「母になること」は「自分主役の舞台から降りること」ではない

 女性として生きていると、結婚や出産で、必ず転機が訪れる。それは、「これからは、○○(旦那、子供)のために生きるのよ」というやつだ。自分の楽しみよりも、夫や子供を優先して生きなさいと。

 たしかまだ、長男が赤ん坊で育児休業を取っていたときだったと思う。当時の住所の近所にあった「うなぎや」で昼食を取りつつ、新聞を読んでいた。そこに面白いコラムがあった。「私たちの世代は中途半端なのだ」というものだ。コラムの主は、母親から「早く結婚しろ」と言われているが、同時に「手に職をつけなさい、何かあったときに自立できるように」と言われて育ったと書いていた。曰く、「自分の母親の世代は、まだまだ結婚=退職だった。よって、手に職がないと万が一離婚するとすぐに貧困に陥ってしまったから、簡単に(自分から)離婚を切り出すことができない女性も多かった」という。
私も、当時のこのコラムの女性と同世代なので「ああ、わかる」と思いつつ読んでいた。自立したなら、別に結婚なんてしてもしなくてもいい制度だと思うが、まだ根底に「女性の幸せとは結婚だ」というのが、私たちの母親世代には確かに存在しているし、実際問題として、子供を持つなら結婚していないととても不利なのが現実だ。

 結婚すると、苗字が変わるなど手続き的にめんどうなことがとても多かったし、残業してると「旦那さんのご飯作らなくていいのー?」とか、「え、旦那さんお小遣い制じゃないの?愛情がないんじゃないの?」とか言われて、面倒だし、うるさいし、余計なお世話だと常々思っていたが、後に子供をもってからの面倒は、この比ではない。勿論、生まれたばかりの子供を育てる責任は親にある。子供を保育園に預けて働く場合でも、呼び出しがかかれば迎えに行くことに異議はない。親である以上、それは当然のことだ。でも、納得できないことが本当に多い。

 結婚前、エステに通っていたときに言われたことがある。「え、恋人さん、エステ通うの許してくれたんですか、優しいですね」。私は思わず、こう答えた。「なんで許してもらわなくちゃいけないんですか、お金を出して貰うわけでもあるまいし」。しかし、聞く話では、エステに通う女性は、夫や恋人には内緒にしている人が多いらしい。反対されるからという理由で。
「自分でお金出すのにですか?」と聞いたらそうだという。私は未だに、許可を取る理由がわからない。

 子供が出来ると、この手の理不尽が非常に多い。私は親である以上、保護者名に私の名前を書くことにしている。実際問題、会社の制度やその他の点から検討した結果、二人の子供達は私の保険証の「被扶養者」である。
そういった理由に加え、書類はほぼ私がサインするから、保護者名に私の名前を書くのだが、時に、学校や保育園、児童館から「保護者欄にはお父さんの名前を書いてください」と言われるのだ。そこで、上のことを説明するが、それでも、「普通は男性の名前を書くものです」という。「確認もしてない書類に他人が勝手にサインするのは私文書偽造とかにならないんですか?」と聞くと、「他人じゃなくて旦那さんでしょ」という。でも、自分じゃなきゃ他人でしょ?
たまたま在宅勤務ができるという理由で延長保育を断られそうになったこともある。「お母さんがいるなら、面倒みられるでしょ」ってやつだ。「そうですか、では、自営業のお子さんは預かれないんですね?」と聞くと違うという。頭にきて区役所の保育課に電話すると「在宅だろうと自営だろうと、仕事をしている間は預かる規定」だという。

 こうした事象から見えてくるのは、何かあれば母親に問い合わせるくせに、保護者は父親であるという、いつの時代かわからないような「慣例」だ。母親が行動しなくてはいけない部分は多くあるのにも関わらず、名前を記入するところなどで、母親の名前は拒否される。こうして、母親は縁の下の力持ちであり、いつしか、名前のないモブになっていく。自分で金を払うエステですら、旦那や恋人の反対で出来ないようなのがまかり通るのだから、あたり前と言えばあたり前か。

 私は、母親になったから(場合によっては結婚したから)といって、誰かの人生の中でしか生きられないモブになる必要はないと思う。最初に、うなぎ屋さんで読んだコラムの話を書いたが、「手に職をつけていざというときに自立できるようになりなさい」というのは、そのものずばり、「自分の人生は自分で描けるようになる術を得なさい」ということだ。その為には、やはり、自分で考える訓練が必要で、母親が自分の舞台を降りて子供の舞台に乗ってしまっては、その子供の「自分で描くようになるプロセス」を邪魔してしまうのではないか。
夫の舞台に乗るのも同じ。これは、専業主婦とかという話ではなく、精神的な意味でなので、勘違いしないでほしい。

 私がこう考えることになったきっかけの一つは、かつて友人関係で悩んだときの占い師の言葉だ。「彼女はあなたをコントロールしたいからこそ、あなたにコントロールされているのです。他人をコントロールしようということは執着を生み、結果的に自分の人生を生きられず、相手に支配されるのです」と。私は、舞台に彼女があがってきてしまったことで息苦しく自分を生きられないし、彼女は私をコントロールするために私の舞台にあがってきたことで、やはり息苦しくなってしまった。

 正直、自分は子供にとって良い親かと言われると、あまり自信はない。でも、だからこそ、私がいついなくなっても生きていけるようになってもらいたいし、いる間は、必要に応じて協力を求めてくれたら良いと思ってる。
だから、子供達とはかなり会話は多いほうだと思う。それでも、教師からは「お母さんがお仕事してるって聞きましたが、一日30分でもお子さんとお話してくださいね」と言われてしまう。実際、毎日、一時間は話をしていてもだ。

 だからこそ、あえて言いたい。周りはあなたと子供の全てを知っているわけではない。子供が産まれると、少なくとも今の日本は、母親に「完璧な聖母」であることを強要するけれど、その為に自分の楽しみの”全て”を止め、その見返りに子供をコントロールする呪いにかかるのは、あまりにも馬鹿らしい。子供の成長にしたがって、親の「時間的な」制約は緩くなる。なのに、いつまでも赤ん坊の世話をするように、全ての時間を子供に捧げる必要はないと思う。そういう意味で、「子供を生むということは、自分の舞台から降りるということではない」と。






 

 

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