僕らが生まれた理由

僕らは何か特別なことをするために生まれてきたわけじゃない。
僕らは生まれたから生きているのだ。
ただそれだけなんだ。

僕が物心ついてまもない頃。僕はあらゆることに興味を持っていて、「あれはなあに?」「これはなあに?」「なんで?」「どうして?」という4つの質問が癖だった。(まとめてしまうと「what」と「why」の2種類の質問になる)


その当時、僕は母よりもばあちゃんに面倒を見てもらっていたから、幼い僕はあらゆる意味でばあちゃんを連れ回した。



またある時、ラジオなんかの電子機器を分解して、中身の部品について「これなぁに?」と聞いた時はばあちゃんもポカンとしていたりした。そして思い出したように居間に行ったかと思うと「うわぁー!」という悲鳴が聞こえてきたりしたものだった。


しかし26歳になって思う。もし仮に僕の子どもがいて、その子どもが僕と同じだったら、僕は困ってしまうと思う。だって四六時中、質問攻めに合うし、またコンピュータ等を分解されたりした日にはいくら子どもといえど、許してやれる自信もない。



これは誰だって溜まったもんじゃないと思う。
現にこれを社会人になってからやるとなると、かなり厳しいものがある。今となっては、あれは若さの特権だったのだとしみじみ思う。

ある時、こんなことを聞いてばあちゃんを困らせたことがある。


「どうして僕は生まれたの?」


親がセックスをしていたら、自然とそういう運びになった、というのが答えだろうけれど、それを言ってしまったら、これは親として落第だろう。

その時、ばあちゃんはかなりの長時間吃った。

「えーと、うーんと、そうだねぇー」


私がセックスをしたら娘が生まれて、その娘がセックスをしたから、あなたが生まれたとは言えないのだ。
そして、あなたもセックスをするだろうから、今度は親になるんだよ。とはやっぱり言えないのだった。


結局答えは得られなかった。
ばあちゃんもすまないという風だった。
そのあと誰に聞いても分からなかった。



僕らはなぜ生まれてきたか。その答えは「分からない」
というより、気づいたらそこにあった、というのが正しいのかもしれない。


もし誰かが、僕らの生まれてきた理由を語っていたら、それは嘘だ。



僕らは綺麗な理由を求めたがる。あらゆることにもっともらしいストーリーを加えたがる。そこに何か重大な真実があるのだと思ってしまう。


人生には、何かのテーマがあるものだと錯覚してしまう。




それが僕らの悪い癖だと思う。
人生という答えのない問題を作り上げて、一生懸命解こうとする。




問いに対して論理的な答えがあると思い込んでいる。
本来、答えは無く、問いすらも無いかもしれないのに。


ないものをあるように感じているだけかもしれないのに。


僕らは生まれたから、なんとなく生きているだけだ。
きっと、ただそれだけなんだ。



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