見出し画像

現役の学校教員が「役に立たない塾」を作りたいと思うワケ

生徒によく聞かれる。
「これテストに出るんですか?」「これ勉強して何の役にたつんですか?」
生徒にそう言わせてしまっているものは何だろう?

そもそも役に立つって何だろう?

個人的に役に立つという視点もあれば社会の役に立つという視点もある。
コスパやタイパといった言葉に象徴される何かは個人的に役に立つものに紐づいているし、学校はそもそも社会の役に立つような能力を伸ばすことをその存在意義としている。

役に立たない自分に直面すると、自分の存在価値がないように感じて消えたくなるのは僕だけか??っていうか、役に立たないとダメなんだろうか?

現代社会の根底にある考え方はメリトクラシー。能力主義とも功績主義とも訳される。個人の努力や実績次第で、身分に関わらず社会的地位を向上させることができるという考え方。自分は貴族じゃないからがんばったってムダだ。と諦めなくてもよくなった。がんばれば偉くなれる。お金持ちになれる。でもそれは、がんばらないことを許さない風潮を作ってしまっているのかもしれない。役に立たない人は努力が足りない。もっとがんばるべきだ。という自己責任を厳しく問う世の中

でも役に立たなくても大切なことってあるんじゃないか?
むしろ本当に大切なことは役に立たないことも多いんじゃないか?
みんな心のどこかではそう気付いている。

それでも社会の無言の圧力は僕たちに「役に立つ」何かを選択するように迫ってくる。

だからこそ本当に大切なことを大切にするために、あえて「役に立つ」を手放す時間と空間が必要じゃないだろうか。デトックスのように、整体マッサージのように、「役に立たないが大切なこと」に心を向けられるように整えてくれる場が。

塾は成績を上げるところ。それが存在意義。
でもこの塾に来ても成績は上がりません。
それでもなぜか来たいと思ってしまう塾を僕はつくりたい。

役に立つことを宿命づけられた「塾」なのに、役に立たない。
この矛盾の隙間に何か大切なものがあると信じている。

具体的な中身は、まだ、ほぼ無い。
それをこれから作る旅に出る。とりあえず、そう宣言する。
応援してくれる人募集中です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?