9月の歌 のかんぞう(野甘草)
昨日 3カ月ぶりの「交野ヶ原万葉会」に参加した。
お世話役の方が「お元気そうで!」と お声をかけてくださり
ホッとした気分でいつもの席に着く
岡本先生の雰囲気が ちょっと変わってみえる
ヘヤースタイルが変わったのか?
御髪が真っ黒になっているせいか?
いや、ちょっと福与かになられたのか?
今月22日に「万葉うたがたりコンサート」をされる
この講座に誘ってくださったご近所さんも
「先生のイメージちょっと変わらはったね!
コンサートの時には 万葉の衣装で 歌わはるんやろかネ?」
そうこうしているうちに、先生のハリのある声で 会場が静まった
カレンダー9月の歌 のかんぞう
え~!私の家に のかんぞう あるわ~!
毎年春遅く、黄色いユリをまぁるくしたような花を咲かす
道理で(ユリ科)なのだ!
でも、9月のカレンダーで のかんそう?
とても丈夫で 放っちらかして置いても、枯れはしない
水さえやっていれば、必ずひとつやふたつ花を咲かせるツワモノだ
どうして 我が家にこの花が あるのか? トンと記憶がないのに
株を増やして、我が家でもう何十年と ひっそりと永らえながら
楽しませてくれている
ところが、万葉の歌は どういう訳か 忘れ草の歌ばかりだった
★忘れ草 垣もしみみに 植えゑたれど 醜(しこ)の醜草 なほ恋にけり
巻12の3062(作者未詳)
★忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため
(大伴宿称家持の故郷)巻3の334(大伴旅人)
この2首は家持が単身故郷を離絶する時の歌
以下の2種は 離絶数年後、また逢ひて相聞往来す歌
★忘れ草 我が下紐に 付けたれど 醜の醜草 言いにしありけり
巻4の727
★我がやどは のきのしだ草 生ひたれど 恋忘れ草 見るにいまだ生ひず
巻11の2475(作者未詳)
★忘れ草 我が紐に付く 時となく 思ひ渡れば 生けるともなし
巻12の3060(作者未詳)
忘れ草は 恋心をあらわす言葉としてよく使われるが、
恋を忘れたい、忘れられない、という複雑な使われ方をしているのが 面白い
柿本人麻呂について
父母生年未詳であるが、大化元年(645)前後と見る説が多い。
その名は上代の史書に見えず、閲歴については万葉集が唯一の確実な資料とされている。(略)
和邇(わに)氏の同族。 万葉集の歌を見る限り、宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年(708)以降、筑紫に下ったり(3の303.304)、讃岐国に下ったり(2の220~222)した後、石見国で妻に看取られることなく死んでいる(2の223)
石見国高津の人麻呂神社創建は神亀元年(724)と伝えられている。
人麻呂の後代へ与えた影響は圧倒的に大きく『万葉集』の時代には、すでに模範としてあおがれていた。
奈良朝の代表的歌人である笠金村(吉野賛歌)や山部赤人はあきらかに人麻呂の影響のもとに作歌し、大伴家持は「山柿(さんし)の門」とよんで彼を賛仰した。(略)紀貫之は人麻呂を「歌聖(うたのひじり)」と賛仰した。
藤原俊成は「古来風躰抄」の中で、時代を超越した「歌聖」として仰がれ
さらには「歌神」として祀られるに至り、和歌の神として尊崇されてきた。
歌人としての活動は「人麻呂歌集」歌(『万葉集』中364首)と、題詞に人麻呂作と明記するもの、いわゆる人麻呂作歌(延べ84首)とを通じてみることが出来る。
「人麻呂歌集」は現存しないが、『万葉集』に天武朝から持統朝初めにかけて筆録された形すなわち勅撰21代集に260首の歌で知ることが出来る。
古今著聞集によると、歌人たちは 人麻呂を神格化し、1118年藤原顕李によって創始された歌聖柿本人麻呂を祀る儀式で『人麻呂影伴(神)』の
肖像をかかげ和歌を献じることで、和歌の道の後を踏もうとした。
六条家においては『人麻呂影供』は歌道継承のシンボルとなっていた。
鎌倉時代以降はあわせて歌合なども行われ、歌壇の行事として近世まで続けられた。また 人麻呂の画像は歌仙絵の原型ともなり、絵画史にも影響を残した。
以上「交野ヶ原万葉会の資料から」
岡本三千代先生は とても気さくな音楽にも精通されていて「交野ヶ原
万葉会のテーマソング」まで作曲され、リーダーの方々の熱心なかいがいしさには頭が下がる思いで、参加させていただいております。
今月22日の先生の舞台も11月17日の「越前万葉の旅」も、私はバスだから参加できます。このバス旅行が最後にならないように、今から体に気をつけて、楽しみにしています。
サンバDEツバキ (交野ヶ原万葉会テーマソング)
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を
河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は
巻1の54・56(坂門人足・春日蔵首老)
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