見出し画像

「結晶」

   
「世界で一番大きな雪の結晶を探しに行こうよ」
 和之が唐突に言い出したのは、街路樹のプラタナスも大半の葉を落としてしまった十二月の初めのことだった。
 繁華街に足を伸ばせば、この頃はもうクリスマス一色だ。けれど、地下鉄の駅と幹線道路のおかげで辛うじて「郊外」と呼ばれるのを免れているようなこの町にはさすがにクリスマスの足音は遠かったし、そもそも来年で和之も私も三十路を迎えるのだ。もはやクリスマスにはしゃぐような年でもない。
 そういう具合で、私たちは世の中を賑わせている聖なる夜などというものには何一つ期待することも無く、変わり映えのしない灰色の日々を消化していたのだった。
 変わり映えがしないと言えば、まさに私と和之の関係がそうだった。大学を卒業した年から付き合っているのだから、八年になる。八年付き合っていると言えば大抵の友人に驚かれた。これが「結婚して八年」ということであれば誰一人驚かないのだから、つまりは、結婚もせずに延々と付き合い続けていることが驚きなのだろう。
 私だって、そしておそらくは和之も、今までに結婚のことを少しも考えなかったわけではない。むしろ、付き合い始めて一、二年のうちはどちらも結婚のことを日々意識して暮らしていたように思う。あくまでも他愛のない冗談の域を超えていなかったとは言え、「もし自分たちが結婚したらどうするか」という類の話が口の端に上ることも決して珍しくなかった。
 だがその頃、和之は中堅の電機メーカーの営業職に就職し、私は大手広告代理店の事務職として働き始めたばかりだった。私も和之も、突然に放り込まれた「社会人」という枠に自分を順応させることに必死で、そのことに全労力をつぎ込まねばならないのだという使命感に支配されていた。明確な未来へのイメージを必要とする結婚や、まして家庭などというものは、遊び半分に妄想する対象として以外には考えられるようなものではなかったのだ。
 それからも、日々は飛ぶように過ぎていった。その時の私たちには想像すらできなかったのだが、驚いたことに年月というのは日々の積み重ねで容易に過ぎてしまうものであったらしい。ただ一日一日を必死で過ごしているだけだというのに、気がつけば一年たち三年たち五年たち、八年が経っていた。
 いつか落ち着いたら、結婚についてもじっくりと考えよう。そう思っていたが、いつまで待っても「落ち着く」日などは訪れなかった。
 決して無気力に過ごしていたわけではない。むしろ、働き始めたばかりの私たちはいつも時間が流れていくのを恐れていた。
 日々退屈を持て余していた学生時代から、いきなり自分の自由な時間の大半を仕事にごっそりと切り取られる。一日二四時間、一ヶ月三〇日、一年で三六五日という時間から仕事の時間を引いた残り。それが私たちの限られた貴重な自由時間であり、それを無為に過ごすことは罪であるかのように感じられた。私と和之は、それほど多くない休日のたびにあちこちを駆けずり回るようにして遊びまわった。遊園地や映画にも、流行のデートスポットにも行った。日帰りや一泊の旅行にもたびたび行ったし、春には花見に行き、夏には海やプールに、秋には紅葉を見に、冬にはスキーに行ったりした。おかげで休み明けの月曜日にはいつもぐったりだったが、その疲れがむしろ、週末を有意義に過ごした証明であるかのように感じられてほっとしたりするのだった。
 それから、年上ばかりに囲まれた職場に自分の立ち位置を定められることは、自らが選ぶことになる未来予想図を明確な形で提示されることでもあった。
 三〇手前で結婚し、自分の時間を極限まで切り詰めて仕事と育児を両立させ、それを誇りにしている先輩。仕事にのめり込むばかりに結婚の機会を逃し、着実に昇進しながらもうすぐ五十路を迎える上司。二十代のうちに社外に結婚相手を見つけて早々に寿退社を果たした同僚。
 そうした人々を見ながら、私は自分の立場を決めかねていた。どの未来図も、自分にはふさわしくないように思われたのだ。
 右も左もわからない新人時代から、私の隣には常に和之がいる。彼が私の恋人として申し分がない存在であることには疑いがない。和之のそばにいれば私は安心することができたし、趣味もよく合った。私の仕事に対する理解もあったし、何かを私に強要するようなことも無く、それでいて助けが必要な時にはすぐに駆けつけてくれた。私がやりたいと思ったことは応援してくれたし、必要以上に干渉することもなかった。
 それは、ひどく居心地のいい関係だった。居心地が良すぎて、私たちはそれ以上前に進むことをやめてしまったのだ。完全なる停滞。止まったまま動かない。けれど、実際には時間は決して止まったりしない。私たちの関係だけが止まったまま、静かに時間は進んでいたのだ。
 社会人として消費していく日々は、ゆっくりと静かに私たちを疲弊させていく。いつしか私たちは、若いころのようなエネルギーを失っていた。他方で、仕事もある程度安定し予想外の出来事も少なくなった。互いに長年の一人暮らしで、身の回りのこと全ては自分一人でこなすことができた。そういった状況が、これ以上の進展を望んではいなかった。
 そんな、変わり映えのしない灰色の日々。その中での和之の言葉は、まさしく唐突だった。
「世界で一番大きな雪の結晶を探しに行こうよ」
「なによそれ、いきなり」
 事が終わった後のベッドの中で、急に真面目くさった表情になって言った和之の言葉を私は笑い飛ばした。何かの冗談なのかとも思ったが、意図するところがわからない。八年の付き合いで、互いに知らないところなどないような気になっていたのに。
「ほら、前に由希、言ってただろ。もっと大きな雪の結晶が見てみたい、って」
「いつのことよ、それ」
「確か……付き合い始めて最初の年、はじめてスキーに行った時だよ」
 随分と興奮した口調で話を続ける和之の顔を、私はまじまじと見つめた。和之はこれから、一体何を言おうとしているのだろうか。
「ああ、初めての旅行の時?」
 心の中で和之の意図を探りながら、私は相槌を打つ。和之の言ったことには、確かに覚えがあった。旅行先の長野県で初めて見たパウダースノー、それが私の赤いコートに落ちて、どこかの会社のマークみたいな立派な結晶を作ってきらめいていたのだ。そのあまりの美しさに私と和之はひどくはしゃいで、興奮した声でそう言ったのを覚えている。
 もっと大きな雪の結晶が見てみたいね、ほんと、せっかくなら世界で一番大きいのがいい、どこに行けば見られるのかな? 寒いところだろうね、そりゃそうだよ、ものすごく寒いところだと、北極とか? 南極の方が寒いんじゃないの? そうだな、じゃあ南極だ、でも南極は旅行するには向かないね、じゃあグリーンランドくらいがいいかな、そうだね、ちょうどよさそうかも。
 不思議なことに、それはもう何年も前のことなのにまるで昨日のことのように思い出せた。そこで言った、聞いた一字一句も、その時の息遣いや胸の高鳴りまでも覚えているような気がした。私たちが、輝いていた日々。
「グリーンランドだよ、グリーンランド。いつか必ず行こう、って約束したじゃないか」
 あれから何年も経ち、あの頃の輝きをもはや失ってしまった今、単なるくだらない冗談とは思えないほどの熱っぽさで、和之は言う。
「そりゃ、いつか行けたらいいとは思うけど」
「いつかじゃない、すぐに行こうよ」
 私は驚いて、思わず和之の顔を見つめた。すぐに行こう、だって?
「休みをとればいいよ。一ヶ月くらい。できなければ辞めてしまったっていい。由希だって、今の会社に骨を埋めようだなんて思ってないんでしょ?」
「そんな、いきなりそんなこと……」
「いきなりじゃないよ」
 笑い飛ばそうとした私の顔に向かって腕を伸ばし、両手で引きよせるようにして和之の顔がぐっと迫ってくる。あと少しで鼻がぶつかりそうなほどの距離で、和之の石炭のような瞳が私の目を射抜いた。
「ずっと、考えていたんだ。このままじゃ俺たち、何もしないままに老人になっちまう。毎日毎日を何とかこなしてへとへとになって、週末の予定や由希との時間まで退屈な繰り返しになって、気がついたら何をする気力もないオヤジになっちゃうんだ」
 思いつめたような表情で語る和之の姿に、彼の語る強烈な不安に痛めつけられながら、私は何とかしてそれを冗談にしようと、無理やりに口角を上げた。和之の目には、私のひどく歪んだ笑顔が映ったことだろう。
「そんなこと、あるわけないよ。私たちだって、いつも何かしてるじゃない。週末は色んなところへいってるし趣味だってたくさんある。和之、ちょっと考えすぎだよ。仕事で疲れてるんじゃない?」
「……俺は、本気だよ。このままでいるのが怖いんだ。灰色の日々を壊さなくちゃいけない。由希にも、考えておいてほしい」
 にこりともせずに、和之は言う。相変わらず歪んだ笑顔を浮かべながら、私は曖昧にうなずくしかなかった。

 結果から言えば、それから約一ヵ月後の新年、私たちはグリーンランドにいた。
 私は一ヶ月の休暇を取った。思った以上に簡単に取れてしまい、拍子抜けしたほどだ。会社にとって自分という存在はさほど重要ではない、ということは薄々気づいてはいたが、こんなにもあっさりと一ヶ月の不在を認められてしまうのは正直少し寂しいものがあった。
 和之はというと、なんと会社を辞めてしまった。和之の方は私と違ってあっさりと休暇をとるというわけにはいかなかったようで、「そんなことは無理だ」と突っぱねる上司に対して、「それなら俺は辞めます」と宣言してしまったのだ。和之は頑固だが、勢いで物事を決めてしまうような人間ではない。おそらくは他にも色々と思うところがあったのだろう。当人も「いいきっかけだったんだよ」なんて笑っていた。
 和之の思い切った行動に、私は大いに混乱した。和之も私も、ずっと凡庸な人生を送ってきた。世間から驚かれるようなことは何一つせずに過ごしてきたのだ。「グリーンランドに行くために会社を辞める」なんていう非常識なことに私は慣れていなかったし、和之にそんなことができるなんてことは想像もしなかった。
「うわ~、やっぱり寒いなぁ」
 私の隣で、大きすぎる着ぐるみみたいなダウンコートに包まれた和之が呑気に言う。おとといの朝に成田を出発してデンマークのコペンハーゲンで飛行機を乗り継ぎ、私たちは舌をかみそうな名前の、グリーンランドの空港に到着した。
 着いてみるまで、グリーンランドのことなんて私は何も知らなかった。和之との会話だって、その場の思いつきで言っただけ。せいぜい雪と氷河とオーロラくらいしか知らない、私たちの人生にほんの少しも引っかかることのなかった場所なのに、近所の旅行会社に行って「グリーンランドに行きたいんです」と言うだけで、何一つ苦労することもなく本当にたどり着いてしまった。こんなことでもなければ、死ぬまでほんの一瞬たりとも足を踏み入れることなどなかったはずの場所。そこに今、私は立っている。
「世界は狭いなぁ」
 和之が白い息を吐きながら言う。
 世界は狭い。地球の裏側だって、全然遠くなんかじゃない。
「でも、すっごく広い」
 私はつぶやく。
 飛行機のタラップから降り立った世界は一面の雪景色で、高い建物など周りに一つもないから、とにかく空が広かった。白いひっかき傷のような雲を所々に浮かべた、抜けるような一面の青空。全周に見える地平線と水平線。地平線の先の白一色の世界に、かすかに見える何かの野生動物の影と圧倒的なスケールで地面から天空に向かって突き立つ剣のような氷河。
 ここに立っていると自分が一匹のアリになったような気分になる。物事の遠近感が曖昧になって、人間が、地球を支配しているだなんて思うのはとんでもない思い上がりなんだ、って気になる。
 世界は、間違いなく広かった。
「こんな雄大な景色を見てるとさ、今までの日常がくだらなく思えてくるよな」
 さりげないふうで和之が私に言って来る。でも私にはわかってる。和之がこんな風に、脈絡のないことを唐突に言うときは、その後に来る言いたいことへの布石なのだ。わかってるけど、私は「何が言いたいの?」などとは聞かない。それはあんまりだ。だから私は何も言わずに静かにうなずく。周りの景色に見とれていて返すべき言葉を考えられなかった、ってのもあるけれど。
「向こうでさ。あ、日本で、ってことだけど、その、なんて言ったらいいかな」
 和之がたどたどしい口調で言う。
 仮にも営業マンな和之はその気になれば流暢に言いたいことを主張することができる。たまに和之が他の人と話しているのを見ると、それはなめらかにしゃべっていて感心してしまうほどだ。なのに、私と話している時はこんなふうにすぐに口ごもる。もしかしたらそれは、本当に心を開いている私に対する礼儀なのかもしれない、なんて思うようになったのは、つい最近のことだ。
「向こうで、毎日がさ、全部が全部、自分で予測できる範囲で進んでるってことがさ、なんか、急に怖くなっちゃって。ほら、『想定内』ってやつ?」
 あくまで軽い調子で、和之が言う。何よりも、このだだっ広い空の下で、重い雰囲気でいるのは難しい。
「おっ、なんか降ってきてる……あ、雪だ!」
 顔を真上に向けて空を仰いでいた和之がはしゃいで言った。私もつられて空を見上げる。
 不思議なことに、目の覚めるような真っ青な空からひらひらと綿のように白い欠片が舞い降りてきていた。天気雨ならぬ、天気雪というのだろうか。白い欠片たちは、太陽の光を反射して水晶のように輝いていて、まるで妖精のダンスのように幻想的だった。
「おい、みてごらんよ、ほら!」
 和之の興奮した声。彼が指差しているのは私の赤いダウンジャケット。
 太陽の光を反射してきらきらと輝く、透き通った小指の爪ほどもある六角形の花。それは見事な、見たこともないほど大きな雪の結晶だった。何度見ても、自然の造形とは思えないほど――いや、自然の造形だからこそ、か――息をのむほど美しい、完成されたかたち。
 私と和之は頬が触れ合うほど顔を近づけて、赤いダウンの上に踊る結晶に見とれた。
 不意に和之が手を伸ばして、手袋を外した剥き出しの手で結晶をつかむ。和之の体温で結晶はあっという間に溶けて、きらきら光る水だけを残して消えてしまう。
「結婚しよう」
「いいよ」
 和之が言う。私が答える。
 さりげなさを装って。ずっとずっと言えなかったことを。
 世界で一番大きな結晶を捕まえたら結婚しよう。
 つき合い始めた年に言ったそんな戯言を、ずっと覚えていたわけじゃない。愚かとしか言いようがない、意味なんて何にもない言葉。意味に囚われた私と和之には、それが必要だった。なんの恐れも不安もなく、結婚という言葉を口にできた頃のあの無邪気さが。
 こんな遠いところまで来て非日常を演出しなくてはならないくらい、私たちにとって得体の知れない言葉。
 こんなことを言うために、和之は会社を辞めて、私たちは世界の果ての真っ白な世界にまで来たのだ。
「バカみたい」
「うん」
 広い広い空の下で、和之は無邪気に笑う。
 居心地のいい灰色の日常を壊しちゃって、一体これからどうしようというの。
 得体の知れない、結婚なんて言葉が私たちの日常になるには、長い長い時間がかかるだろう。
 でもそれも悪くない。ゆっくりと時間をかけて、新しい日常を作っていけばいい。それに飽きたら、また壊せばいい。そしてもう一度、世界で一番大きな結晶を探しに来よう。
 すぐに溶けてしまっても、誰のためでなくても、こんな世界のはずれでも、結晶は美しくかたちづくられるのだから。
 白すぎる雪に反射する太陽が目にしみて、私の目から流れ落ちた水は結晶になった。

文章を読んでなにかを感じていただけたら、100円くらい「投げ銭」感覚でサポートしていただけると、すごくうれしいです。