雪崩の街

 彼は、旅人だった。
 生来の根なし草で、荒涼と続く世界を目的も理由もなくあてもない旅を続けることが、彼の人生だった。
 だから、真っ白な雪に覆われた峻厳な山の麓に張り付くようにして存在している、その小さな街に彼が訪れたことに理由はなかった。たくさんの山と谷に囲まれたこの地に平地は少なく、あたりにはその街以外に人の住むところは見当たらなかった。冷たい風が吹き荒ぶ雪と岩だらけの荒野に、その街は取り残されたようにぽつんと存在していた。
「よかった、街だ。これで今日は野宿しなくて済みそうだ」
 旅人はひとり呟く。共に手を携える者もいない孤独な一人旅を続けていると、自然独り言も多くなる。
 起伏の激しい、苛酷な土地を一人歩き続けてきた旅人にとって、その街を見つけられたことはとても幸運に思われた。
 伸び放題の髪の毛と髭、それに顔じゅうを真っ黒に染める色々な汚れとに隠されて年齢さえ定かでないその顔に笑みさえ浮かべて、旅人は街の門を叩いた。
「すみません、旅の者ですが。街に入れていただけませんか?」
 自分に聞かせるためで無く声を出したのは随分と久しぶりだったから、きちんと声を出せているのか心配だったが、しばらくすると門は内側から音もなく開けられて、中からはきちんとした服装をした中年の男性が顔を出した。
「おや、旅の人とは珍しい。私はここで三年門番をやっておりますが、旅人が来たのは初めてです。ようこそ我々の街へ。さぁ、どうぞお入りください」
 中年の男性は旅人の汚れた格好を気にすることも無く、満面の笑みで彼を街に迎え入れた。
「これは丁寧にありがとうございます。では遠慮なく」
 多少はごたごたするだろうと覚悟していた旅人は、とても幸せな気分になる。
 どうやら、ここはいい街のようだ。


 旅人は街に一つだけある宿泊施設に泊まることになった。旅人などめったに訪れない街だから、宿泊施設は街の住民たちがイベントの時などに使う、合宿用の施設だった。だから設備面での充実は望むべくもなかったが、何かにつけて世話を焼いてくれる親切な住民たちのおかげで、旅人は何一つ不自由することがなかった。
「家で作ったスープです。よろしければ召し上がってください」
 施設までわざわざ鍋を持ってきてくれた年若い女性に礼を言って、旅人はスープを受け取る。
「ここはいい街ですね。皆さんがとても親切であったかい」
 旅人がそう言うと、女性は花のような微笑を浮かべた。
「ええ、そうでしょう。この街には競争がありませんから、みんなが穏やかなんです」
「競争が、ない?」
 当たり前のように言った女性の言葉に、旅人は首を傾げる。そんな旅人の様子に、女性は穏やかに微笑んだだけだった。
 競争がない、とはどういうことだろう。強力な政府に富を集中させて再分配する、いわゆるコミュニズムのようなものだろうか。だが、この街に強力な権力機関があるようには思えない。旅人は頭をひねった。
「この街は強力な政府みたいなものが管理しているんですか?」
 力仕事に手伝いに、と施設にやってきた若者に尋ねてみる。若者は驚いたように目を見開いて、首を横に振った。
「この街に政府なんてものはありませんよ。全部自分たちで管理してます。自治、ってやつですね」
「ということは、デモクラシーだ。多数決で決めるんですね」
 旅人が言うと、若者は首を傾げた。
「多数決なんて、採ったことあったかな? みんなで譲り合うから、意見が対立することなんてないですから」
 若者は穏やかに笑って去って行った。

 身の回りのことは、住民たちがみな親切でやってくれた。暇を持て余した旅人は、街の中を散歩してみることにする。
 空気は冷たかったが、優しい午前中の太陽が暖かに降り注いでいた。街の真新しい建物たちが、太陽を受けてきらめいている。
「あれ? そう言えばこの街のものはみんな新しいな」
 旅人が呟く。
 確かにどこを見回しても、長い歳月を経ていると思われるような建造物は見当たらない。新しい街に来ると、その街の歴史を感じさせる古い建物を見るのが好きな旅人には少し寂しく感じられたが、それも些細な問題だった。
「こんにちは、旅のお方。この街はいかがですか?」
 散歩をしていると、街の人たちが親しげに話しかけてくる。その表情はみな穏やかだ。
「ええ、とても素敵な街ですね」
 旅人も笑顔で応える。
 平日の昼間だというのに、街行く人たちは誰もがのんびりと過ごしているようだった。お店の人や、ビジネスの話をしている人、学校の先生など、それぞれが仕事をしてはいる。でも、誰一人として仕事に追われているようには見えない。
「問題があるとすれば、娯楽が少なすぎることくらいかな」
 旅人が呟く。彼の言うとおり、この街にはゲームセンターも、遊園地も、デパートもなかった。
 娯楽だけではない。最新の通信機器も、そういえば自動車も走っていない。あるのはせいぜい自転車くらいだ。
「なんだかまるで、大昔の世界みたいだな」
 奇妙ではあったが、困るというほどでもなかった。最新鋭の通信機器も高速の移動手段も、時間に追われている社会でこそ必要なもので、周りの誰もが持っていないのならば別に必要ないのかもしれない。
 不便を感じるよりもむしろ穏やかな気持ちで、旅人はこの街の雰囲気を楽しんでいた。
「だけど……どうしてこの街の人たちはこんなに穏やかでいられるのだろう?」
 どんな歴史を辿ってみても、競争も対立もない社会なんて存在しない。望むと望まざるとにかかわらず、ある程度の人間が集まればそれらは自ずと生まれてくる。それを権力で無理やりに押さえ込んだ例はあっても、そこには必ず歪みが生じるものだ。そんな社会にあって、人はこのように穏やかでいられるものだろうか?
 いや、この街にはそもそも権力さえ存在しないという。ならばみな自発的に競争も対立も放棄しているということだろうか。そんなことがどうして可能なのだろう?
「まあ、そんなことはどうでもいいか」
 旅人は微笑みながら呟く。
 町の暖かで穏やかな空気は、旅人のそんな疑念さえも、ゆっくりと溶かしていくのだった。

「競争も対立もないだなんて。この街は素晴らしいな。これがユートピアってやつなのかも」
 宿泊用に貸し与えられた部屋に戻ってきて、旅人はひとりごちる。今までたくさんの街を見てきたが、こんなところは初めてだった。
「僕の旅も、ここで終わるのかもしれない」
 理想的な街を求めてあてもなく彷徨っていた彼の旅。自分は今、そのゴールを見つけたのかもしれない。そんなふうに思うと、彼の胸は高鳴った。
 満ち足りた気持ちで、彼は用意された簡素なベッドに入る。質素だけれど清潔なそれは、極上の調度品にも劣らぬ心地よさに思われた。
 すぐに、彼は眠りに付いた。どれほどぶりかもわからない、深い眠りだった。
 真夜中に街中に鳴り響いたサイレンにも気づかないほど、それは深い深い眠りだった。

 
 ゴゴゴゴゴ、という地鳴りのような音が聞こえた時、旅人はそれを夢の中の音かと思った。はっきりしない意識の中で、その音は次第に大きくなっていく。やがてそれは布団に包まった耳にも無視できないほどの大きさとなり、旅人はあわてて身を起こした。
「な、何の音だ?」
 慌てふためいてベッドから飛び起きた旅人の身体がぐらりと揺れる。まだ寝ぼけているのかと思ったが、そうではない。地面が、揺れているのだ。
「地震? いや……」
 そう呟いてから旅人は、自分のいる街の立地を思い出す。雪に覆われた大きな山に、貼りつくようにして存在する小さな街。
「雪崩だっ!」
 あわてて彼は、とるものもとりあえずに部屋を飛び出す。普通の地震なら不用意に部屋を出るのは自殺行為だが、これが雪崩によるものならそんなことはいっていられない。ゆっくりと部屋で待っている間に膨大な雪の流れが押し寄せて、そのまま雪の下でその生涯を閉じることになりかねない。
「みんな、地震だ!」
 大声で叫びながら、パジャマ姿のまま旅人は施設の外に飛び出した。
 鳴り響く地鳴りと対称的に、街は静まり返っていた。人の姿一つ見えない。みんな、すでに避難した後なのだろうか。そうだとすれば驚くほどの手際だ。
「どっちに逃げれば……とにかく、山から離れるしかないか」
 旅人は舌打ちして山と反対方向に向かって走り出す。一瞬だけ後ろを振り返ると、山から絶望的なほどに巨大な白い塊がゆっくりと滑り落ちるのが見えた。
「間に合わないか……冗談じゃない!」
 全身から血の気が引くのを感じながら、旅人は力の限り走った。しかし、疲労よりも絶望が彼の身体を鈍らせ、あっという間に身体が言うことを聞かなくなる。
「まだ残っていたのですか! さぁ、こっちです!」
 すべてをあきらめかけたとき、背中から声がかけられて旅人は振り返る。
 見れば、この街ではついぞ見ることのなかった古びた雪上自動車にまたがった若い男が、旅人に手を差し伸べていた。
「そっちに逃げても間に合わない! こっちに、避難場所があるから一緒に来てください!」
「た、助かった――」
 男に抱きかかえられるようにして助手席に引き上げられた直後、旅人は意識を失った。


 旅人が次に目を覚ましたところは、薄暗い洞窟だった。
「な、雪崩はっ?」
 目を覚ました途端に脳裏に先ほどの恐怖が甦って、旅人はがばりと身を起こす。
「もう行ってしまいましたよ」
 穏やかに答えたのは旅人を助けた、雪上自動車スノーモービルを運転していた男だった。改めてあたりを見回すと、洞窟の中にはたくさんの人たちがひしめいていた。おそらくは街の住民すべてがここにいるのだろう。見かけた顔はみな揃っている。
「ここは山のすぐそばにある洞窟でして。近すぎて却って雪崩に呑み込まれない、死角になっているんです。だから、何百年も前から我々の街の避難所になっています」
 話しているのはやはり先ほどの男だ。おそらく彼がこの街の代表者のような存在なのだろう。
「なるほど、みなさん無事のようですね……でも、街は? いったいどうなったんです?」
 旅人が尋ねる。
「それは、目で見た方が早いでしょう」
 男に促されるままに、旅人は洞窟の出口に向かった。
 急に明るくなった視界に思わず目をつむった旅人は、ゆっくりとその目を開いて――言葉を失った。
「――これは」
 街が、なくなっていた。
 高い建物もなかった街は完全に真っ白な雪に埋もれ、跡形もない。そこにかつて街があったことすらも夢だったかのようだ。
 真っ白な雪が、太陽の光を反射してきらきらと光る様は、幻想的ですらあった。
「ああ……」
 旅人は思わずうめき声を上げた。見覚えのあった街がすべて消えさってしまうというのは、思っていたよりずっと衝撃的なことだった。この街を訪れたばかりの彼でさえそうなのだから、街を見慣れていた、ここの住民たちにとっての衝撃はいかほどだろうか――。彼は人々の嘆きの表情を予想しつつ、振り返った。
「あれ?」
 旅人は後方に並ぶ住民たちの表情を見て拍子抜けする。彼らの視界には間違いなく跡形もなくなった彼らの街が映っているというのに、だれ一人として嘆いているようには見えない。あるいは、あまりの衝撃に嘆きを通り越して皆表情を失っているのだろうか? しかしそれにしてはむしろ、すがすがしい表情をしているようにさえ見える。
「大変申し訳ありませんでした。そろそろ来ることは分かっていたのに、みな自分たちのことで精いっぱいで、旅人のあなたのことまで考える余裕がなく――危うく、あなたを巻き込んでしまうところでした」
 街の代表者の男が、旅人に向かって深々と頭を下げる。まるで、雪崩を予想していたかのような口ぶりだ。
「あなた方は、雪崩が来ることを分かっていたのですか?」
「ええ。それはもちろん。毎度のことですから」
「それならなぜ、何か対策を取らなかったのですか? 結果的にこんなことになってしまうなら、せめて少しでも被害を減らす手立てを考えるとか――」
「無理ですよ。ここの雪崩にはなにものもかなわない。ここはそういう場所ですから。それに、住民は皆避難していますから、被害とはいっても、人的被害はありません」
 住民たちの呑気な態度が理解できず、旅人は眉を寄せる。なぜ彼らは、自分たちの街が壊滅したというのに、こんなにも平静でいられるのだろうか?
「だったらいったいなぜ、こんなところに街を作って住んでいたのですか? 雪崩で壊滅してしまうことが分かっていたのだとしたら――」
「雪崩で壊滅してしまうから、ですよ」
 いささか興奮気味の旅人に、答えた男の声はあくまでも穏やかだった。だが、その言葉の意味するところを理解できず、旅人は困惑した表情を浮かべる。
「どういうことです?」
 そんな旅人の様子に、男は微笑を浮かべて答えた。
「いわば、新陳代謝です」
「――新陳代謝?」
 男は話し始める。
 山の麓に張り付くようにして作られた、この街の成り立ちを。


「数百年前にこの街を作ったわれわれ先祖たちは、理想の社会を求めていました。持続可能な理想社会とは何か、と」
 男は淡々と話し始める。
「あらゆる歴史を見れば明らかですが、永遠に続く社会などというものはありえません。むしろ、長く続けば続くほど社会は腐敗し、社会の仕組みそのものが内側から侵食して、社会は自壊していきます」
 男の口調は穏やかだが、断定的で強い信念を感じさせた。周囲で話を聞いている住民たちも一様にうなずいている。
「社会を腐敗させないためにはどうすればいいか。それには、社会を停滞させないことが不可欠です」
「それが新陳代謝……」
「そのとおり。ある程度の期間ごと古いものを一度破壊し、新しいものに更新する――生物は、新陳代謝の仕組みを手に入れてからその寿命を飛躍的に延ばしました。社会の寿命も、同じなのです」
 微笑さえ浮かべる町の住民たちの姿に、旅人は息を呑む。彼らの言う新陳代謝とはつまり――。
「だから、あえて雪崩が起きればすべてが壊滅するようなところに、街を作ったというのですか」
「ええ。ここでは約十年に一度、必ず大規模な雪崩が起きます。雪崩のたびに街は完全に壊滅し、私たちはゼロになった街を、位置から作り直すことができるのです」
 十年に一度。常に意識していられるほど短くはなく、しかし忘れることができるほど長くはない期間。目の前の中年の男は今までに何度、街の崩壊を目にしているのだろうか。
「十年に一度、すべての形あるものは消え去り、われわれは一律に零からのスタートになる。すなわちわれわれとわれわれの町は、十年ごとに生まれ変わる」
「十年であらゆるものがなくなってしまうから、この街では所有することに意味がないんです。お金持ちになるとか、立派な家を手に入れるとか、私たちはそういったことには興味がありません。むしろ、すべてが零になった後の街の再興はみんなが力を合わせてやりますから、全員で全員のための家を作る、といった感じです」
 そう言って、心からの笑顔を浮かべたのは旅人にスープを提供してくれた、あの年若い女性だった。「この街には競争がない」と笑顔で語った彼女だ。
「所有がないから競争がなくて、競争がないから対立もなく、権力も必要ないんです。わずかな意見の食い違いや諍いはありますが、みんなの話し合いで十分に解決できる程度ですよ」
 今度は旅人の力仕事を手伝ってくれた若者が言う。
「そういうわけです。確かに、作ったものが跡形もなく崩壊することに寂しい気持ちはあります。けれど形あるものは必ず滅びる。それが遅いか早いかの違いだけです。ならばいっそのこと、中途半端な残り方をせずに跡形もなくなってしまえば、後ろを振り返ることなく、前を目指すことができるんです」
「過去を、きれいさっぱり消し去ってしまう、ということですか」
「そういうことに、近いのかもしれませんね」
 尋ねた旅人に対し、代表者の男は少しの皮肉も込めることなく、そう答えた。
「ここは、ユートピアですよ。競争も、権力もない。所有がないから不足もない。新陳代謝を続けることで、却って永遠に変わらない楽園を、この街は作り上げているんです」
 男性は、自分の言葉を少しも疑っていないようだった。街の住民たちも、男性の言葉に異論はないようだ。
「さぁ、旅人さん。あなたもこの街の住民になりませんか?」
「……せっかくだけど、僕は旅をしないと生きられない性格なんです」
 きっちり一分ほど黙ってから、旅人は答えた。


 旅人は、また旅人となった。
 山の麓に貼りつくようにして存在している街を出て、見渡す限り何の目印もない地平線に向けて、あてもない旅を続ける。
 もう少しで街が見えなくなるころ、旅人は一度だけ振り返った。
 あの街では、きっと手馴れた様子で復興作業が行われているのだろう。住民全員で全員のための家を作っているはずだ。それが、十年程後にはまた、雪崩によって跡形もなく消え去るものであると知りながら。
 それが幸せなのかどうか、旅人にはわからなかった。
「だけど少なくとも、僕の性には合わないな」
 ひとり呟いて、旅人はまた前を向いて歩き出した。彼の、ユートピアを探すために。

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