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出産立ち会いドキュメント

▼我が家に陣痛がやってきた

3月30日の午前2時過ぎ、横で寝ている妻が僕の肩を叩いて、苦しそうに言った。

「陣痛きたかも…」

その言葉に僕の全身はドキンッと波打ったが、動揺を悟られぬよう、なるべく冷静を装って話す。

「痛みがくる間隔は?」

「今は、10分おき…」

病院からは痛みが10分間隔になったら連絡するように言われていたので、急いで電話をする。「今から来てください」と言われ、準備しておいた入院道具を抱えて病院へ向かうことにした。

予定日から約1週間遅れて、来そうで来なかった陣痛がついに我が家へやってきたのだ。

病院に到着すると、妻は夜間入口のところに用意されていた車いすに乗せられ、なるべく振動を与えないよう静かに、しかし迅速に産婦人科へと連れていかれた。

僕はまったく人気のないロビーでソファーに腰を下ろし、忘れていた呼吸を思い出したように、長く深い息を吸う。自分が父親になるという実感はまだ皆無だった。

深夜の病院の薄暗いロビーは、人の気持ちを否応なく不安にさせる。押し寄せる不安をかき消すように、我が子が産まれる瞬間を頭の中で繰り返しイメージし続けた。

数分後、車いすに乗った妻が戻ってきた。

看護婦さんに「どうですか!?」と食い気味に尋ねる僕。子宮口が3センチまで開いているが、出産まではもう少しかかるという。

てっきり、陣痛がきたからには、すぐにでも産まれるものだと思い込んでいた僕は、拍子抜けとも安堵ともつかない複雑な気持ちになった。出産というのは、そうトントン拍子で進むものではないらしい。

しかし、痛みは定期的にきているので、そのまま入院し、翌朝、先生が来てから改めて診察してもらうことになった。

はじめに通された部屋は、分娩室の一角をカーテンで仕切った簡易ベッドのあるスペースだった。

そこに妻を寝かせ、僕はパイプ椅子に腰掛ける。蛍光灯の白い光が、白い壁と白い床に反射して、目が痛い。

妻は相変わらず苦しそうな表情をしていた。まだ産まれないと言われたものの、陣痛が治まるわけではない。むしろ、痛みは徐々に強まり、間隔も短くなってくる。それが産まれてくるまでずっと続くと思うと、想像するだけで気が遠くなった。

疲れているから寝たいのに、10分に一度は強烈な痛みに襲われるため、とても眠れない状態。精神はすり減り、体力は嫌が応にも消耗する。

痛みに顔を歪める妻に、僕がしてあげられることは何もなく、停滞する時間をごまかすように、ただただ背中をさすった。噂には聞いていたが、出産立ち会いに際して男がやってあげられることは本当に少ない。結局、2人ともほとんど眠れないままで朝を迎えた。

朝になると、個室に移動することになった。ベッドがあって、ソファーがある。トイレや冷蔵庫、テレビなど、快適な設備も整っていたが、窓がなくてちょっと息苦しかった。

朝9時頃、ようやく先生の検診を受けられることになった。妻がフラフラしながら病室を出て行くのを見送り、気づけば僕はソファーに横たわって意識を失っていた。

数十分の後、妻が病室に戻ってくる。

ソファーから飛び起きて、またも食い気味に「どうだった?」と状況を聞くと、子宮口が6センチまで開いているとのこと。順調ではあるが、出産に至るまでには子宮口が10センチまで開くのを待たなければいけないらしく、再び痛みとの戦いが始まった。

しかし、今思うと、この頃はまだ妻も余裕がある方だった。ご飯も食べられていたし、自力で立ち上がることもできた。

病院に来てから6時間で3センチ。ということは、少なくともあと8時間以内には産まれてきてくれると思っていた僕は、あまりに短絡的だったと言わざるを得ない。

陣痛との戦いは、ここからさらに30時間も続くことになったのだ。


▼遠い遠い朝

3月31日の午後12時、点滴をした状態の妻は、元気そうに病室を歩いていた。痛みの間隔は20分ほどに延びている。

なんと、陣痛が遠のいたというのだ。

そんなことがあるなんて知らなかったが、そう珍しいことでもないらしい。妻が元気そうなのは嬉しいが、なんだかまたも拍子抜けしたような気分だった。

実際、子宮口の開きも6センチくらいから変わっておらず、夕方の段階で小康状態が続いているようだったら一般の病室に戻るという話になった。

しかし、このとき僕の中には、もうひとつの不安が芽生えていた。タイムリミットが近づいていたのである。

僕は出産予定日の前後1週間ずつのスケジュールを空けて、地元に帰ってきていたが、仕事の関係で4月2日の朝には東京行きの飛行機に乗らなければいけないことになっていた。

残された時間は1日半。立ち会えないのが残念という気持ちもあるが、それよりもこんなに大変そうな妻をひとりで残していくのはあまりに忍びない。

数時間前まで、「あと8時間もすれば我が子に会える」なんて思っていた僕の頭上に暗雲が立ちこめはじめた。

しかし、そんなことを先生に言ったところでどうにもならないのは分かっている。妻にとっては余計なプレッシャー以外のナニモノにもならない。僕はただ黙って、運命に身を委ねることにした。

同日午後4時、再び陣痛の間隔が短くなってきた。とりあえず、部屋の移動はなしとなり、引き続き個室で出産に備えることになった。

病院では朝昼晩と食事が出たが、この頃から妻はご飯を口にできなくなっていた。看護婦さんは体力勝負だからなるべく食べてくださいねと言う。

本人もそのことはわかっているが、どうしても食事が喉を通らないのだ。少しでも何か食べられるものをということで、ヨーグルトを少し口にするのが精一杯。冷たくなったご飯は僕が食べたが、味をまともに感じることはできなかった。

午後11時過ぎ。テレビでは『笑っていいとも!』のグランドフィナーレが大団円を迎えていた。

妻はというと、再び陣痛の間隔が短くなり、痛みに顔を歪めている。昼間の元気がまるで嘘のようだった。

僕は汗を拭いたり、背中をさすりながら、陣痛の間隔を計る。7、8分間隔と短くはなっているが、先生が言うには、出産はまだ先らしい。

なんとか早く、痛みから解放してあげたいが、やはり僕にできることは何もない。とにかく、テレビと電気を消し、少しでも休むために横になることにした。

どうにか痛みを和らげようとする深呼吸の音だけが、暗く、窓のない病室に響く。僕はソファーに横になったものの、とても寝れるような心境ではなかった。

ようやくウトウトしはじめた頃、僕を呼ぶ妻の声がかすかに耳に届いた。起き上がって聞いてみると、「破水したかも…」と力なく話す。

僕の全身にはまたも小刻みな震えが走ったが、落ち着きを取り繕って、一旦トイレで確認してみることにした。ゆっくりと体を起こしてあげると、背中は汗でびっしょり濡れている。点滴を引きずりながら、トイレへと向う妻の姿を見て、心臓が押しつぶされるような気持ちになった。

結局、破水はしていなかった。

時計に目をやると、午前0時半。これほどまでに朝が遠いと思ったことはない。朝になれば何かが解決するわけではないが、とにかく少しでも早く夜を抜け出したかった。


▼ようこそ外の世界へ!

4月1日。病院に来て2日目の朝を迎える。正直、出産というのが、ここまで時間のかかることだとは想像していなかった。

妻は今朝も食事に手をつけられていない。疲れきった体を引きずるようにして検査に行くと、子宮口は8センチとのこと。6センチまで開いていると診断されてから、24時間以上が経過していた。

その間、妻はほとんど食事をしていないし、まともに眠ることもできていない。口では「大丈夫」と気丈に振る舞うものの、体力は限界に近づいているように見えた。

昼過ぎ、病室に先生がやってきて、このままだと妻の体が心配だということで、陣痛促進剤を打つことになった。

陣痛促進剤と聞いて僕は注射のようなものを想像していたが、実際には点滴のようにして薬剤を入れる。効果は人によってまちまちだという。テキメンに効く人もいれば、何の効果も得られないという人もいるそうだ。

そして1時間後。

ぐぅぅぅと痛みに堪える妻の背中をさすっていると、僕の手に何かが弾けるような感触があった。今度は僕も確信した。

破水だ。

急いでナールコールを押し、看護婦さんにその旨を伝える。すぐにやってきた看護婦さんが破水を確認し、いよいよ出産準備が始まった。

ベッドを分娩台に変えて、腰の下に真っ白い紙を引く。看護婦さんのテキパキした動きと、場馴れしている雰囲気が、とても頼もしく感じられた。

僕はというと相変わらず心臓はバクバクしていたが、頭は妙に冷静だった。両家に電話を入れ、相手を慌てさせないよう、落ち着いたトーンで出産が近いことを告げる。それから、頭の中で今自分をすべきことをシミュレーションした。

今、僕にできることは3つ。妻の汗を拭くこと、うちわで扇ぐこと、そして水を飲ませること。しかし、先程にも増して妻が苦しそうにしているのを見ると、落ち着いているつもりでいて、内心冷静ではいられない。

たかだか3つしか選択肢がないにも関わらず、「水飲む?」と聞いては断られ、汗を拭おうとしては「水ちょうだい」と言われるなど、何度もタイミングを見誤る有様だった。

妻は小刻みに体を震わせながら、空気と一緒に痛みを吐き出すかのように、深い深い呼吸をしている。痛みの波に合わせて、さっきまでとは比べものにならないくらいの握力で、僕の手を握る妻。その力の大きさが、痛みの強さを如実に物語っていた。

今までに見たことのないくらい深いシワを眉間に作り、普段の様子からは想像もできないような叫び声を上げ、必死に我が子を産もうとする妻。分娩室に来るときにカメラを持ってきたが、とてもじゃないが写真を撮っている余裕はなかった。

看護婦さんが「もう少し!赤ちゃんの頭見えてきてるよ!」と励ます。その言葉に応えるかのように、妻が一段と強く僕の手を握った。

次の瞬間、ズルンという何か塊が出てきた感覚と共に、妻の体からガクッと力が抜けるのがわかった。

看護婦さんの方に目をやると、真っ白い布の中でバタバタと動く塊を抱えている。そして、すぐに布の中から動物のようにパワフルな声が上がった。

なりふり構わず、全身全霊で発せられたその声は、まさに生命力の塊といった力強さで、物理的な衝撃を伴って窓のない分娩室に反響した。

心地良いふるえが、全身をブルブルッと駆け巡る。遂に我が子が、この世界へやってきた。涙よりも先に、妻への感謝の気持ちが一気に溢れた。

今、目の前で起きた出来事に対する衝撃のあまり、僕は大切なことを聞き忘れていた。我に返って子どもの性別と尋ねると、「さて、どっちでしょう?」とじらしながら、看護婦さんは赤ん坊を持ち上げる。

女の子だった。

その瞬間に、親になったという実感が一気に押し寄せてきた。

体を拭いてもらった娘は、そのまま妻のお腹の上に乗せられた。すると、彼女は全力で泣き叫びながら、手足をジタバタさせ、胸の方に這い上がろうとした。

そして、すぐさまおっぱいに食いついたのだ。

信じられない。お腹の外に出てきてまだ5分も経っていないのに、自らおっぱいを求め、泣きながら吸っている。人間も動物なのだという真理を目の当たりにした瞬間だった。

生命力の塊を胸に、妻は苦痛に歪んでいたさっきまでとは別人のように晴れやかな表情をしていた。まるで痛みなどなかったかのように、たった今、お腹の中から出てきたばかりの我が子を愛おしそうに見つめている。

これが母の顔というやつなのだろうか。おっかなびっくり手を伸ばす僕と違って、妻はすでに堂々とした振る舞いでしっかりと我が子を抱きかかえていた。

その様子を見ていて、ホッとした気持ちを取り戻すと、頭の中をここ10ヶ月の出来事が駆け巡った。

初めて胎動を感じて流れ星を見つけたときのように驚いたこと…。

一緒にポール・マッカートニーのライブに行ったこと…。

逆子が直るようにと毎晩寝る体勢を工夫したこと…。

振り返ってみると、妻と2人きりでいられる最後の10ヶ月間は、本当に長いようで短く、充実した時間だった。

これからは家族が増えて、3人での時間が始まると思うと、果てしなく楽しみが広がる。娘の誕生により、4月1日は我が家にとってエイプリルフールよりも、ずっとずっと特別な日となった。


▼子育てとは、親の追体験なのかもしれない

4月1日、午後4時。病室に両親と、姉家族がやってきた。そろいもそろって満面の笑みを浮かべている。

こんなにも多幸感あふれる現場に、僕は立ちあわせたことがない。とても、とても、幸せな空間だった。

娘は体重測定や、検査を終え、僕の腕の中で泣いていた。3636グラムの体重と、確実に脈を打っている鼓動が、とても重たく感じられる。

バタバタと動かす足の力も強い。この足が、さっきまで妻のお腹の中を蹴っていたのだと考えると、そりゃ痛いはずだと思う。

みんなが順番に娘を抱っこしてくれた。誰もが笑顔だったが、僕の父だけはかすかに涙ぐんでいた。

初めての孫だ、感極まるのも無理はない。なかなか見ることのない父の涙は、僕にもすぐに伝播した。

夜には、ばあちゃんや、弟夫婦、いとこの家族などが続々と病院に来てくれた。それぞれが目はどっちに似てるとか、昔の誰かにそっくりだとか、思い思いに娘の話をしている。

2日前、病院に到着したとき、薄暗くて不安な気持ちを掻き立てられたロビーは、幸せな気持ちに満ちあふれていて、まるで別の空間のように見えた。僕も妻もクタクタなはずなのに、ちっとも疲れを感じなかった。

出産日の夜から、お母さんと子どもは一般病棟に入るため、僕らは面会時間の午後8時には、病院を出なければならなかった。

12時間後には東京行きの飛行機に乗らなければいけない僕は1分、1秒でも娘の顔を見ていたかったが、そうもいかない。後ろ髪を思いっきり引かれながら、妻と娘の顔をしっかり目に焼き付けて、病院をあとにした。

実家に帰ると母はお赤飯を、父は『初孫』という日本酒を用意していた。うちの両親も晴れてジジババになったのだ。

僕が2日ぶりの風呂に入っている間、父改めジジは、墨汁と半紙を用意して、先ほど決まったばかりの孫の名前をしたためていた。なかなか上手くいかないと言いながら、何枚も繰り返し孫の名前を書くジジは、本当に嬉しそうな顔をしていた。

初孫を飲み、お赤飯を食べながら、両親は僕が産まれたときのことを懐かしそうに話した。

母のつわりがいかに大変だったかということ…。

父がどんな想いで名前を決めたかということ…。

生まれたての僕が大きすぎて、祖母が「この子は相撲取りにするしかない」と嘆いたというエピソード…。

どれも今までに聞いたことのある話だったが、受ける印象は大きく違っていた。それは確かに僕の話なのだが、同時に僕は今、当時の両親と同じ立場に立っていることに気がついた。

あれだけ苦労して我が子を産んだ妻の姿を見れば、母が僕を産むのにどれだけ苦労したのかは、実体験と重ねてリアルに想像できる。そのときの父は、今日の僕と同じく我が子の誕生を喜んだことだろう。

親になるということは、自分の親の追体験をすることでもあるんだなと思った。

娘が初めて立ったとき、反抗期に入ったとき、ひとりで海外に行っくと言ったとき、そのとき僕は身をもって親の苦労や感動を味わうだろう。そして、その分、両親に対して感謝の気持ちが強くなる気がする。だから、親という立場になって、ますます親孝行をしなければと思った。

同じく父や母もジジババになってはじめて、孫に対する自分の親の気持ちを追体験することになる。それは、どんなに勉強をしようと、体験でしか得られない経験だ。

そういう経験をお互いに重ねることで、家族は繋がり、理解を深め合っていくのだろう。

僕はあまりに余裕がなくて、出産時の写真や映像は一切撮れなかった。しかし、そのときの感情を言葉にして、こうして文章を書き残してみた。

写真や映像のようなリアリティはないが、出産当時の心情は新鮮なまま取り込めた。いつか娘が母親になるときにでも、この文章を読んでくれるといいなと思う。

※この文章は5年前に書いた日記を再編集したものです。

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