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「役に立たない塾」を "a place for unlearning"にしたいワケ

「役に立たない塾」を作りたい現役教員ふじぽんです。「役に立たない塾」を作る旅に出る!と宣言してちょうど1か月。思った以上の反響に驚きつつ、同じような課題意識を持っている人が確かにいることに背中を押されている。

この1か月の間に、辻信一さんの「ゆっくり小学校~学びをほどき、編みなおす」「ナマケモノ教授のムダのてつがく~役に立つを超える生き方とは?」を読んでみたり、地元のかがみがわフェスタなるイベントに関わって「遊ぶ、学ぶ、つながる」イベントを企画したり、一般社団法人みつかる+わかるの市川力さんのジェネレーターのワークショップに参加したり、落語を聞きまくって人間のダメさに笑い涙したり、友人のクラファン応援イベントをやってみたり、(点でバラバラだ・・・)とりあえず脳みそと手足をジタバタと動かしてみている。

その中で、少し自分の中で解像度が上がった「役に立たない塾」のコンセプト。一言で言えば、それは "a place for unlearning"、 直訳すれば「アンラーニングのための場所」だ。アンラーニングは「学びほどき」や「学びほぐし」とも訳されたりする。もともとは「学び、習い、覚えたことを意識的に忘れようとする」ことなのだそうだ。しかし、最近では、それまで自分が当たり前だと思っていた物事の捉え方を「本当にそうか?」と問い直す行為やその姿勢もアンラーニングという言葉は意味しているように思う。

なぜアンラーニングが「役に立たない塾」のコンセプトになるのか?

そもそも「役に立つ」って誰視点よ?こう考えてみると結構奥深い。私たちが「役に立つ」という時って、その人が属しているコミュニティの大多数の人に何かの恩恵をもたらす行為であることが多い。「役に立つ」行為をすることで、そのコミュニティから何かしらのポジティブなフィードバックを受け取れる(端的に言えば褒められる)。逆に言えば、そのコミュニティにとって価値を生み出さない行為は「役に立たない」と烙印を押されるわけだ。

ここで、気づいてほしいのは、「役に立つ、立たない」というのは、自分軸ではなく、他人軸で決められているということ。だから「役に立つ、立たない」というのは絶対的なものではなく、「所変われば・・・」なものであるわけ。

でも、そのコミュニティの中にいると、この「役に立つ、立たない」を判断する軸って空気みたい。読めなければKY。だからいつの間にか、コミュニティの価値判断基準が、自分の価値判断基準になっている。


私が「役に立たない塾」で切り込みたいのはまさにここ。
あなたが本当に大切にしたいものは何ですか?
他人の判断軸ではなく、自分の軸で考えられてますか?
「確かにそうかもしれない。でもそうは言っても現実は・・・」なんて言葉で自分を納得させてませんか?


自分ではない誰かにとっての「役に立つ」を生きるのをやめてみよう。誰かさんにとっては「役に立たない」かもしれないけど、自分にとって本当に大切なことに思い切って目を向けてみよう。それに従って一歩踏み出してみよう。

「役に立たない塾」が "a place for unlearning"になりたいのは、そういうこと。

自分の中の当たり前を問い直す作業って、自分ひとりでは難しい。けど、玉ねぎの皮を一枚ずつ剥いでいくように、こびりついた垢を擦り落とすように、誰かと一緒になら取り組める。そんな場所を、これからつくる。

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