだってわかってるのに? それとも、うみつけられた、輪郭への抵抗?
そして、……そのあとに……しぜんにおくそこからわきあがってきた異羽を、ぎゅっと、口をつぐみ、ぐっと、のみくだしていた……おしかえしていた、もとの、わたしのおくそこに。……だって、あまりにも、おセンチなセリフ……いまどき、どこのヒルメロだってこんなセリフ、耳にできない……。でも、わたしには、とっても、たいせつで、せつない思い……
のみくだされ、おしもどされた異羽は、ふたたびわたしの肉のなかに、混沌のなかにとけまぎれていき、やがて、思いもよらず、涙になってあふれだした。
異羽は、いつも、大気のなかに結晶したがっている。どんなにささいな、無意味な、かがやきのまったくない、みすぼらしく、あわれで、とるにたらない異羽であっても、ひとたび、人のおくそこの混沌のなかからうまれると、いいえ、ひとたび、うまれでようとする気配がうまれるだけで、異羽は、大気のなかで結晶し、大気をふるわせ、かがやき、はばたきしたがっている。
だから、無理矢理、ふたたび混沌にとけこまされてしまった異羽は、べつの結晶となってこの世界にうまれでてくる。
ときとして、こんなふうに、涙となって、わたしの頬をつたって……
異羽を、かんぜんに絞め殺すことなんて、沈黙させることなんて、できない。
でも……すべての異羽にこんなちからがあるわけじゃない。
彼女は、無表情に微笑みをうかべて、あえていえば不可解そうな無表情な目で、わたしをみて、首までひねった。
いつも、そう。
かのじょは、彼女が理解できないわたしを見るとき、この目で、この無表情な目で、見るのだった。「お人形さん」、みたいな目、表情……いいえ、人形のほうが、まだ、ゆたかな表情にあふれている……でも……あたたかい目だった。
そして、ゆっくりとよい香りのするくちびるをちかづけると、わたしの涙にキスして、そのまま、舌さきでなめとりはじめた。
「やん、もぉ」
わたしは涙をぬぐって、笑った。
「だって、ことハ、泣いちゃうんだもん。どうしてか、彩矢にはわかんないまま……彩矢のこと、ほったらかしで……」
そうよね、彩矢。泣くっていうことほど、わたしが「わたし」の混沌の井戸の奥底深くにとじこもって、ひとりぼっちで、そのくせひとりよがりな行為はない……
つづく
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