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短編小説「猫になりたい」

1.
 朝目が覚めると猫だった。
 「朝目が覚めると自分が巨大な毒虫になっていた」とかいうのが、ドイツかどっかの有名な小説にあったような気がする。
 毒虫ってやだな、気持ち悪い。猫の方がだいぶましか。
 吾輩は猫である。名前はまだない、ってね。
 いやいや、気取ってる場合じゃないぞ。これはなかなかに大変な問題だ。
 目が覚めるまでは、いや少なくとも昨夜眠りにつくまでは、僕は人間だったはずだ。会社から疲れきって帰ってきて、倒れこむようにベッドに入って……目が覚めたら猫だ。
 こんなことってあるもんなんだな。絶対ありえない、と否定してみたっていいけど、まぁ実際そうなってるんだからしょうがない。
 気がついたら体中茶色くて柔らかい毛に覆われてるし、自分の手を見たってそれはどう見ても猫のものだ。無類の猫好きの僕が言うんだから間違いない。猫の手を他の動物の手と間違えるなんてこと、僕に限ってはありえない! ってそんなこと自慢したって何にもならないけど。
 試しに、洗面台に昇って(さすが、猫になっただけあって、自分の背よりも高い洗面台の上に軽々と飛び乗ることができた)鏡を覗き込んでみた。きれいな茶色い毛並みの猫が、そこにいた。どうやらまだ子猫のようだ。生まれて一年と経っていないようにも見える。うん、なかなか可愛いな。思わず飼ってあげたくなっちゃう。……って、これ、僕か。
 起き抜けで頭がぼうっとしていたせいか、それとも僕の生来ののんびりした性格が原因か。僕は比較的今の状況をすんなりと受け入れていた。普通だったらここ、気が狂っちゃうくらい取り乱すべきところなのかな。まぁ、そんなことしたって何にもならないしね。
 ゆるい頭でぼんやりと思ったのは、「この姿じゃ会社には行けないなぁ」とかそんなことだった。

2.
 どうやらこの姿では、しゃべることはできないみたいだった。試しに「おはよう」と言ってみようかと思ったけど、口から出てきたのは「にゃあ」という可愛らしい鳴き声だった。まぁ、猫なんだから当たり前か。大人の男の声でしゃべる猫だなんてまったくもってかわいくない。そんなの猫として許せない。
 しゃべれないからと言って特にかまいはしなかった。独身の男一人の部屋に、会話なんてものは意味がない。確かにたまに独り言を口にしてしまうのは一人暮らしのさがというやつだが、別に独り言が「にゃあ」に変わったからと言って何一つ問題はないのだった。
 ただ、これでは会社に電話することもできない。この時点で僕の無断欠勤は決定だった。真面目だけが取り柄の(そしてそれは時に「融通が利かない」と評される)僕は、無断欠勤など生まれてこの方初めてだった。
 だけど意外にもその事実は僕を、ことさらに慌てさせはしなかった。一度の遅刻にもひどく怯えて、毎朝必要以上に早く起きてしまうような僕が、驚くほどに冷静なのだ。
 僕が感じていたのは焦りではなくて、ほっとしたような奇妙な気持ちだった。ひょっとしたら僕は求めていたのかもしれない。僕にはどうしようもない力によって、僕の日常が崩されるのを。いつの間にやら築かれてしまった僕という人間の虚像が殺される日を。
 たった一度の無断欠勤によって、僕のイメージはたやすく書き換えられるだろう。「不器用で要領は悪いが、真面目だけが取り柄なやつ」から、「仕事を無断でサボったりする、いい加減なやつ」へと。もはやそれは決定してしまった。いくら足掻いたところで、変えることはできなそうだ。だって今僕は、まぎれもなく猫なのだから。
 「決まってしまったことは仕方ない、次にどうするか考えよう」なんてことを思えるのは、その事実の原因が自分にないときだけだ。自分が原因だったら、後悔と自己嫌悪と先への不安で身動きがとれなくなるだろう。
 だから僕は、猫になったことを心のどこかで歓迎していたんだ。壊したくてしょうがなくて、でも壊すという行為に怯えて手を出すことが出来なかったものが自分から壊れてくれたのだから。
「にゃあ」
 なるべく可愛らしく聞こえるように鳴き声をあげてみた。
 うーん、われながら思わず抱きしめたくなるくらい可愛い。自分を抱きしめることができないのが残念だ。なんだか、極度のナルシストになった気分だ。
 特にやることも思いつかなかった僕は、とりあえず猫らしく丸くなって寝ることにした。ほんのりと暖かいベッドの布団の中にもぐりこむ。
 何も気にせずに心安らかに眠れるのは、ひどく久しぶりな気がした。

3.
 再び目が覚めてもやはり僕は猫のままだった。
 目が覚めたら猫だったのだから、もう一度目が覚めれば元に戻っているかもしれない、という僕の淡い期待は叶わなかった。
 いや、僕はいったいそれを期待していただろうか?
 目を覚まして自分がまだ猫であることを確認した時、間違いなく僕はほっとしていたのだ。人になど戻りたくはない。いまさら人の姿に戻ったところで、僕に居場所なんてないのだから。
 自分が猫であることを確認してほっとした僕は、また丸くなった。僕は猫なのだ。あくせくする必要なんてない。ゆっくりともう一度、優しいまどろみの中へ落ちていく。
 猫になって初めて、自分が世界に受け入れられたような気がしていた。

*  *  *  *  *  *

 腹が減って目が覚めた。
 カーテンから差し込む光は幾分傾きオレンジがかっていて、今が夕方であることを僕に教えていた。
 猫としての当面の問題は、食べることだった。
 僕は仕方なくベッドの上から飛び降り、部屋の中を物色した。
 猫の姿では、部屋がやけに広く見えた。とりあえず食べるものを、ということで僕は冷蔵庫へ向かった。台所の隅っこで、一人暮らし用の白い小さな冷蔵庫が静かな部屋の中にかすかな駆動音を響かせている。
 冷蔵庫の扉を開くのは困難かとも思われたが、柔らかな毛に覆われた前肢は意外にも器用に動き、僕はちょっと背伸びをしさえすれば難なく冷蔵庫を開けることができた。
 冷蔵庫の冷たい光が、薄暗くなってきた室内を静かに照らした。

4.
 冷蔵庫の中には、ろくなものがなかった。飲みかけのコーラのペットボトルに、いつのものか分からないチョコレート。それに、各種の酒。
 おいおい、僕はこんなもの食べて暮らしてたっけ?
 さすがにそりゃないだろ、と自分に突っ込みを入れていた僕は、戸棚にカップラーメンの類をしまってあったことを思い出した。
 とりあえずチョコレートだけとって、包み紙を何とか前肢と口でこじ開けてかぶりつく。甘い味が口の中に広がり、ほんの少しだけ幸せな気分になった。
 後ろ足でドアを蹴って冷蔵庫を閉めた僕は(どうやら仕草までどんどんと猫っぽくなっているようだ)、流し台の下にある、食料を保管しているはずの戸棚を開けた。
 おお、何だ結構食糧あるじゃないか。
 ほっとして、戸棚に乱雑に放り込まれていたビニール袋に噛み付いて引っ張り出す。
 袋の中から出てきたのは、カップラーメンにレトルトカレー、電子レンジで調理するパスタに、缶詰のフルーツ……。
 おい、待てよ。どれも猫の姿じゃ調理できないものばかりじゃないか!
 せめて電子レンジさえ使えればと思うものの、冷蔵庫の上に載せた電子レンジには、いくらジャンプしてみても届かない。まったく、誰だあんなところに電子レンジを置いたのは……って僕だけど。
 まぁ電子レンジが開けられたところで、レトルト食品の袋をきれいに開けて電子レンジでチンして食べる、なんてのはこの猫の手では至難の業だ。
 むむむむむ。
 こうして僕は、独り暮らしの自分の部屋という、「僕のお城!」なはずの場所で、本気で飢え死にの心配をしなくちゃならなくなったのだった。

5.
 家の中に食べるものがないのならば、外に出るしかない。僕は、部屋を出ることにした。
 せっかく休みになったのだからもっと惰眠をむさぼっていたい気もしたが、空腹には勝てない。……とは言っても、すでに半日以上も寝ているのだけど。
 外に出る段になって、いつもの癖で家の鍵と財布と携帯電話を探している自分に気づいて、思わず苦笑する(その苦笑すら、にゃあという鳴き声にしかならなかったが)。そんなものを持っていったって、猫の身体じゃ、使いようがない。猫ってのは本当に身一つで生きていかなければならないんだなぁ、なんてことを今更ながら思ったりする。
 ドアを開けるのに多少苦労はしたが、なんとか外に出ることは出来た。
 うちが安アパートで、体当たりすれば簡単に開くようなドアしかない部屋でよかった。下手に高級アパートだったりしたら、僕は頑丈なドアに阻まれて外に出ることすら出来ずに部屋の中で飢え死にするのを待つしかなかったかもしれないと思うと、背筋が冷たくなる。僕はぶるっと身震いをして(それはまさしく猫が濡れた身体を乾かす時の仕草そのものだった)、安アパートの薄暗い廊下を歩き始めた。
 人間だった時からの癖で、誰もいないというのに廊下の端っこ小さくなって歩いていると、前方から巨大な影が近づいてくるのが見えた。背中を大きくそらして見上げてみると、それは人間だった。なるほど、猫になってみると人間というのはこれほど大きく見えるのか。多くの猫が知らない人間を見かけると一目散に逃げ出してしまうわけが分かった。自分よりもこれほど大きな存在というのは、そりゃ、恐怖の対象に違いない。それが知らない生き物だったらなおさらだ。
 だがよく見てみると、その人間は知らない存在ではなかった。肩までの長さの茶色く脱色した髪。くりっと動く大きな黒い瞳。僕の隣の部屋に住んでいるらしい、女子大生(おそらく)だ。まだ美人と呼べるほど大人っぽくはないが、可愛らしいという表現が似合う彼女は、実は結構僕の好みのタイプだ。
 とはいえ、お隣さんではあるが、僕は彼女の名前を知らない。都会ではみんなそうなのか、それとも女の子の一人暮らしだから警戒しているのかわからないが、廊下や階段でたまにすれ違うと、彼女は挨拶するでもなく、明らかにかかわりを避けるように僕のことに気づかないふりをしようとする。とても、のんきに世間話やら自己紹介を出来る雰囲気ではないのだ。それがちょっとだけ寂しかったりもする。まぁ、女子大生にとって、サラリーマンの男なんてのは警戒の対象でしかないのかもしれないが。
 けれど、今日は違った。それはそうだ。なんせ僕は今猫なのだから。それも、自分で言うのもなんだけど、とびきり可愛らしい子猫だ。
 彼女は、満面の笑みを浮かべて僕の方に近づいてきた。それは僕が初めて見る、彼女の笑顔だった。

6.
 女の子は僕の目の前まで来ると、いきなりしゃがみ込んだ。
 あどけなさの残る可愛らしい顔がぐっと近づいてきて、僕は思わずどきどきしてしまった。肩までの長さの、わずかに茶色がかったさらさらの髪の毛からフローラルなシャンプーの香りまで漂ってきて、僕の心拍数は跳ね上がる。彼女はそんな僕の心の中などお構いなしに、最上級の笑顔を僕に向けてくる。
「君、こんなところで何してるの? 首輪してないから、ノラ君かな?」
 口紅もつけていない薄桃色の唇を開いて、女の子はそんなことを言った。そう言えばこの唇が開かれてるところを見たのも初めてだ。わずかに覗く八重歯がチャーミング。
 彼女はよほど猫が好きなのだろう、僕に向けて紡いだ言葉の響きはまるで恋人への囁きのように甘くって、僕は頭がくらくらしてしまった。これまでの人生でこんなに甘い言葉を囁かれたことが、僕にもあったっけ?
「君、おなかすいてる?」
 ちょこん、と可愛く首を傾げて彼女が僕に尋ねる。
 われながら現金なことに、その言葉を聞いた途端僕は激しい空腹を思い出して、思わず答えてしまっていた。
「うん、ぺっこぺこ」
「あらあら、ずいぶんとおなかすいてるみたいね。あんまりタイミングがいいから、返事したのかと思っちゃった」
 かみ合わない彼女の言葉に僕は、なるほど、僕の声は彼女には「にゃあ」としか聞こえていないのだな、と理解する。でも意味は通じたみたいでよかった。もしかしたら食べ物にありつけるかもしれない。そんな期待が、僕の頭をよぎる。
 彼女はつぶらな瞳で僕を見つめ、それから警戒するようにあたりを見回した。
「本当はこのアパート、部屋に動物を入れちゃいけないんだけど……誰も見てないから、今回だけね」
 そう言って彼女はいたずらっぽく笑うと(その表情は彼女によく似合っていて最高に魅力的だった)、突然、僕のことをその両腕で抱えあげた。
 ちょっ、きゅ、急に抱きしめるなんて、その、こ、心の準備が……!
 慌てた僕の抗議も、にゃあにゃあという鳴き声にしかならない。
「こらこら、暴れちゃダメだよ。いじめたりしないからさ」
 そんなふうに言って、彼女はいっそう強く、僕のことを抱きしめる。柔らかい感触と、あったかいぬくもりが僕の体に伝わってきて――い、いかん、ぼうっとしてきた。
「お、よしよし、おとなしくなったね。しかし君、本当にかわいいなぁ。えへへ、ひとめぼれしちゃったよ」
 心の底からうれしそうな彼女の笑顔。
 うーん、これは。
 猫ってば、最高。
 にゃあ。

7.
 その華奢な腕の中に僕を抱きしめたまま、彼女は立ち上がった。
 僕が落っこちてしまわないようにぎゅっと、彼女は僕を腕の中に閉じ込める。
 いささか力が入りすぎているような気がするのは僕を大切に思うあまりか、――それとも彼女が僕にすがっているからか。
 彼女は僕を大事そうに抱えて、僕の隣の部屋――303号室のドアに鍵を差し込んだ。ちらっと見えたのは、猫の尻尾を模したふわふわのキーホルダー。彼女は本当に猫が好きみたいだ。僕だって負けちゃいないけど。
 そして彼女は無造作にノブをまわし、扉を開く。
 もちろん、人間だった時の僕には決して開かれなかった扉だ。そりゃ、どうしたってどきどきしてしまう。一人暮らしの女の子の部屋に入るのなんてはじめて、ってほどにはウブでもないけど、久方ぶりなことは確かだ。
 もちろん彼女は緊張なんかしないで(自分の部屋なんだから当たり前だ)、あっけなく扉を開いて中に駆け込んでいく。
 扉が開かれた瞬間、僕はあっけにとられてしまった。
 同じアパートの部屋なんだから、基本的な作りは僕の部屋と全く同じのはずだ。それなのに、部屋というものは主人の違いでこんなにも雰囲気が変わるものなのか。
 彼女の部屋は、ひとことで言うならスタイリッシュだった。まるで、オシャレな雑誌からそのまま出てきたような風景。もちろん、僕はそんな雑誌は読んだこともないけど。
 もともとの白い壁と、木の幹や枝の色をそのまま生かしたような茶色(確か、ナチュラルウッドとかいうやつだ)と、葉っぱを思わせるようなグリーン。部屋のほとんどがそれだけの色で構成されている。カラフルな色が氾濫する現代社会で、こういうシンプルな色使いは心を安らがせる。……なんて思わず評論家みたいなこと言っちゃうくらい、完璧にコーディネートされた部屋だった。とてもじゃないけど、床にまで雑誌やらお菓子やらが散乱している僕の部屋とは比べられない。
「どうしたの、きょろきょろして。あたしの部屋が珍しい?」
 あっけにとられている僕を顔の近くまで持ち上げて、彼女は想像していたよりも少し低い、穏やかで耳に心地いい声でそんなことを聞いてくる。ちょこん、と小さく首を傾げたりして。
 その姿はもう本当に、ほっとさせるような、硬く凝った心を優しくときほぐすような。
 そう、何よりも彼女自身が、この部屋の雰囲気にぴったりと似合っているのだった。

8.
「ほら、猫ちゃん。ご飯だよ」
 いつの間にか彼女は、戸棚から取り出した缶詰を皿の上に開けて、僕のことを呼んでいた。缶詰の中身は「秋刀魚の蒲焼」。意外に渋い趣味だ。
 皿の上から漂ってくる、香ばしい匂い。僕のおなかが、クゥと鳴ったような気がした。彼女は「ほら、おいしそうでしょ? 食べていいんだよ」なんて言いながら、ほっこりした笑顔で僕の方を見つめている。もう少し彼女の笑顔を見ていたい気もしたが、食べ物の誘惑には勝てない。僕は皿の上の秋刀魚を夢中でむさぼった。単なる缶詰だけど、最高にうまい。「空腹は最良のスパイスだ」なんて、誰が言ったか知らないけどうまいこと言ったもんだね。
 僕が一心不乱に秋刀魚を平らげている間、彼女はナチュラルウッドのローテーブルに頬杖をついて、黙って僕のことを見つめていた。はじめはうれしそうに僕の食べっぷりを見ていた彼女だけど、そのうちに視線がどこかへ彷徨いはじめた。僕の方を向いてはいるけど、心ここにあらずといった感じだ。
 僕が皿の上の秋刀魚をすっかり平らげてしまっても、彼女は僕の方を眺めたまま動かなかった。きっと、僕が食べ終えてしまったことに気づいてもいないのだろう。どこか遠くを見つめる彼女の視線は心なしか寂しそうで、僕の小さな胸を締めつけた。
 宙に浮かんだ彼女の瞳は、いったい何を見ているのだろう。
「にゃあ」
 いたたまれなくなった僕が小さな声を出すと、彼女の目が、ゆっくりと僕のもとに下りてきた。
「あ、ごめんね。猫ちゃん、もう食べ終わってたんだ」
 そう言って彼女は慌てたように立ち上がり、皿を片付けてから僕の頭を優しくなでた。そうしながらも彼女がちらちらと視線を向けているのは――彼女のものだろう、白い携帯電話。彼女は、誰かからの連絡を待っているのだろうか。
「はぁ」
 おそらくは彼女自身も意識していないだろう、かすかなため息をついて携帯電話をぼんやりと眺めている。僕の頭をなでる手は無意識に動かしているけれど、ちょっと力が入りすぎて痛いくらいだ。
 ちょっとばかり抗議の意味を込めて頭をぶるっと震わせると彼女ははっと我に帰り、僕の頭をなでる手を離した。そして改めてもう一度、今度ははっきりとため息をつく。
「馬鹿だよね、あたし。もう連絡なんて来るはずもないのに。この時間になるとつい、電話が気になっちゃうんだ。この時間にはいつもかかってきてたから……」
 僕に向けて、というより独り言なのだろう。彼女が言い訳をするように早口で呟く。ふと壁を見上げると、茶色の枠に白い文字盤のシンプルな掛け時計がちょうど七時を指すところだった。
「にゃあお」
 伏し目がちに時計から目をそらす彼女の姿があまりにも儚くて、僕は思わず彼女の髪を撫でてあげようと手を伸ばした。しかし、猫の短い手ではそれもうまくはできなくて、それがひどくもどかしかった。
「君は、慰めてくれようとしてるんだ? へへ、うれしいよ。ありがとう」
 そう言って、彼女は笑った。その大きな瞳を伏せたままの、寂しげな笑顔で。

9.
 僕を胸に抱いてモスグリーンのふかふかした座椅子にその小さな身体を沈めた彼女は、もはや寂しさがその視界に映らないことを願うかのように、力を込めてそのつぶらな目を閉じた。あんまり強く目を塞いだものだから、彼女の滑らかな白い眉間にはうっすらとしわが寄って、余計に辛そうに見えた。
 チッ、チッ、チッ。
 彼女の桃色の唇が音を紡ぐことをやめると、今まで気づきもしなかった秒針の音が途端に耳障りに聞こえてくる。
 僕はなんだか目を開けているのが苦しくなって、彼女の胸の中で静かに目を閉じた。
 暖かさと柔らかさと優しい匂いが僕を包んでいたけれど、彼女の寂しげな表情を見たせいか不思議と浮ついた気分にはなれなくて、むしろ冷たいほどの静けさが視界を塞いだ僕の世界を覆っていた。
 トクン、トクン、トクン。
 チッ、チッ、チッ。
 彼女の心臓の鼓動と秒針の音が混じりあって僕の耳に流れ込む。心を落ち着かせるはずのそのリズムは彼女の不安を映してかどこか不規則で、むしろ僕をいたたまれない気持ちにさせるのだった。
「……ふぅ」
 長いのか短いのかわからない時間がすぎて、彼女はため息とともに目を開ける。
 視界を塞ぐことで寂しさを忘れようという彼女の試みは、失敗に終わったみたいだった。目を開けると同時に、半ば反射的に傍らの携帯電話を手に取り、折りたたまれたそれを開いて変わりがないことを確認して、それからふと我に帰り自分の行為にため息をついて座椅子の背もたれに倒れ込む。ずっと目の前にいたのだから、携帯電話の着信を聞き逃すことなんてありえないのに。
 僕が心配そうに見上げていることに気づいた彼女が、びっくりしたような目で僕を見て、それから目を細めてふっと笑う。
「ごめんごめん、また心配させちゃったね」
 懸命に微笑む彼女の瞳が、寂しげに揺れる。
「……にゃあ」
「猫ちゃんってば、そんなに心配そうな顔しないでよ。あたしは、大丈夫だから」
 大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせるように彼女は呟く。
 大丈夫じゃないよ。ちっとも大丈夫じゃない。
 無理に持ち上げた唇は嗚咽をこらえてるし、頼りなく揺らぐ瞳は涙をこらえてるじゃないか。
 泣きたい時は泣けばいいのに。強がる必要なんてないよ。誰も見てないからさ。
 僕は大丈夫。僕は猫だから。気にすることはないよ。僕はただの猫だからさ。
 でも僕のそんな思いは彼女には伝わらなくて、彼女はまだ強がってる。僕の背中をなでたり、ほっぺを引っ張ったりして無邪気に遊んでるふりをしてる。
 彼女が強がってるのは、きっと、彼女自身に対してだ。自分に一番、嘘をついてる。

 ああ、僕が猫じゃなかったら。
 僕の言葉が、彼女に届けばいいのに。
 そんなふうに思って、でも待てよ、と思う。
 言葉が通じたら、どうだというのだろう? 僕は彼女に、どんな言葉をかけてあげられるというのだろうか?
 彼女の心を慰めるような気の効いた言葉なんて、僕にはわからないや。
 猫だったらとか、人間だったらとか、本当はきっと、そんなこと関係ないんだ。
 僕の心が彼女に伝わらないのは、猫だからじゃない。伝えようとしていないからだね。

 だから僕は、精一杯の伝えたい思いを込めて、彼女の白い腕に爪を立てた。

10.
 次に目が覚めたとき、僕は人間だった。
 猫になったときと同じように、何の前触れもなく唐突に、僕は人間に戻っていた。
 しかも、最後の記憶によれば僕は彼女の部屋で眠りについたはずだから、目が覚めて元に戻ったら彼女の部屋で裸で寝てたりしそうなものなのに(そうだったら、まるで一昔前のラブコメマンガみたいだ――自分が当事者になるのはごめんだけど)、実際には普通に自分のベッドでパジャマ代わりのスウェットを着て、目を覚ましたのだった。
 まさか、と思って枕もとの目覚まし時計を確かめる。日付や曜日まで表示させるデジタルの時計には、月曜日の朝06:32の表示。僕の感覚では昨日、つまり猫になったはずの日だ。つまり、猫としての僕が活動した一日は、存在しなかったことになる。
「ってことは――夢オチ?」
 思わず呟いた。それはきちんと言葉になって、虚しい独身男の独り言として部屋に響く。
 しかし、よりにもよって夢オチだなんて。今時安っぽい小説だってそんな手は使わないよ。
 月曜の朝からどっと疲れた気分になって、僕は洗面所へ向かった。鏡に映るのは見慣れた僕の冴えない顔。猫の方がよっぽど可愛かったなぁ。
 すっかり気が抜けてしまったけど、そんな僕の気分とは関係なく月曜の朝はすでに始まっている。まさか「変な夢を見てどっと疲れたから今日は休みます」だなんて言える訳もないし。あきらめて歯ブラシをとり、鏡に向かう。
 僕の日常はこうして、失われたときと同じくらい唐突に戻ってきたのだった。

 くたびれたビジネスバッグを掴み、ネクタイを結びながら玄関のドアを開けると、アパートの廊下に昇り始めた朝日が斜めに差し込んでいて、僕の身体を暖かく包む。猫だったときと――いや、猫になった夢を見ていたときというべきだな――視線の高さが違うから、僕はその光をもろに顔に浴びて目を細める。
 そういえば、ここに引っ越してきたばかりだった時、ここから差し込む朝日にすごく感動したのを思い出した。すっかり慣れてしまって気にも留めていなかったんだけど。
 ちょっとだけいい気分になって、僕は階段に向かう。階段を降りはじめようとしたとき、僕の後ろで、ガチャリ、とドアの鍵が開く音がした。振り返ってみると、隣の303号室のドアが内側から開こうとしているところだった。夢のことがあるせいか、ちょっとだけ緊張してしまう。
 ドアの向こうから覗いたのはもちろん、彼女だった。彼女は一瞬だけ僕と目が合うと、すぐにうつむいて目をそらしてしまう。昨日までは気がつかなかったけど、やっぱり彼女の表情はどこか寂しそうだった。
 そして僕の目を奪ったのは、半袖の水色のブラウスから覗く、白い腕。そこに小さく赤く残るのは、かすかな……爪痕?
「あ、あの!」
 そのまま通り過ぎようとする彼女に向かって、僕は思わず声をかけた。焦ったせいで、ちょっと裏返ってしまったけど。
「お、おはよう……ございます!」
 僕の言葉に、彼女は驚いたように顔を上げる。つぶらな黒い瞳が、くりっと動く。
「……おはようございます」
 小さな声ではあったけれど、彼女は挨拶を返してくれた。軽く会釈をして、言葉の最後にはその顔にふんわりとしたかすかな笑みも浮かべて。
 たったそれだけだ。彼女はすぐに僕の横をすり抜けて、足早に階段を降りていってしまう。でもそれだけで、人間であるのも悪くない、なんて思ってしまうから僕も現金なものだ。
 遠ざかっていく彼女の手には、新しい朝の光を浴びた、猫の尻尾のキーホルダーが揺れていた。

〈猫になりたい 完〉

It is Inspired from SPITZ "Neko ni Naritai".

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