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【掌編小説】子供部屋おじさん、蚊の一家を養う

 彼はいわゆる子供部屋おじさんである。子供部屋おじさんとは何か。大学や専門学校を卒業して就職しても、一人暮らしをせず、実家の子供部屋に住みつづけているおじさんのことである。以前は「パラサイトシングル」というおしゃれな言葉で表現されていたが、最近では「子供部屋おじさん」と呼ばれている。「こどおじ」と略されることもある。「パラサイトシングル」も蔑称的なものであったが、「子供部屋おじさん」はより強く蔑称的である。そう呼ばれる人間は、大きな屈辱を感じてしまう。

 彼はツイッターなどで子供部屋おじさんが批判されているのを見るたびに、大きな屈辱を感じている。しかしながら彼は、自分で自分のことを「子供部屋おじさん」と呼んでいる。そうおどけて自称することで、大きな屈辱をいくらか減じているのである。

 彼はもともとニートであったが、今はニートではない。というのは、「15歳から34歳まで」というニートの年齢に当てはまらなくなったからだ。40歳の彼は相変わらず無職であったが、人から「ニート」と呼ばれることがなくなったことを心から喜んだ。ニートというのは強い蔑称であり、そう呼ばれるたびに彼は大きな屈辱を感じていたのである。ところが、喜んだのもつかのま、彼は新たに「子供部屋おじさん」と世間から呼ばれるようになった。「やっとニートじゃなくなったのに、今度は子供部屋おじさんと呼ばれるのかよ!」と彼は絶望の言葉を吐いた。安いノートパソコンを子供部屋でいじりながら。

 そんな彼はある平日の夜、子供部屋のベッドの上でぼんやりと寝そべっていた。目を閉じていたが、眠っているわけではない。たっぷり昼寝をしたため、眠くはないのだ。かと言って、目を開いて何をする気も起きないのである。すると不愉快な高音が、彼の耳の鼓膜をふるわせた。それは一匹の蚊の羽音であった。彼はさきほどから手と足がかゆいことを思い出し、「こいつのせいか!」と怒りを覚えた。

 彼は最初、その蚊が近づいてくるたびに手で振り払った。しかしその蚊は何度も何度も、彼の肌に向かって接近してくる。彼はベッドの上での「のんびりタイム」を蚊に邪魔されていることが非常に腹立たしく、ついには「この野郎! ぶっ殺してやる!」とまで思った。しかし彼の心根は優しく、気弱なため、蚊を殺せる絶好のチャンスが到来しても、その右手を振り下ろすことはできなかった。「もしも自分がこの蚊だったら痛いだろうな」と思ったし、「この蚊にも養うべき家族がいるのかもしれない。この一匹の蚊を殺すことは、他の家族も殺すことと同じだ。僕にはそんなことはできない」と思ったからであった。

 彼は、左腕の肌の上にとまって血を吸おうとしている蚊を右手で振り払い、場所を移動した。シングルベッドの上から、こたつテーブルの向こう側に移動したのである。ここまで来れば、あの蚊は僕のことを見失うだろう。彼はそう考えていたが、一匹の蚊は、数分もすると彼の発する二酸化炭素を嗅ぎつけ、彼の近くにまとわりついた。彼はいらいらした。今度こそぶっ殺してやる! そう思ったが、やはり殺すことはできなかった。彼は再び、こたつテーブルのところから、ベッドの上へと居場所を移す。一匹の蚊はまたぞろ、ベッドの上に寝そべる彼の近くを飛びまわる。

 彼はそんなことを何度も繰り返しているうちに、身体と心が疲弊してしまった。無職の子供部屋おじさんだから、非常に疲れやすいのである。彼はとうとう、逃げまわることすらやめてしまった。ただベッドの上に寝そべり、一匹の蚊が顔の近くで不愉快な飛行音をたてても、振り払うことすらしない。目を閉じたまま、静かに呼吸をしている。蚊が手や足の肌にとまり、血を吸っていても、何もしない。しかし、しばらくすると肌が猛烈にかゆくなり、身を起こして「畜生! かゆい!」とつぶやき、その場所をかきむしった。やはりこの蚊を殺してやろうか。そう思うのだが、殺す勇気は出てこないのであった。

 彼はふたたびベッドの上で身をよこたえ、眠るわけではないが目を閉じた。彼は思った。僕が犠牲になろう。僕の血液で、この蚊の家族を養ってやろう。きっとこの部屋のどこかに蚊の家族は住んでいるのだろう、何人家族かは分からないけれど。僕はこの子供部屋で、その蚊の家族とともに生きていこう。

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