「竜とそばかすの姫」における映像と脚本の関係の考察
美術的映画
実写映画にはいわゆる「美術的」な名作群がある。いずれもストーリーは不明確にして面白くない。以下鑑賞歴あるものをつらつらと。
「ミツバチのささやき」(1973年・スペイン)
昔細田守監督が「最も好きな映画」と言っていた。自転車~列車の到着に至るカメラワークの素晴らしさは必見。
しかしスートリーは意味不明。スペイン内戦を描いているらしいが読み解いていない。
「ノスタルジア」(1983年・イタリア)
タルコフスキー作品でも最も美術的に優れる。しかしこれまたストーリーは意味不明。世界を救済するためにローソクに火を付けて温泉を横断する。なんのこっちゃ。
「夢」(1990年・日本)
黒澤映画の中でも最もイマジネーション豊かな作品。短編集なので一貫した流れがつかみにくい。
「ひなぎく」(1966年・チェコ)
美術的には実写では過去最高レベルの作品。内容は少女二人が乱暴狼藉をはたらきつづけるだけ。プラハの春へのソヴィエト軍事介入を暗示しているそうだが、読み解けていない。
「ツィゴイネルワイゼン」(1980年・日本)
鈴木清順監督は美術的才能は黒澤に準ずるレベル。
本作も非常に素晴らしいのだが、そもそもどういうストーリーだったのか記憶していない。確かに鑑賞したのだが。
以上のごとく、美術的に優れていると脚本はしばしば意味不明になる。視覚情報が多すぎて、通常の脚本では情報過多になりかねない。だから意味不明が正解なのである。
「竜とそばかすの姫」は脚本への評価が低い。ではがっつり組み立てられた濃い脚本だったらどうなっていたか。暑苦しい作品になっていたのではないか。映画も、料理と同じく、無制限に要素をぶちこんでゆけばよいというものではない。全てはバランスで成り立っている。「桃入りのマーボードーフをステーキにかけて、からすみを付け合せて食べたい」という人が居るのか。いや居るかもしれないが、流行るレシピか。
非美術的映画
逆のケースもある。例えば「この世界の片隅に」が
「君の名は」の映像で展開していたらどうだったか。楽しめたか。物語の重層性が毀損されたのではないか。
昔ルキノ・ヴィスコンティという実写監督が居た。美術的作品を作っていた。脚本はゆるめであった。
彼の作品の中で最も脚本密度が高いのは「家族の肖像」である。
この作品撮影時に、ヴィスコンティは車椅子生活をしており、あまり動き回れなかった。だから視覚的に充実した作品の制作が不可能だった。だから密室劇になった。だから脚本密度を高められた。
聴覚と視覚
以上見てきたとおり、脚本と映像は矛盾する。聴覚と視覚は矛盾するからである。
かつて淀川長治が「バレエはある意味映画より優れている」と言っていたが、それは赤文字の部分を集中的に探求するのがバレエだからである。視覚と聴覚の間を集中的に埋めようとする。
視覚と聴覚の対立は人間の全文化に及ぶ。人間社会は最適な中間地点を求めて揺れ動きつづける。
細田守は元来、止め絵の人間である。止め絵の構図の優秀さとしては黒澤以外に匹敵する作家を知らない。その細田が動きを「おおかみこどもの雨と雪」で十二分にマスターし、今回は音楽との合わせを十分マスターした。「バケモノの子」では音割れがひどく鑑賞に耐えなかったが、たいした進歩である。
止め絵も、動きも、音楽も、脚本もあるから映画は、文学や絵画にくらべて大きな娯楽となっている。矛盾を抱えたあわせ技により大きな興奮を実現できる。しかしどんな山も高く登るほど空気は薄くなる。「竜」の脚本が十分な出来と言いたくて長々と書いた。以下個人的感想だが、
このような唐突な絵の挿入をもっと増やしてもよいとさえ思った。最も感銘を受けたのは
bellが鈴になるシーンである。横から全身、あるいは顔アップ等まじえながら世界中どの映画監督でもこう撮影するよ、というごくごく普通のやりかたで、しかし世界中でだれもできないほど上手く処理できていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?