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【プルートゥ(PLUTO)感想】脱構築と殺人ロボットの肯定


本題だけ知りたいかたは、★マークのある章だけ読めば理解できます。


概要

作品名:PLUTO(プルートゥ)
制作 :スタジオM2
配信元:Netflix(ネットフリックス)
原作 :『PLUTO』
原作者:手塚治虫×浦沢直樹

一番初めの原作は『鉄腕アトム』に収録されている「地上最大のロボット」です。それを浦沢直樹がリメイクしたのが『PLUTO』です。アニメ化に際しては浦沢版が適用されているようです。

制作会社:スタジオM2とは

スタジオM2についてはぶっちゃけ全く知りませんでした。
2016年に設立した会社で、あの丸山正雄が立ち上げの張本人。

丸山さんといえば『この世界の片隅に』を手掛けた方です。
そんな方が設立して7年、いまだ関わったアニメが3作品だけと非常にすくないです。昨今の大量アニメ製作時代の風潮とは真逆を行っています。そんな制作会社だからこそ、今後も質アニメを世に出していくことが期待できますね。

最後に丸山氏のインタビュー。いい作品を創りたいという思いが伝わってきます。

僕に好みがあるとするならば、「これはダメかも知れない」「企画にならないかも知れない」という作品が好きみたいです。よその会社に断られた企画が僕のところへ来ると、「何とか形にしたい」と、その気になってしまう。それは僕の性癖、病気のようなものです。よそで断れた理由がわかると、「ならば何とかしてみせよう」とムラムラしてしまう……やはり、病気ですね(笑)。

https://akiba-souken.com/article/27618/?page=2



ぶっちゃけ感想

話題沸騰中のプルートゥ。

アニメ系のYoutuberさんや、アニメ好きの間で話題となっています。
私も拝見しましたが、とっても面白かったです。


見てよかったと思うし、視聴者を後悔させないと断言できます。

正直、昔の作品だとなめていました。
だけども生成AIや、中東紛争でドローンが使用されている昨今の状況ゆえに差し迫ったリアリティを感じざるを得ません。

ロボットは人間を殺せるのか?
ロボットに感情は芽生えるのか?
究極に発達したロボットと人の間を区別することができるのか?

アニメを見終わったあとも、このような倫理的な問いを考えさせられます。
よくも悪くも心に傷跡を残してくれる作品というのは、人生のエポックになりますよね~。

内容に関しては深掘りしないことにしましょう。
やっぱり本作の衝撃と濃厚さは身を持って感じてほしいですし。


★人殺しこそロボットの本質


この記事では作品のキーパーソンとなるブラウ1589に焦点を当てたいと思います。なぜなら、彼の存在が本作を脱構築する(=ロボットの本質は殺人であり、人間の本質はロボットである)からです。

ブラウ1589

「世界ではじめて人間を殺したロボット」
胸には矢が刺さっており、これを抜くことでブラウ1589は機能停止に至ると言われています。しかしながら殺すことすら恐れた人間たちによって、地下施設に幽閉しています。
作中ではロボット連続殺人事件が起こっていて、その捜索には超高性能ロボットのゲジヒトやアトムが乗り出しますが、その際に彼は真相解明の手がかりを与えます。

公式サイトより引用。

彼自身がロボットの脱構築を行っているとはどういうことでしょうか?
その前に、脱構築とはなにかについて知る必要があります。

脱構築とはなにか?

さて、脱構築というのはフランスの現代思想の巨人ジャック・デリダによって提唱された概念だと言えるでしょう。デリダの思想に忠実になるならば、「脱構築とは……である」と説明すること自体が好ましくありませんが、ここでは大枠を理解してもらえると嬉しいです。1つ目に学問的な具体例、2つ目に身近な例を挙げて説明します。

脱構築について「全く知らない」という人以外は、この章を飛ばしても問題ありません。

脱構築とは単純に言って、
モノや概念の構造を内側から自壊させること」だと考えてください。

1.学問的な例
たとえばですが、近代西洋では「発話>文字」という秩序が信じられてきました。つまり、発話と文字という二項対立によって発話の優位性を認めていたわけです。なぜなら、発話は正しく相手に物事を伝える事ができるけれど、文字(手紙やブログ)というのは必ず書き手の「言おうとすること」から外れて行ってしまう性格をもっています。
みなさんもそういった経験はあるはずです。誰かにメモを残したのに相手に誤解を与えてしまったことが。それにくらべて発言し合う議論の場を想定してみてください。何かわからないことがあれば相手に尋ねたり、相手が間違った解釈をしていたら、その場で修正することができます。
つまり発話のほうが文字より正確に物事を伝えることができると考えられていました。

しかし、です。
本当に発話で誤解は生じないのでしょうか。そうではないはずです。互いに「私が言いたいこと」「相手が言おうとしていること」を理解したつもりで、すれ違いが生じることだってあるはずです。アンジャッシュの芸風はまさに発話の不正確を表しています。

そういうわけで、
「発話と文字を対立させて、発話を優位に据えるのは問題含みだ」
デリダは伝統的な西洋形而上学の思い込みを喝破したのです。


2.身近な例
アンパンマンについて考えてみましょう。アンパンマンは悪を懲らしめて正義を執行するキャラクターです。アンパンマンという作品においては、バイキンマン(=悪)を社会から締め出すことで平和を維持しようとしているわけです。
しかしアンパンマンという存在はどのように正義を行っているでしょうか。それは暴力です。バイキンマンの暴力・横暴に対抗する措置として暴力に訴えている。すくなくともアンパンマン(理論)においては、正義も悪も暴力の上に規定されている。さらに思考を加速させてみます。世界のすべての悪を排除することが仮にできたとしたら、その時アンパンマンは二重の意味で存在できなくなります。
1)バイキンマンが現れない以上アンパンマンも現れえなくなる
2)バイキンマンが消えたことは暴力が消えたことを意味して、それは暴力に規定されたアンパンマンの存在根拠を失わせる。

あるいはこのように捉えることもできます
A)メタ的に考えてバイキンマンのいない物語はありえない
B)仮にバイキンマンを抹消したとして、同じ理論(=暴力)で力を振るっていたという意味で本質的に彼と同一の存在たるアンパンマンが存在しつづけてしまう(=暴力の可能性)。


筆がのってきたので(B)の理論をさらに進めさせてください。では仮にアンパンマンがバイキンマンを抹消したあとに自殺したとして、そこにアンパンマンという世界は存在できるのか。そもそも自分を抹消させること自体も暴力なのではないか。あるいはアンパンマンのいない世界が成り立ったとして、暴力が存在したという歴史自体は抹消できないはずだ。

つまり、アンパンマン(という構造)はその支柱に悪を据えているということです。ここで正義と悪の二項対立は崩れ去ります。


3.ひろゆきVS.脱構築

ひろゆきを脱構築する方法を示すことで、脱構築とは何かをなんとなく理解できると思います。
「それってあなたの感想ですよね」
「なんかそういうデータあるんですか?」

同じみのスラングですが、これって癪に障りません? 
私は煙に巻かれた感じがするのですが……。

このとき彼の言説に対抗する理論を考えることは、脱構築ではありません。
むしろ、ネット上に転がっているひろゆき氏の発言を拾い上げる。そして彼が主張していることがらについて「それってあなたの感想ですよね」をぶつけまくる。極限までひろゆきの思考を憑依させて「それ感」を極める。そうすると彼自身が「あなたの感想」になっている瞬間があるはずです。これがひろゆきを脱構築する導きの糸、彼の論理の裂傷になるのです。

脱構築の言わんとしていることについて掴めてきたでしょうか…?
脱構築とは何かに対抗する手段ではないのです。脱構築はまさに標的としている対象の論理を極限まで忠実に——寄生するかのように、憑依するかのように——再現して推し進めることで、むしろ当の論理にある矛盾や穴を見つけ出す。これがキモです。


★人間を追う、故にブラウは(人間で)ある。

さて、大きく迂回してしまいましたがいよいよ本題に入りましょう。

なぜ私が、ブラウ1589に脱構築を見出したのか。

それは本アニメで何度も繰り返されるこの発言がヒントになります。

世界の科学者がこぞってブラウ1589の欠陥を探そうとした。
しかし彼のプログラムは完璧だったのだ。

PLUTOにおいてロボットは人間に危害を加えることを一切禁止されています。つまり人間に危害を加えることはできないようにプログラムされているのです。

それはもちろんブラウ1589も同様です。彼も、人間に危害を加えられないようにプログラムが組まれていた。しかもそのプログラムに一つの瑕疵もなかった。それなのに、いや完璧だからこそ彼は殺人を達成できてしまう……。

これがこのアニメの本質なのです。
アニメではロボットが殺人を犯すこと=殺人可能性を、倫理的・プログラム的に問い続けてきました。

しかしその問いには、最終的に一切の回答も与えられなかった。
あれだけロボットの殺人の是非を訴えてきたのにもかかわらず、物語ではそこにすっきりとした答えは示されませんでした。
あろうことか、ロボットの殺意という種はむしろ拡散していったのです。

ブラウ1589はまたしても人間に危害を加えました。

あろうことかゲジヒト(超高性能ロボット)も人殺しでした。

アトムさえも、殺人が可能になることが示唆されました。

そして彼らの罪は放置されたまま物語は閉幕します。


なぜか。
ロボットが殺人鬼(殺人機)であると認めないかぎり、物語は成立しなくなってしまう(全体性を破壊される)からです。

本作におけるポイントは、人を殺したロボットがすべて世界最高峰の人工知能を備えていたことです。(ここに脱構築のふるまいを見てとれます)。


つまりロボットは完璧に設計された。
むしろ完璧を究めた、一切のミスも認められないほどに……。

一切の設計ミスもなくなるほどに(もちろん人間への危害を認めないプログラムも作動するように)、むしろ殺人が可能になってしまいます。


私達は人間とロボットの境界を知っています。この二項対立(人間とロボットの境界画定)ができるからこそ、「わたしはロボットではない」と発言することができるのです。

しかし本作が示したのは、
完璧なロボットこそ人間に近づき(同一化し)、殺人する。
完璧なプログラムだからこそ殺人もプログラムされる。

殺人をできないとプログラムされているのに(だからこそ)
人を殺せる。

もはやそこに、人間とロボットの境界はありません。
ロボットを極めれば殺人に手を染めることができます。

人間とロボットを区別できた唯一の境界、つまり人を殺す権利がロボットに奪われました。

この瞬間、ロボットと人間という対立関係が脱構築されます。


「ロボットは人間ではない」
「人間はロボットではない」
これらの言説は機能停止に陥ります。

あらためて脱構築とはなにか。それは、脱構築する当のシステムの論理を究めたからこそ発見されうる裂開(矛盾)を明らかにすることでした。ロボット(あるいは人間)に置き換えてみましょう。すると、ロボットのシステム——ここには人を殺さない設計も含まれています——が高機能化を究めた結果、そこに殺人可能性が明かされたのです。


デリダは『メモワール』という著作において、脱構築を「隅石」に例えています。隅石とは建築において建物を支える重要な役割をもっています。一方で隅石は中心から隔たった「隅」に置かれ、また装飾的な役割まで没落してしまう性格をもっています。
少し長文ですが重要な示唆が含まれますので、引用します。この記事の是非はともかく、(私のように)教養人ぶって物事を批評したい人には絶好の道具となるので、読むことをオススメします。

建築術において、また体系においてまず最初に位置づけられるのは「無視された片隅」と欠陥ある隅石である。この隅石はそもそもの始まりから建造物の一貫性と内的秩序を脅かしている。しかしそれはただの隅石である! この石は建築物によって要求されているにもかかわらず、当の建築物をあらかじめ内側から脱構築する。隅石は建築物の結合を保証しつつ、あらかじめ、見えない仕方で、来るべき脱構築に好都合な片隅に位置づける。そこは脱構築を引き起こすレバーを設置しておくのに最良の場であり、もっとも経済的な場である。同様にまた次のように言うことができるだろう。すなわち、設立された建造物の壁をしっかり立たせておくという建立の条件、これを隅石の場が維持し、内包し、そしてその場が建築術的体系の——「体系全体の」——一般性と等価である、と。
            [……]
 部分と全体の等価性、つまり隅石と体系一般とのこの奇妙な等価性へ戻る前に、私はここで、いわば布石を置く仕方で、ある問題の場を印づけておかなければならないだろう。この問題は後ほどよりはっきり練り上げようと試みるつもりだが、まず、先ほど検証したように、脱構築の条件そのものはこう言ってよければ「作動中」であり、つまり脱構築されるべき体系のなかに見いだされる。脱構築の条件はそこにすでに位置づけられており、中心ではなく、中心をはずれた中心ですでに働いている。中心を外れたこの片隅は体系の堅固な集中を保証し、その構築にまで寄与しつつも、同時に、それを脱構築する脅威にもなっている。このことから次のように結論づけることが試みられるかもしれない。すなわち、脱構築とは外部からある日突然事後的に生じる操作ではなく、それはつねにすでに作品のなかで作動中である、と。
       [……]
隅石としてのアレゴリーは、体系がどれほど不安定であろうと、体系を下から支える。アレゴリーは体系すべての力、すべての緊張をいわばただ一点において取り集める。だが、アレゴリーは丸天井の要石のように高みの中心からそうするわけではない。アレゴリーはやはり体系の隅で、横から間接的に、そうする。アレゴリーはある一点でかつあらゆる瞬間に全体を表象する。アレゴリーは、こう言ってよければ、ある周縁部において全体を集中させ、形成し、全体と同等の価値をもつ。
       [……]
全体はみずからを全体化しておらず、体系は欠陥ある隅石の助けを借りて構築されているからである——この隅石が当の体系を脱構築するにもかかわらず、あるいはそうするおかげで。
        [……]
たとえ欠陥があるとしても、隅石はなお維持し、結合する。隅石はそれが解体するものを全体として保つのである。

『メモワール ポール・ド・マンのために』ジャック・デリダ


さてこの長ったらしい引用を一部省略しながら、『PLUTO』を代入してみましょう。するとブラウ1589が脱構築しようとするものについてより鮮明になるはずです。太字が代入した値で、取り消し線が原文です。また、同じ原文に同じ代入値を与える場合は、原文を省略します。

プログラム体系]においてまず最初に位置づけられるのは「無視された片隅」とブラウ1589欠陥ある隅石]である。ブラウ1589隅石]はそもそもの始まりから物語あるいは作品世界建造物]の一貫性と内的秩序を脅かしている。ブラウ1589物語世界によって要求されているにもかかわらず、当の物語世界をあらかじめ内側から脱構築する。ブラウ1589物語世界の結合を保証しつつ、あらかじめ、見えない仕方で、来るべき脱構築に好都合な片隅に位置づける。同様にまた次のように言うことができるだろう。すなわち、設立された物語世界の壁をしっかり立たせておくという建立の条件、これをブラウ1589が維持し、内包し、そしてその場が建築術的体系の——「体系全体の」——一般性と等価である、と。
            [……]
脱構築の条件はそこにすでに位置づけられており、中心ではなく、中心をはずれた中心ですでに働いている。中心を外れたこのブラウを幽閉する地下牢片隅]は体系の堅固な集中を保証し、その構築にまで寄与しつつも、同時に、それを脱構築する脅威にもなっている。
       [……]
物語世界はみずからを(まるで殺人ロボットを隠蔽化して物語世界の明るみからクリプト化=物語の明るい部分から欠如させるかのように)全体化しておらず、ロボットのプログラミング(殺人という)欠陥あるブラウ1589の助けを借りて構築されているからである——この隅石が当の体系を脱構築するにもかかわらず、あるいはそうするおかげで。


私はプルートを見ることで、ハッとさせられる場面に何度も遭遇しました。

ロボットが悲しんでいるとき、それは感情なのかプログラムなのか?
悲しみも憎悪もロボットが学習した感情の模倣にすぎないのか?
だけど、私の感情こそ模倣なのではないか。
私は本当にだれからも感情を学ばずにして、感情を得たのだろうか。
もし私も感情を学んでいるとしたら、それはロボットと結局は同じ
ことではないのか。そうならばロボットは「本物の」感情を習得できるかもしれない。あるいは私の感情こそ「模倣」なのかもしれない。


本作では、人間とロボットの境界をかき乱す瞬間は何度もありました。

・ロボットが人間を模倣してそれらしく振る舞っている瞬間
 =私も社会の慣習を真似ているに過ぎないではないか
・ロボットが感情について説明を人間にもとめた瞬間
 =そもそも私だって「本当の感情」なんて知らないじゃないか
 =私の感情がオリジナルだと保証できるのだろうか

そしてその極限として表出されていたのが、ブラウ15889だと感じました。

見た目も人間と変わらない、感情(あるいはそれらしきもの)を表現できる、涙を流す、夢を見る……

もはや「私はロボットである」「私は人間である」と言う以外にロボットと人間の区別が不可能になった世界。その世界で唯一人間に”プログラム”され、ロボットに”プログラム”されなかった、殺人可能性。それが完璧なロボットによって侵犯されたとき、両者の区別は可能なのか。区別それ自体がまやかしにすぎないのではないか。


★まとめ

話が長くなってしまいました。
改めて本記事の要約をしようと思います。

私はプルートゥを見た時このように思いました。
結局ロボットの殺人の問題を投げっぱなしじゃないか。
むしろゲジヒトやアトムの存在を肯定したことで、殺人に妥当性を与えているではないか。

脱構築が明らかにしたことは、つまりこの問題を解決してはいけないということ。
なぜならロボットと人間の境界が崩れた以上、「ロボットは〜」というかたちで何かを語ることはできないからです。

デリダがいうように、
「脱構築とは…それはつねにすでに作品のなかで作動中」だったのです

もはやロボットの殺人可能性のアポリア(未解決)なしに、物語は始まることも終わることも許されなかったということ。

本作で人間とロボットを区別する言説はなんだったでしょうか。

「ロボットは人を殺さない」
「ロボットは嘘をつかない」

しかしもはや
「人間は人を殺す。ロボットも人を殺す」
「人間は嘘をつく。ロボットも嘘をつく」

殺人可能性については前の章で詳しく述べたので、省略します。
しかし殺人可能性は殺人が起きる前からつねにすでに作動中だったのです。

殺人が起きる前、とはどういうことでしょうか。

それは世界最高水準の人工知能ロボットは、その完璧なプログラムゆえに「嘘をつくことができる」ということなのです。

思い返してください。
アトムはゲジヒトとから記憶チップを借りた時、「事件以外の記憶はそっちで処分すること」というゲジヒトの約束を破るつもりだったこと。
エプシロンが、子供のサプライズパーティーを知っていながら驚いたふりをしたこと。
ブランドがプルートゥの対決を前にして家族に雑誌の取材だと誤魔化したこと。


つまり、ロボットはつねにすでに完璧な設計ゆえに完璧なプログラムから逸脱していたのです。ロボットの本質は殺人である。

それは何を意味するか。
もはやゲジヒトやブラウ1589に限らず、あの優しいエプシロンもモンブランも、ブランドもアトムも、そもそも人を殺すことができた!

そこでは何が求められるのか。
もはや倫理しかない。

我々は倫理に訴えるしか秩序を保てない
こう言ってしまえば、最終的に社会を維持するのが倫理であるということ。

この作品が脱構築した成果は、倫理の重要性だと感じとりました。



この「robot-human」の構造を脱構築する。それがブラウ1589であり、また本アニメはその脱構築を我々に迫ってくる作品といえるでしょう。


終わりに

本作ではまた別の問いかけもなされていました。
つまり、ロボットは記憶を忘れることはできない。そして人間はつらい記憶を忘れることができる。同時に、ロボットはその記憶をそっくりそのまま他者へ引き継ぐことができる。
実際、アトムくんも、ゲジヒトの記憶を引き継ぎましたし、死んだ仲間のロボット——ブランド、ヘラクレス、エプシロン——を偲んでいました

これについてもデリダは上記の書籍『メモワール』において触れています。むしろ、この書籍は亡きデリダの友人ポール・ド・マンの記憶——メモワール——を偲び、捧げるために書かれていたのです。
だからこそ本書の本題はむしろ「死者を記憶すること」に賭けられていました。この記事を呼んだかたなら興味を惹く書籍だと思います。

われわれが「~を偲んで」忠実に想い起こすべく「われわれのうちで」や「われわれのあいだで」と言う場合に、いかなる記憶のことを言っているのだろうか。(……)これらは、切り離され、散らばり、欠落した断片の数々、つまり旅立ってしまった他者の「諸部分」にすぎないが、今度はそれらがわれわれの諸部分、記憶のうちで「われわれのうちに」含まれた諸部分となる。この記憶は、不意にわれわれより大きく古いように思われる。より「大きく」というのは、一切の量的比較を超えて崇高なまでに大きいということである。

『メモワール』

デリダはこう言っています。他者が死んだ時、彼を想起させてくれるものはほんの記憶の断片に過ぎない。けれどそれが私の記憶を形作るのである。

また同時に、デリダは忘却について鮮やかな主張をします。

絶対的過去というこの〈死んだ存在〉はそれ自体もはやけっして回帰せず、この先ももはやけっして現に存在することはなく、現前してその忠実さへの信に応えることもなければこの信を共有することもない。(………)しかし、もし自己自身がそのように自己と関係するのがただ他者にもとづいてでしかないとしたら、そうした結論はどうなるだろうか。つまり、その自己関係がただただ、絶対的過去としての他なるものと交わされた約束(将来のための約束、将来の痕跡)にもとづいてのみ、この絶対的過去にもとづいてのみ成り立つのだとしたら、また、他者といっても、共通の現在に属する「われわれ」をつねに超え出て〈生き延びるもの〉すなわち〈死すべきもの〉であろうような、そうした他者のおかげでのみ成り立つのだとしたら、はたしてどうなるだろうか。現在の瞬間において、つまり二人の友人を会わせる「生き生きした現在」において——まさに友愛の瞬間だ——次のような記憶の場面が絶対的過去へと書き記される。すなわちその場面は、健忘的忠実さという狂気を、つまり忘却するほどに過剰に記憶するというもっとも重大でもっとも軽薄な狂気を指令するのである。

メモワール

どういうことでしょうか。
当たり前ですが死んだ人間は戻ってこない。しかし人間というのが独りで存在できるものではなくて他者との関係において存在できるというのならば、その時私は先立った他者との約束を記憶できるのである。そして他者は死なない。他者は肉体としては滅びても、私の心の内側で生き延び続けているのだ(ワンピースのセリフ「人はいつ死ぬと思う?人に忘れられたときさ…!」を思い出してください)。

デリダは何が言いたいのか。
愛する仲間、恋人が死んだ時、それはもはや失われた存在として過ぎ去っていくのではない。何度もリフレインする記憶の死者は、私に思いを引き継ぐように彼に忠実であるように声を挙げているのだ。だからこそ、死者は生きている!

殺されたゲジヒトの記憶チップを直接埋め込まれたアトム。ですがその記憶は、歴史の教科書あるいは備忘録的な無機質なものではなかったのです。「憎しみは何も生まない」という彼の記憶はアトムにまさに生きた感情として受け継がれつづけている。

それは亡き人間を過去という墓石の下に置いて去るようなものではなく、彼の記憶を思い返すたびに彼自身が目の前に現れて語りかけてくるような記憶。まさに彼の生が現前しているような生き延び。

ロボットの欠点とされていた記憶の問題。つまり記憶を忘れられない、ありありと何度もフラッシュバックしてしまう。人間のように忘却できないロボットの宿命。だけども、それゆえにアトムはゲジヒトを受け継ぐことができましたし、物語の最後の最後までゲジヒトは主人公だったのではないでしょうか。


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