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ことハの独り歩き 2/3

 木曜日、彼女はおおきな弦楽器のケースを肩にかけて授業に来ていた。
新入生の第一外国語の席順はA、B、C順で、彼女はわたしのとなりだった。
 あたらしい生活がはじまり、その生活の舞台で知りあいが誰もいない不安や、そのいっぽう、あたらしい出会いへの期待を懐いているものどうし、彼女からか、わたしからか、どちらともなく声をかけて、すぐにわたしたちは仲良くなった。……いいえ、最初に言葉をかけたのはきっと、わたしのほう。なんで……? わたし、ったら……わらっちゃう、……。
 あとでわかったことだけど、彼女は、内部生だった。いわゆる、エスカレーター。幼稚園から、ずっと、大学まで。いっぱいともだちがいてもいいし、知りあいがいるはずなのに、大きなチェロのケースを背負って、彼女の姿は孤独に見えた。
 つややかな、ひとの体の曲線をうつしとったような紫色のチェロのケース。
 ただ、人のからだの曲線をうつしとっただけではなく、なにかぬくもりのようなものまで、わたしは感じた。孤独な彼女が、安心して心を許せる、ただひとつのともだち。授業と授業のあいだのいどうのとき、キャンパスをうめつくす人混みのなかで、こどくなこころをもった彼女とチェロのケースは、たがいのぬくもりをかんじあいわけあいながら、寄り添っているようにさえ見えた。そんな彼女の姿が、やっぱり孤独なわたしのこころをきゅん、って……させたのかも、なんて。
 内部生であるのに、彼女は、内部生をきらっていた。自分が内部生であることをはずかしくおもっていた。
 「3、6、3、3、4、合計十九年も、井の中のぬるま湯につかってる連中」
 内部生のこととなると、これが彼女の決まり文句だったけど、そんな「連中」といっしょにされたくなかったのだろうし、いっしょじゃないって言いたかったのだろうし、いっしょじゃないと思いたかったのだろう。なにかというとちゃらちゃらと群れをつくって自分たちだけのせまい世界にとじこもっているような閉鎖的な内部生から彼女は浮いていたし、かといって、外から進学してきた入試組からも浮いていた。
 ただ、浮いている、といえば、わたしもにたりよったり。一般入試ではなく、推薦入試だったわたしも、内部生にはもちろんとけこめず、一般入試の学生たちともなにかへだたりを感じていた。もっとも、そんなへだたりは、ただ、わたしの個人的な思い込みにすぎなかったのだけど。でも、人は思い込みで行動するし、思い込みがひとの行為や行動をしらないうちに、しぜんに、規定する。
 チェロのケースに、嫉妬してた、わたし? うふっ、まさか……でも、あんなふうに……。
きっかけは単純。オリエンテーションも終わり、クラス分けがあり、最初の授業。キャンパスには、四月のあたたかく、あかるい、日射しがみちていた。ふと、みかけた……紫のチェロケース。わたしの前を歩いてる、女子学生。まばゆいオフホワイトのニットのセーター。華奢なうなじから肩の線。つばの大きな帽子。そのつばの蔭によりそう、チェロケースの頭。
孤独だったわたしは、そのチェロケースの頭を、人の頭だと、おもうともなく、でも、たわむれに、妄想してみた。
 いつのころからか、わたしは、なにげに、そんな妄想するクセがあり、そのクセが好きだった。そう、いま置かれている自分の状況から、ちょっとだけ、気をそらしたり、気楽になったり、余裕をもったり、たのしんだりするために。その日もそうだった、あたらしくはじまる生活、授業、人間関係……その他いろいろ、それはたのしい胸躍ることである反面、緊張や不安でもある。そんな状況からすこしだけ、逃避してみたかった……
 こんなふうに、彼女のあの背中に、つば広の帽子のかげに頬をよせられたら。
 彼女の、すはだのせなかに……。
 ほんの、たわむれの妄想。
 彼女はすはだの肩にやさしくチェロの頭を抱き……
 その彼女が、隣の席だった。

 運がなかったと、あきらめるしかなかった。ひどい、第一外国語の教師。まだ、三〇そこそこの、講師。あとでわかったけど、この大学では一、二をあらそうほどたちのわるい、サディスティックな、学生いじめがだいすきな男。いきなり、挨拶から、流暢な英語で、自己紹介と、授業の方針をスピーチ。それだけならよかったけど、つづけて、学生一人一人に、「なんでもいいから、自己紹介をかねたスピーチを、一人三分。もちろん、英語で」ときた。しかも、出席簿順では不公平なので、ランダムに。そして、つけくわえた、
 「だれか、先陣をきるものはいないか?」
 まるで陸軍学校かなにかみたいな言いまわし。
 こんなときって、みんな、虎を目のまえにした仔ウサギのように、どうぞ、わたしがヤツの目にとまりませんように、ってこころのうちに祈りながら、かしこまって縮こまって、かたまっているもの。でも、なかには、目立ちたがり屋がいるもので、しかも、志望大学に入学できて、やる気満々。手をあげ、指名され、やり始める。教室じゅうが、耳をそばだてて、そいつの、不器用で、たどたどしい自己紹介に聞き入っている。たぶん、みんな、そいつの個人的なことなんかにはまったく興味はない。ただ、このあと自分が指名されたときにどうしたらいいか、何をどういったらいいか、要するに今回この教室ですべき自己紹介の標準パターンを、必死でさぐってるってわけ。パターンが認識できれば、あとは、パラメーターを入れかえるだけ。ただ、先陣を切ったそいつは、くそまじめで、凡庸すぎた……「名前は……、出身は……、得意な科目は……、趣味は……、大学生になった抱負は……」そのうえ、「家族は……、父は……、母は……、兄弟は……、云々」。きわめて個性のない、自己紹介……。
 なんとか自己紹介が終わると、講師は「英語は中学生なみだが」などと冗談のように評したあと、「ただし、彼の勇気は賞賛にあたいする」と励まし、「1から60までの数字で、好きな数字は?」などと質問する。彼が数字を言うと、講師は出席簿に目をやり、チェックして、名前をよみあげる。そう、「好きな数字」とは出席番号、というわけだ。
 英語に自信がないワケじゃなかった。ひとまえで話すことも、それほどいやなというワケじゃなかった。ただ……、「父の職業は……」、だれもが先陣を切った彼に習って、彼のパターンを踏襲して、自己紹介をしていった……会社経営者、弁護士、会計士、医師、中央省庁職員、一流企業重役、地方議員……みるからに、ちゃらけた格好なんかしてるフ抜けた内部生の口から、そんな父の職業がいともなにごともないように、とびだしてくる。わたしは、今にも嘔吐してしまうんじゃないかとおもえるほどあまりにもばくばくしすぎている心臓を、のみこむように、息を殺し、縮こまって、うつむいていた。講師と、目と目があわないように。わたしの出席番号が誰かの口から間違ってとびださないように、祈りながら。
 ある名前が読みあげられ、わたしの隣で、椅子をひきずり、立ちあがる気配がした。
 講師の読みあげた名前はわたしの耳にも入ってこなかったけど、彼女の声がよみあげる名前は、ばくばくするわたしのこころにしぜんに染みこんでくるようだった。
 「出身校は、いわゆる、エスカレーターってやつ。得意な科目? さあ……この第一外国語がそうなるよう祈っています」
彼女の自己紹介は、たどたどしいというより、とげとげしかった。
 「趣味は……、さて、なにかな。いま、こんなふうにチェロのケースを持ってますが、チェロというわけではありません。音楽は好きです。とくに、オペラ。父の職業は、リペアーサービス。現代資本主義社会における、いわゆる、部品、その修理工ってやつです。だから、このチェロケースのなかには、ときどき、屍体や腕や肝臓が入っている、なんてことがあるかも。そのほかは、プライバシーに関わりますので、このくらいで」
 学生のなかから笑いが漏れたけど、講師はちょっと不機嫌そうに言った、
「『祈っています』? 『祈っています』とはまた、人ごとのようだね。それを言うなら、『がんばります』だろう? それに、まだ、きみは与えられた時間を充分につかいきっていない」
 すると、彼女は無言で、いきなり、チェロケースを開けてチェロをとりだすと、なにか曲を弾き始めた。
 講師も、ほかの生徒も、そしてわたしも、度肝を抜かれて彼女を見つめた。
 授業が終わってから、わたしは、席をたちさろうとする彼女のゆく手で彼女を見て、にっこり微笑んだ。
 彼女も、微笑んできた。
 「あんなことして、平気なん?」
 「へいき、平気。あいつ、むかし、うちのカテキョやった。最近は、こんなところで、講師のバイトなんかしてたなんて」
 彼女はチェロケースを抱いて、またにっこり微笑んだ。
 それにしても、彼女の「プライバシーに関わりますので、このくらいで」という「殺し文句」は、ばくばく心臓が破裂しそうだったわたしを勇気づけ、救ってくれた。そう、その手があったのだ。
 わたしは、たっぷり、わたしの趣味についてはなすだけはなして、父や、母や、家族のことについては、なにひとつ触れることなく、自己紹介を終えた。

 「ねえ……」
 わたしは彼女のすはだの肩に頭をあずけたまま、もの憂い気分で言った。
 「あのとき、……第一外国語の自己紹介のとき、ひいたあの曲、なんていうの? もういちど、聞きたいな……」
 くふふっ、と彼女はからだをふるわせた。
 「ごめんね、それはムリ」
 「え、なんで?」
 「だって……、彩矢の即興なんやもん。ただ、しいていうなら……『クタバレ、アホ講師』って気持ちがこもった曲」
 ふたりは笑いあって、やさしくキスした。
 なんども、なんども、くちびるでくちびるをついばみあった。
 すきとおった秋の日射しがあたりをみたし、山やまが美しく紅葉しはじめていた。

 「リペアーサービス」=「修理工」。
 ずっと彼女のこのコトバがこころにひっかかっていた。言葉、コトバ、コトハ、異羽……それはまるで、指先に刺さった、ササクレのよう。彼女と会うたび、話すたび、しくしくと違和感の毒をわたしのこころにしみこませる。
 彼女の言葉づかい、ものごし……たしかに、彼女はあの自己紹介のときはあんなとげとげしい息づかいの言葉をつかったけど、ふだんの言葉づかいはむしろしっとりとしていて、ものごしもどことなくおしとやかで、知的で、ひんがあり、とても、父親が「リペアーサービス」などという荒っぽそうな職業とは思えなかった。だって、「リペアーサービス」でしょう? わたしのイメージだと、「リペアーサービス」って人は、筋骨逞しくて、上下つなぎの作業着を着て、わたしにとってはトンチンカンなでっかい鉄の塊である機械を相手に、やっぱり、くそおもい鉄の塊みたいな工具をたくみにつかって鉄の塊の不具合を修理する、言葉づかいだって巻き舌で、「おんどれ、オレが修理したったんじゃ、はよ、うごかんかい」とか……。とにかく、そんな荒くれた父親の性格そのままの家風のなかで育ったようには、彼女は思えなかったから。
 まさに、だから、彼女の「リペアーサービス」という言葉は、異羽であり、トゲだった。そのササクレのたった一点のチクっとした痛みが、わたしの世界ぜんたいに亀裂をもたらし、ブレを生じさせ、わたしじしんにさえ違和感をもたらす、異羽。
 そのうえ、彼女は、ただの「リペアーサービス」とは言ってない。なんとなく皮肉な調子で、そう、関係代名詞なんかつかって、いかにも「注釈」と言った感じで、つけくわえてた、「ゲンダイシホンシュギシャカイにおける、イワユル、ブヒン、その修理工」。ただの「リペアーザービス」っていうんじゃなくて、「部品修理工」。その部品とはなにかというと、「現代資本主義社会における部品」……そもそも「現代資本主義社会における部品」ってなんなの?
 ……いいえ……トゲやササクレどころじゃなかったのかも知れない。さっきは、彼女の「リペアーサービス」って異羽は、トゲ、だとか、ササクレ、だとかいったけど……ほんとは、鏃だったのかも知れない。
大空をまう小鳥の心臓を、彩矢の放った矢が、その鏃が射貫いた瞬間……。
 オバカサン。
 「リペアーサービス」なんて異羽に、こころ、射貫かれるなんて。
ものごしやわらかくて、知的で、品がある、しとやかな彼女のやわはだのなかにキラリって鋒鋭い、鏃が埋まっている。なにかの手違いで、その鏃が彼女のふだんのやわはだをつきやぶり、ことハのこころに突き刺さった。
 いったい、彼女って、なにもの、なの?
 いいえ、はじめ、鏃がささったのはホンノ指先だった。刺さったといっても、かすっただけ。小さな傷口からわたしのまっ赤な血があふれ出す。その血を見ているうちに、わたしはだんだんヘンな気分になってくる。指の腹に広がる血が、なにか真紅の花のようにおもえてくる。はじめ、指先に、ぷっくりと盛りあがって芽吹いたのが、だんだん、花開いていく。小さな真紅の花。その花に魅せられて……わたしは、ふと、こんな考えにとらわれる……指先でもこんなにきれいなのだから……。シ、ン、の、ゾ、ウ、に突き立てたら……。心臓から噴き出す真紅の血の花は、きっと、牡丹のようにゴージャスで圧倒的で、耐えがたいほど美しいにちがいない、と。
 だから……指先をかすっただけの矢をひろいあげて、わたしは、わたしの心臓に……自分の手で、こうやって……突き立ててみたんだ、きっと……。
 彩、矢……。
 見て? きれい? あなたに見せたくて……。
 わたしの心の臓から噴きあげる、真紅の大輪の血の花……血の花びらに血の花びらが無限に重なりあい、わたしとおなじ重力をたもって、わさわさとゆらめいてるの。
 あなたの異羽の鏃が、わたしのやわらかくてつやつやした心臓のはだえを、こんなにも、つらぬいたのよ。
 くふふっ。
 ……なんて、ワイルドの読みすぎね、わ、た、し。
ニ週目の第一外国語の授業がおわったとき、わたしは、「リペアーサービス」の鏃を目のまえにしめしながら、彼女に声をかけた。
 彼女はにっこり微笑んで、言った。
 「ゴールデンウイークに、よかったら、うちに遊びにきいひん? ううん、ぜひ……」

 ほんとうは、わたしはうろたえていた。
 わたしのひだりの白い乳房のうえに花開いた真紅の大輪の血の花が、彼女に見えたのだろうか、って。
 いいえ。その花が彼女に見えるなんてことはありえなかった。でも、彼女も、わたしも、ただ、新入生の孤独とか、まわりから浮いているもの同士の孤独とか……そういったもの以上のなにかを感じとっていたにちがいなかった。
 ずっとあとになって……もう、おたがいに、なにもかも、相手が知らないことがないくらいとろけあって、ふたりを隔てるすべての殻や細胞壁や細胞膜をとろとろに無力化してふたりのなかみをとけあわせたころに、彼女が、言った。
 「はじめて会ったときから……なんか、ゾクゾクってきてた、ことハ。きっと、このこ、うちのこと、わかってくれるって……」
 彼女の、告白。つきなみな告白だけど……うれしかった。彼女の異羽のヤジリに射貫かれた心の臓の穴が、傷が、またもっと、大きな悦楽とかぎりない陶酔とともに張り裂けていく気がした。彼女の……異羽のヤジリに全身ありとあらゆるところを射貫かれて……ううん、それどころじゃない、ぜんしん、切り刻まれたいって……感じた……。
 彼女の、異羽のヤジリでぜんしん、切り刻まれたら……どんなにきもちいいだろう、って……どんなに、ステキだろう、って……きっと、切り刻まれるたび、わたしのからだのそこらじゅうで、火花をちらして悦楽がショートして、それこそ莫大なエネルギーの快楽がいちどにわたしをのみこむんじゃないたろうか、って。
 誰でもいいってワケじゃない。大好きな、彩矢だから。
 そんなことを彼女も感じていたのだ。
  ことハのものは彩矢のもの。
  彩矢のものは、ことハのもの。
  彩矢のかんじることはことハのかんじること。
  ことハの思うことは、彩矢の思うこと。

 彼女の胸元にかがやいている銀のペンダント。
 不思議な、デザイン。
 二匹の蛇が「8」の字になって、お互いの尾を呑みあっている。「8」は数字の「8」ではなくて無限のしるし。
 彼女の……ブラウスのボタンを、ひとつ……また、ひとつ、……はずしていくと、指先にふれた……。
 彼女の……しろい、胸元に、「8」の字に呑みあう二匹の蛇……。
 「なに?」
 うふ、と彼女。

  むかし、むかし、それぞれの宇宙にその宇宙を統べる二匹の蛇がいました。
  二匹の統べる宇宙は、それぞれ、絶対に交わりあうことのないはずのべつべつの時間、空間、次元に存在していたのですが、それが、なぜか、出会ってしまったのでした。
  いいえ、絶対に交わりあうことのない時間、空間、次元に存在していたとはいえ、蛇であるという共通性が、こんな出会いをひきおこしてしまったのかもしれません。
  二匹の蛇は、まるで自分自身を目のあたりにしているような相手のすがたに、惹かれ、そして、反発もしました。
  愛しあいたい衝動がわきおこり、殺してしまいたい衝動に駆られました。
  悩み、くるしんだすえ、ついに、二匹の蛇は、くるおしくも、おたがいを尾っぽから呑みこみはじめたのです。
  そして、……

 「どうなったとおもう?」
 にっこり、彩矢はわたしを見てほほえんだ。
 彼女と愛しあうたび……わたしは、この不思議なペンダントに、くちびるを寄せないことはなかった。
 ときには、「8」の字になってお互いの尾を呑みあう、この銀の蛇たちを口にふくんで、彼女に口うつしした。
 彼女のくちびるとわたしのくちびるがふれあい、すいつき、二匹の蛇はふたりのくちびるのあいだで、その橋渡しとなった。
どちらかの舌が「8」の字の蛇の橋を沿いわたって流入し、舌と舌とがからみあい、こころも感覚もしっかりととけあわないことはなかった……。
 あるときは……くちびるにくわえて彩矢の首からはずし、わたしの舌と「8」の字の二匹の蛇が、彩矢のからだじゅう、めくるめく歓びとともに、めぐりめぐった……。
 「どうなったん?」
 うふ、とほほえむ彼女。

 はじめて、彼女の……白い肌にかがやくそのペンダントを目にした日……それは、はじめて、彼女のうちを訪ねた日……。
 五月の、ゴールデンウイークのある一日だった。
 彼女の宅は、いぜんの高級住宅街にあった。むかしは、洛中からはすこしはなれたこの地域は、雰囲気のいいたたずまいの瀟洒な一軒家がずらりと軒をならべていたときいたことがあるけど、たしかに、地下鉄ができたり、大学や小学校ができたり、おおきな商業施設やビルやマンションがところどころに建ってしまっている今でも、そんな雰囲気は残っていた。
 つい先日芽吹いてようやくすこししげりはじめた楓のこずえをすずしげに透きとおった緑風がわたっていった。
 そんな楓のうえこみのあるマンションが、彼女の家だった。
 「リペアーサービス」。
 あの意味が、彼女の自宅の前に立ったとき、やっと、理解できた。でも、それは、なんて皮肉いっぱいな揶揄だったことか。自分の父親のことを、職業をそんなふうに言うなんて。でも、それは、彼女の、父親への愛情の裏返しでもあり、彼女の父親へのコンプレックスのあらわれでもあると思った。
 「彩矢って、てれやさんなんやね」
 彼女は、「は?」とあっけにとられた顔をして、わたしを見かえした。
 あとになって、あのお互いを呑みあう二匹の蛇のペンダントをはじめて目にしたとき、それはまるである対象への、愛情とコンプレックスといった、相反する感情がいりまじった彼女のこころを象徴しているのだとわたしは直観し、彼女そのひとのように、あの二匹の蛇のペンダントを愛おしく感じたのをわすれはしない。
正面玄関は患者たちのための出入り口であり、またもうひとつ別にマンションの住人たちのための出入り口があり、さらに、それらとはべつに彼女の家族専用の玄関とエスカレーターがあった。その玄関とエスカレーターをとおって彼女はわたしを彼女の部屋にみちびきいれた。
 そう、彼女の父親は……というか、彼女の家は、あとでわかったことだけど、代々の医者だった。自宅そのものが病院で、その病院、いいえ、彼女の言葉を借りれば、「修理工場」、その「修理工場」のいちぶに彼女の巣が組み込まれていた。
 くすくす。
 わたしは、なにか秘密基地の、なにかヒミツの通路めいた家族専用の通路をとおって彼女の部屋にちかづくにつれて、なんだかだんだんとてもおかしくなって、ついつい、独り笑いをもらしてしまった。
 「なにがおかしいん? 今日のことハ、なんかへん。さっきも、ワケわかんないこと言うし」
 「だって、彩矢って……」
と、わたしは彩矢を見てちょっとためらってから、ほんのちょっとちがうけど、九割方は的を射ているその言葉でわたしの感じている彩矢の感触をおもいきって代用した、
 「かわいい」
 「はぁ? いまさら」
 ふたりは顔を見あわせて笑いあった。
 わたしは、彼女の愛情とコンプレックスの入りまじったこころが、かわいく、いじましく、そして、どうしようもなくいとおしかった。

 彼女の部屋は、年ごろの、しかも「お嬢さま」なんてよばれたとしても違和感のない女の子の部屋にしては、とてもじみだった。彼女のようなひとたちならもっていそうな、れいのクマのぬいぐるみとか、れいの黒ネズミのグッズとか、あるいはそのほかにも、ファンシーな小物とか……そういうものはいっさいなくて、いろいろな本がギッシリ詰まった本棚ととても高級そうなスピーカーとそれに見あったデッキとかアンプとかプレーヤーとか……ほかに、しろいライティングビューローとコーデのベッド。なんていうのか知らないけど、観葉植物。また、まだ、パソコンとかスマホなんてものは一般に普及してなかったころだったけど、マックの小さなパソコンがライティングビューローとはべつのテーブルにおいてあった。そして、部屋の片隅には、あの紫色のチェロケース。あとは……
 「ことハがくるから、これでもいっしょうけんめい片づけたんやからね」
 どうやら、あのウォークイン・クローゼットのなからしい(笑)。
 でも、ほんとにびっくりしちゃったのは……「お手伝いさん」、なんてひとが彼女の家にはいた、っていうこと。
 部屋につくなり、インターフォンで、彼女が誰かに何か言ったのは、わたしも知ってた。でも、しばらくして……。
 「お嬢さま、紅茶です」
 なんて。まさか。
 はじめは誰かと思った、おかあさん? でも、それじゃ、年が離れすぎてる。お祖母さん? だとすると、白いエプロンなんてしてて、こんな家のグランド・マザーにしては装いは質素で地味すぎる気がして……それに、「オジョウサマ」って……思わず、「いまの、だれ?」なんて、彼女にきいてしまったわたし。
 「おてつだいさんの、……」
 彼女の家には「お手伝いさん」がいる。
 だけど、そんな事実以上にショックだったのが、彼女のこの返事だった。なにごともなかったようにさらりと返事をした彩矢。
 これが、彼女にとっての日常なのだ。彼女の家に足を踏み入れてたった五分もしないうちに、わたしはこの場所がわたしがいるのにふさわしくないところだとはやくも思い知らされ、いたたまれなくなった。彼女のこと、かわいい、とか、いじましい、とか、いとおしいとか、……しょせん、わたしのひとりよがり、身勝手な妄想やおもいこみにすぎなかったんだって……悲しかった。こんな見ず知らずの場所にただひとり……とても心細く、たよりなく、さみしく、なによりも、これ以上なく、みじめだった。とてもみすぼらしく、あわれなわたし。
 彼女と出逢って、ホンノ短い間だったけど、なにかしあわせだったわたしとわたしの彼女への想いが、けっきょく、ぜんぶ、ただのむなしい独りよがりの蜃気楼にすぎなかったのだと、思い知らされた。
 来なければよかった。そうすれば、こんな彼女のことをしらなければ、わたしはまだずっと、彼女のことを想っていられたかもしれなかった。……
 「どないしたん?」
 そわそわ、いたたまれなく、みじめで、落ち着かないわたしの気持ちはすぐに彼女にも伝染したらしかった。
 「う、うん……帰る……」
 「なんで? 今きたばっかしなのに?」
 きつい、トゲのある言葉で非難されるかと思ったら、意外にも、彼女はやさしい悲しげなまなざしでわたしを気づかう表情をうかべていた。
 そして、とつぜん、
 「お手伝いさんのあさこさん、いぢわるそうな顔してるから?」
 と、わたしが思ってもみないことを口走った。
 思わず、わたしは吹きだしてしまった。
 「まさか」
 「ああみえても、ええひとなんよ」
 「うん」
 わたしはうつむいて返事をした。
 「ねえ、かえらんといて……」
 彩矢はわたしの腕をとってことさら甘えるような声でいった。
 「ごめん」
 わたしは謝った。
 「なんで? なんで、ことハがあやまらなあかんの?」
 だって……彩矢はなにも悪くなかった。わるいとしたら、わたし……わたしがかってに……彩矢の日常の一端を知って、ひとりで、一方的に、傷ついただけ。
 わたしは黙りこくって、彼女に腕をとられたまま、うつむいていた。
 しばらくして、彼女が腕をほどいて言った。
 「紅茶、さめちゃうよ。……なんでかわからへんけど……ことハが帰るって言うんなら、しかたないよね。……でも、せっかく、来てくれたんやし……もうすこし……せめて、紅茶でお菓子のあいだだけでも、いっしょに……」
 「うん……」
 そのくらいなら……わたしはうなずいた。
 「すごく、おいしぃんだよ、あさこさんの入れた紅茶。とっておきの紅茶。このマフィンも、あさこさんの手作り……。今日、彩矢の友だちが来るからって、わざわざつくってもらったんよ」
 「そう……」
 言っておけば、マフィンを作ってくれる人がいる。しかも、その人は、家族でもなければなんでもない。金銭的な契約によって結ばれている人。
 でも……「ことハが帰るって言うんなら、しかたないよね」という彼女の言葉は、とても嬉しかった。すこしだけ、わたしは、とてもみじめな、そして、なにかおもくるしいこの気持ちから救われた気がした。
 「ありがとう」
 「え?」
 きょとんとした表情でわたしをみつめたまま、わたしの支離滅裂できれぎれなこころの動きなんてわかりようもない彩矢は、つづけて言った。
 「なんか、へんな、ことハ。いきなり帰るって言ったり、なににか、『ありがとう』って言ったり。どないしちゃったん?」
 「ううん、なんでもあらへんから……」
 わたしの目はうるんでいたにちがいない。
 紅茶のポットに描かれたマイセンの青い景色が雨に滲んでいるように見えたので。
 ベッドに座って、ベッドに手をついているわたしの手に、彩矢がてのひらをかさねてきた。指と指のあいだに指をいれて。
わたしは泣いていた。
 そっと、彩矢のいきづかいと鼓動がしなやかなシルクのコートのようにわたしをおおってくれた。

                          つづく


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