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小林賢太郎さんがオリンピック閉会式を解任された原因について。ラーメンズ『ユダヤ人大量惨殺ごっこ』のネタを批評・分析してみました。


今回の小林賢太郎さんの騒動について


最初に重要な点を伝えます。

この社会問題はネタという枠組みを
既に飛び越えた政治問題です。

この件の社会問題については
肯定/否定もしません。

また、小林賢太郎さんを
擁護/侵害もしません。


それでは何を書くのか?


純粋にこのネタを最初〜最後まで見ながら

【どういう笑いを狙っているのか?】
【ネタ構成はどうなっているのか?】

これを分析・批評していきます。
お笑いをこのように分析することは
極めて不謹慎なのは間違いありません。
ラーメンズやお笑いファンに謝罪を申し上げる。


さて、それでは本題に入る。


まず、ネタの名前は
『ユダヤ人大量惨殺ごっこ』ではありません。

『できるかな』という9分ネタです。

動画はこちら

この『できるかな』を
最初から最後まで解説していきます。

※注意※
僕の解説を見る前に一度ネタを見て下さい。
また、ネタは見てるという前提で書き進めます。

[スタート]


変な見た目の男(片桐)と普通の男(小林)が会話してるところからスタートする。この時点で2人の存在はよく分からない状態である。思い出した普通の男はトイレから戻ってくる。

小林「あったよゴン太君」
片桐「よかったね〜ノッポさん」

ここで存在が確定する。
ノッポさんとゴン太君は
NHK番組“できるかな”のオマージュである。

『できるかな』は、NHK教育テレビで1970年4月8日から1990年3月9日まで放送されていた幼稚園・保育園向けの教育番組、工作番組である。「ノッポさん」と「ゴン太くん」が、テレビを見ている幼児に、身近にあるものを使って工作の楽しさを教える。(Wikipediaより)

この設定は
チープな見た目のゴン太君(片桐仁)と
自分の見た目を気にするノッポさん(小林賢太郎)
プライベート時間だと分かる。

ちなに筆者はこの番組を観ていない世代なので
僕と同世代の人はNHK番組「つくってあそぼ」の
ワクワクさんとゴロリの関係だと
思ってくれると想像がしやすい。



[告白]

ゴン太君「で?なに?」

ノッポさんは目的があってここにいることが分かる。遊びに来たわけではなく、直接したい大切な話。そこに食いつくゴン太君。

ノッポさん「変なことじゃないんだけど」
ゴン太君「なんだよ〜(肘を触る)」
ノッポさん「そんな風にするなら言う気分じゃなくなる」
ゴン太君「あーごめんごめん。ちゃんと聴きます」

終盤のオチに向けた上手いミスリードである。ゴン太君はノッポさんが何を考えてるのかよく分かっていない(茶化す)演出となる。

ノ「仕事仲間である以前に友達じゃん」
ノ「喧嘩もしたけどまぁまぁ仲良くやってきた方じゃん」
ゴ「うん」


関係性の説明と同時に上手いミスリードである。友情として結びつけさせてる点で告白がこの段階では少し匂わせながらも友情として「感謝が素直に言えない気恥ずかしさ」からミスリードが成立する(BLがそこまでライトに浸透していない20年以上前のネタというのはポイント)最後まで観た方々は、この辺はノッポさんが告白しようとしているのもよく分かるし、ゴン太君も告白を理解してちゃんと待ってるように感じる。

何度見ても楽しめるのはラーメンズの真骨頂だ。

ノ「、、、なんか、どうしよう」
ゴ「なんだよ〜(肘触る)」
ノ「そういう風にされるという感じなくなる」

ここは“態度急変”という笑いがしっかり差し込まれている。ラーメンズの特徴というのは笑いのコントではなく、笑いどころがある演劇という位置付けなのは見る上で意識しておくことは大切となる。

ゴ「まぁ、これからも仲良くやっていこうよ」
ノ「それだよ!そういう普通のことが言いたかっただけで」
ノ「別にそういう変なアレじゃないから」

その後の2人のやり取りは表情含めてかなり“恋愛模様として”楽しめる内容となっている。また、肘を触っても先ほどのボケをしないことから展開は次に移行されている。ちなみにノッポさんは再三「変なアレじゃないから」を強調してることで、この言葉にはちゃんと「意味がある」ことを観客に潜在的に理解させている。

ゴ「でも、、まぁ、、、ありがとな」

“感情の可視化”による笑いとでも言おうか。こういう誰が見ても「どう思ってるかわかる」という誇張表現は笑いに昇華されやすい。そして、想像して欲しいのはこのやり取りは小林賢太郎と片桐仁ではなくて、実在するノッポさんとゴン太君のやり取りだと考えるとこの演劇は更に楽しめる。
(僕はワクワクさんとゴロリだと思って観てる)

BLと書いたが、実際は
おじさんと着ぐるみの青々しい恋愛模様である。

[番組内容]

ノ「お、ハガキ来たよ」
ゴ「あーうちも来たよ」
ノ「ゴン太君気持ち悪い」
ゴ「あー」
ゴ「ノッポさん喋りすぎ」
ノ「あー」
ノ「温泉から中継する意味がわからない」
両「あー」

ー中略ー

ノ「放送時間を変えて下さい。深夜1時からだと子供が見れません」
ゴ「あー」
ゴ「ノッポさん咥えタバコはやめてください」
ノ「あー」
ノ「これなんて読むんだっけ?」
両「モザイク多すぎ」
両「あー」

ゴ「最近俺たち脱げばいいと思ってるからなぁ」
ノ「スタッフ笑い欲しくてな」

まず、展開としては
2人の存在→2人の関係→2人の番組について拡がる。そして、ハガキを交互に読み合うのはお笑いの形式的な羅列ネタの構造である。2人はノッポさん(番組)であるから、ここでは「こんなノッポ(ワクワク)さんは嫌だ」を羅列的に挙げていく内容だ。細かい構造を言えば「あー」がブリッジ(連続した短いネタの間にはさむ言葉や動作)となって、両方が一緒に言うと一区切り付くという構造だ。そして、この番組が「どのような子供向け番組」なのかを現している。巧みなのが、「これなんて読むんだっけ?」と挟むことで2人同時に言う形で笑いの増幅とメリハリを付けている。(「モザイク多すぎ」という言葉が読めないなんてことはないだろう…)

ここでこのネタの構造軸が出来上がる。

【子供向けっぽくない子供向け番組】を
行い続けてる2人の恋模様についてである。

ゴ「せめて、咥えタバコ辞めない?」
ノ「考えた。でもなぁ15年以上吸ってるから。なんていうの?ない方がおかしいのよ」
ゴ「あー」
ノ「そばに置いてないだけで凄い不安になって、寂しくなっちゃって、逆にね、近くに置いてるだけで凄くホッとするっていうか、、、これは、まぁ、お前のことでもあるんだけどな」

ゴン太君をなぜノッポさんが好きなのか?を
タバコを通して(言い換え)説明している。

その後のイチャイチャと顔を近付けるくだりで

2人の距離感が【互いに友人ではない特別な関係】だということをハッキリと観る側に伝える形となる。ここで「急展開」と観る側に思わせたら、この作品は失敗になるので最初からこの“匂わせ”は凄く丁寧に仕上げている。また、この関係性で笑いが起きるのは「同性恋愛を馬鹿にしてるから」ではなく、「ゴン太君(ゴロリ)とノッポ(ワクワク)さんが実は互いに、しかもとてもプラトニックで青々しい恋愛を育んでいる」というのを目の当たりにしてるから発生する笑いなのだ。そういう笑いが起きるように2人はとても丁寧にやり取りを紡いでいる。

[来週の番組内容]

今回、炎上したのはこの部分なので
ここは筆者も丁寧に確認したいと考える。

ゴ「…らっ、来週なにしようか決めようぜ。そういうところはちゃんとやらなきゃダメだから。なにやる?なにやる?」
ノ「じゃあ、戸田さんがさ…ほら、あのプロデューサーの」
ゴ「あー」

この段階で2人はお互い意識し合ってるのに一歩進めていない“歯痒さ”が表現されている。また、本来2人にとって戸田さんがプロデューサーなのは百も承知だが、ここでそのセリフを入れるのは観る側に説明するためのセリフ回しである。先ほどの「文字が読めない」などもそうだが、観る側に自然と(自然過ぎる程)前フリを入れるのがラーメンズの特徴であり、芸として評価される一つである。これは「コントではなない」という小林賢太郎の矜持に繋がるものである。

補足としてここで笑いについて少しだけ説明する。
笑いとはボケ⇄ツッコミの応酬だと思ってる人も多いけど、必ず、ツッコミが必要なわけではない。ツッコミのない笑いというのは今までの流れからも伺えるように沢山ある。そして、ツッコミより重要なのは“前フリ”であって、これは言わばルール設定である。大喜利でいうとお題であるし、このような制約の範囲内で「どれだけ飛んだことが言えるのか?」というのが笑いの基本的な仕組みである。サッカーが白熱するのは「手は基本的にGK以外使ってはいけない」という制約がある中で、華麗なる足技を繰り広げて、その範囲内でどれだけのプレーが出来るのか?こうした「制約内の自由」を表現するから人はそのゲームに面白さを感じる。そして、ラーメンズはこの前フリを丁寧にするが、同時に「説明的にしない」ことを心掛けていて、しかも、凄く上手い。あまり詳しく述べないが、ラーメンズの“前フリ”は一つのボケだけではなく物語の展開や後の伏線に繋がるような重層的な意味合いを与えている。そして、このような前フリからの笑いというのは順序が非常に大切である。

ノ「お、ハガキ来たよ」
ゴ「あーうちも来たよ」
ノ「ゴン太君気持ち悪い」
ゴ「あー」
ゴ「ノッポさん喋りすぎ」
ノ「あー」
ノ「温泉から中継する意味がわからない」
両「あー」

ー中略ー

ノ「放送時間を変えて下さい。深夜1時からだと子供が見れません」
ゴ「あー」
ゴ「ノッポさん咥えタバコはやめてください」
ノ「あー」
ノ「これなんて読むんだっけ?」
両「モザイク多すぎ」
両「あー」

ゴ「最近俺たち脱げばいいと思ってるからなぁ」
ノ「スタッフ笑い欲しくてな」

ここで確認すると先ほども伝えた通り
「こんなノッポ(ワクワク)さんは嫌だ」
というのがこの場合のルール(前フリ)となる。

注目して欲しいのはボケの順序である。
まず、「ゴン太さん気持ち悪い」はあるあるネタ。つまり、共感するネタから入る。この片桐さん扮するゴン太君のチープな見た目もそうだが、そもそも実際のゴン太君自体も面妖な面持ちである。そういう潜在的な意識が「気持ち悪い」という端的な指摘に“共感”(あるある)して笑う。

このように“あるある”から繋げるのは笑いのセオリーだ。そうしなければ客が置いてきぼりになるからである。こうしたセオリーを元に、徐々に拡げていくといいネタと評価される。

まとめると
ルール内から「どれだけ飛んだことが言えるのか?」という話は観る側と距離が生まれないように徐々に飛んでいくことが極めて大切となる。先ほどの恋愛模様もそうだが「急展開」と思わせたら作品としては失敗となる。

今回の騒動に向き合うには
三つの事実を知る必要がある。

一つ目は「できるかな」というパロディ設定
二つ目は子ども番組なのに子ども向けではない設定
三つ目は二つの設定に合わせて小さく展開してきた

この三つの事実
作品で知っておかなきゃならない【前フリ】です。

続きを見よう。

ノッポ『作って楽しいものもいいけど、遊んで学べるものも作れって言っただろ』

今回の騒動で一番重要となる前フリはここになる。
繰り返すがこの設定は「子供向けの教育番組」であるけど「全然子供向けっぽくない」というギャップ構造です。

そのギャップが徐々に高まってきたところまで進んだ上で新たな前フリ(ルール)がここで追加されている。

わかりやすく伝えると
『できるかな』『作って遊ぼ』ではなく
ノッポ(ワクワク)さんが
『遊びながら学べる番組を作ったら』という
転回が生じている。

そしてその転回から【全然子どもっぽくない】
(すぐに裸でモザイクばかりな内容よりも飛べるのか?)というのが次のネタのハードルとなる。

ノ「そこで考えたんだ。野球やろうと思う。今までだったら、新聞紙丸めたバット、ところが今回はバットという字を書くんだ、今までだったらただ丸めただけの球、ここに球という字を書くの。そしてスタンドを埋め尽くす観衆。これは人の形で切った紙とかでいいと思うんだけど、ここに人という字を書くんだ。つまり、文字で構成された野球場を作るってのはどうだろう?」
ゴ「あーいいんじゃない」

実はこれは先程の「遊びながら“学べる”」という前フリを隠す形となっている。つまり、ミスリードである。そして、同時に、このよく分からない遊びは次の展開のための前フリとして効いている。しかし、筆者はこの隠す前フリが隠れ過ぎてることが今回の騒動の重大なポイントだと見ている。

例えば

「そこで考えたんだ。歴史上の出来事を紙とか段ボールで作って再現することで歴史を学びながら、子どもたちが遊びながら歴史を学ぶってのはどうだろう?」

このような説明があれば、先程のノッポさんの発言の意図はもう少し丁寧に届いていたと考える。(その上でその点の是非はあるにせよ)でも、コント(笑いのある演劇作品)としてはどうだろうか?恐らくこのような説明はフリが効き過ぎている。効き過ぎるということは、その後のギャップが弱くなるということだ。つまり、それだとハードルは超えない。「子ども向けっぽくない」という前フリが効いている上で、更にこのような説明を入れてしまうと観る側は容易に想像が出来る。しかも、ラーメンズである。説明的なフリを入れるコンビではない。ラーメンズは「ブラックユーモアも多いから今回の発言もジョークの一種」と書いてる人を見かけたが、今回はそもそもそういう類のブラックジョークではない。


あくまでも
「こんな[できるかな]は嫌だ」という設定


「遊びながら学べる」と「子供向けっぽくない」


この二つのギャップ構造である。普通の教育番組で「ユダヤ人惨殺」という歴史的事実を伝える番組というのは当然あるし、それが非難されることは世界中どこにもない。でも、その『歴史的事実をワクワクさんが伝えようとしている』というのは見る側に違和感を与え、この違和感から笑いは発生する。

もう一度説明するが、なぜこのような強いギャップが必要だったのか?それはこれまでの構造を展開させていき、盛り上がった、言い換えるなら、高いハードルをどのように超えるのか?ということを説明せず、会話劇だけで観る側に届けようとする意欲態度の結果である。だから、問題ないという話ではない。あくまでも、[今回のネタ解説と人は何で笑っているのか?笑かそうとしているのか?]である。奇しくも、ラーメンズはこのような説明をせずに伝えることが【出来てしまう技量】はあるし、その技量と構成作りの巧みさからラーメンズの作品というのはとても重層的で面白いという評価を今まで沢山の人から受けている。

では、今回の騒動を確認しよう。

ゴ「ちょっとやってみようか。ちょうどこういう人の形に切った紙が大量にあるから」
ノ「あーほんと」

ノ「あー!あのユダヤ人大量惨殺ごっこやろうって言ったときのな」

ゴ「そうそうそう。戸田さん怒ってたなぁ〜」
ノ「放送できるか!ってな〜」

この発言から

サイモン・ウィーゼンタール・センターでは
このような表明がなされて世界中で非難されている。


anti-Semitic jokes including “Let’s play Holocaust.” Kobayashi is reported to have made distasteful jokes about disabled individuals.

“Any person, no matter how creative, does not have the right to mock the victims of the Nazi genocide. 


"Let's play Holocaust "などの反ユダヤ主義的なジョークを言っていました。小林氏は、障害者に対しても不快なジョークを言ったとされています。

「どんなにクリエイティブな人でも、ナチスによる大虐殺の犠牲者をあざ笑う権利はありません。(DEEP L翻訳より)


"Let's play Holocaust "
“ユダヤ人大量惨殺ごっこ”

なんて悍ましい単語だろうか…

冒頭で述べたようにこの騒動についての
是非に対する言及は控えようと思う。
(最後に少しだけ触れる)

でも、この辺の解釈については整理しておこう。

まず、“ユダヤ人大量惨殺ごっこ”はノッポさんとゴン太君のプライベートで楽しんでいる内容ではない。番組企画の提案となる。そして、なぜこのような企画を提案したのかと言えば、戸田さんが『作って楽しいものもいいけど、遊んで学べるものも作れって言っただろ』という言葉に対して子ども向けっぽくないノッポさんが遊んで(紙とか段ボールを使っ1〜5歳の幼稚園保育園向け)学びに繋がる工作とはなんだろうか?

その行き着いた結論が「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」

今回の騒動で「ノッポさんはヤバい奴を表現するためにこの言葉を使っただけ」と伝えている人が多く見受けられるけど、確認してきた内容で考えればこのくだりは「ヤバい奴」を表現しているわけではない。それを紐解く鍵は、戸田さんが怒ったことに対する解釈の相違にあると考える。

戸田さんが怒ったのは
「残酷だから」ではなくて
伝えた“学び”が全然違っている。
言わば“飛びすぎている問題”である。

筆者の想像でしかないけど
戸田さんの『遊んで学べるもの』はデンジロー先生のような学びを想定していたが、ノッポさんが持ち出したのは『ユダヤ人の大量惨殺があった歴史的事実を伝える』という学びを持ち出している。先程も書いた通りその歴史事実を学ぶことはとても大切であるし、それ自体は批判対象ではない。でも、それが【幼稚園保育園に向かってノッポさんとゴン太君が伝える】なら、それはおかしい。ポップな雰囲気でノッポ(ワクワク)さんがホロコーストを伝えるのは確かにおかしい話なのだ。

つまり
【番組カラー違い過ぎるよ】という怒りである。

この騒動の中には

「時代背景が違う」
「人権意識が低い」

だから、問題じゃない/問題という声が存在する。

でも、一つ一つ確認してみれば時代背景や人権意識を欠いたアウト発言で笑いを取ろうとしたわけではない。まず、“子供向けっぽくない”という前フリに従事した会話劇を繰り広げている。そして、ラーメンズは「子ども向けではないだろ」という強いギャップを作るために発言している内容となる。だから、観る側との距離が生まれない。極めて丁寧に飛んでいる。少なくとも飛ぼうとしている。ネタを最初から見ればこのように順序立てて飛んでいるのは理解できるし、このような強い言葉(飛び方)でも笑いが発生したのは別に時代や人権意識が直接的な要因ではないと考える。あくまでも、ギャップ構造[子どもー子ども向けではない]を順序立てて展開した結果である。実際に客は離れることなく(自然に)笑い声をあげている。

くだりだけを観ても伝わらないことはよくある。
これは、ラーメンズに限らない。

例えば、M-1とかの優勝ネタ(くだり)だけ観て
「そんなに面白いか?」と感想を抱く人も多い。
でも、これは仕方ない。なぜなら、笑いというのはそのボケだけで判断するのではなく、全体の流れがあってウケているのだ。

もちろん、言葉選びの是非がそれとは別に存在する。もっと最適解はあったのかもしれない。ただ、あくまでもSNSで見受けられる「小林賢太郎はユダヤ人を馬鹿にするために」発言してるわけではないと僕は考える。

もう一つ今回の騒動はなんと言っても
ユダヤ人大量惨殺“ごっこ”が“let's play”になる点。その部分だけ切り取れば海外の人にはこう映る。

ノッポさん「let's play holocaust」
観客「わはは」


ここだけを見ると明らかに「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」を笑い物にしてるように見受けられる点については注意しなければならない。ちなみに、この際、なぜノッポさん(小林賢太郎)がユダヤ人と付け加えたのか?例えば、ヤバい奴を表現するなら「大量惨殺ごっこ」だけでもいい。でも、ユダヤ人と付け加えている。それは、ユダヤ人を馬鹿にしてるのではなく、先ほどの観点である「歴史的事実の教育番組上の学びとして」ということなのだ。更にこの[ごっこ→let's play]という翻訳は正しいけど正しくない。なぜなら、このごっこはノッポ(ワクワク)さんなどの文化言語であり、その文化言語のワードはlet's playという“遊ぼう”ではなく“企画名”という意味合いで用いている。でも、この文化言語をノッポさん(できるかな)など知らない海外の方達はこの辺がうまく理解できない構成となっている。


もちろん、このパワーワードに対しては笑いを作る音遊び的な面白さは含まれているし、そこに笑いという意図もあったのは否定できないだろう。


本題に戻るとする。

[替え歌]

ノ「まずこの人型の紙に人って書いていくんだよ」(ここからずっとこの作業は繰り返される)
ノ「でっきるっかな?でっきるっかな?タテタテヨコ〜♪」
ゴ「でたー替え歌シリーズ」

さて、ここでまた次の笑いの構造が含まれる。ラーメンズはこのように作品の中に笑いの装置を複数入れるのだが、この複数を後で述べるが自然的に繋ぎ合わせている。自然的な仕組みは物語を展開しながら同時並行的に隙間を上手く活用している。このような重層感はとても心地いい。

先程の動画にも出てきたが、
「でっきるかな?でっきるかな?〜♪」は
パロディである。(筆者もこの本件の歌を知らなかったので最初観た時はちゃんと理解していない)

ノ「でっきるかな?でっきるかな?〜(聞き取れない)angel♪」
ゴ「カッコいい〜」
(調子乗るノッポさん)
ノ「昨日考えた!昨日お風呂で俺が考えた」
ゴ「できるかーな?と尋ねたらできますよーと応えまーすタテタテヨコ〜なのーです」
ノ「でた!所ジョージ調」
ゴ「俺が考えた」
ノ「え?それお前が考えたんだっけ?」
ゴ「俺が考えたんだよ」
(中略)
ゴ「お前が考えたのはジャッキーチェン調だよ」
ノ「でーきるかなーできるーかなータテタテホホォ〜」
ゴ「そうだよ」
ノ「ごめんごめん」

まず、想像して欲しいのがノッポさんとゴン太君がプライベートで自身の番組の替え歌で遊んでいるというのが面白い。そういう本家の歌や所ジョージやジャッキー・チェンを知らなければ伝わりづらいところだが、あまり知らなくても笑いが取れるのはこの2人の技量の高さからである。笑いの構造としても一番シンプルで面白いところ。ちなみにこの替え歌も最初は明らかに分かりやすい替え歌(英語)という、徐々にという展開はちゃんとある。(しかし、この辺は詳しく述べないが、アイデアの笑かせ方と技量の笑かせ方で展開構造は微妙に異なる)また、最初のお風呂で“俺が”と強調した台詞回しだ。これは次に自然と「この歌は俺が作った」論争を広げるのに繋がっている。上手い。

次にラーメンズの構成の妙はこういう笑いの装飾を活用して物語の展開を覆い隠すところだ。物語が進んでいきながらも、笑いを装飾させつつ観客を飽きさせない、作品としても単調にさせない。何度も伝えている重層感を生み出している正体である。

[作業中の会話]

ノ「そういえばお前さじゃじゃ丸さんとピッコロさんの結婚式いくら包んだ?」
ゴ「五万」
ノ「それやっば」
ゴ「いくら?」
ノ(指を2本あげる)
ゴ「うそーお前絶対戸田さんになんか言われるよ」
ゴ「だってじゃじゃ丸さんだぞ?めちゃめちゃ世話になったじゃねーか」
ノ「そうだよなー。俺たちがひょっこりひょうたん島の前説やってた頃だもんなー」

業界の裏側ネタとして、立場関係の笑いが生まれている。これも本家を知ってる方が面白い。ポイントとしては“出演者同士の結婚”を出しているところである。冒頭ら辺でラーメンズは「何度見ても楽しめる」と伝えたが、まさにこういうボケ一つ一つに対してとても丁寧に作られている。

ちなみに、、、

関係ないけどこれは本当なのだろうか、、、
真実は分からないけど、だとしたら違う方向でも面白い。(じゃじゃ丸は昔のスネ夫役の人でピッコロはドラミちゃんやシータ役でもある)

話を戻す。

ノ「あれ?」
ゴ「なにー?」
ノ「人ってこんな字書くの?」
ゴ「あーわかる」
ノ「なんか人ってこんなに書いてたら分からなくなっちゃった」
ゴ「あるある」
ノ「ひらがなでもあるよね」
ゴ「あるある」
ノ「この前“む”って字はさ(むを書くジェスチャー)」
ノ「あれ?」
ゴ「それはない」
ノ「うそうそ」
ノ「後半作った」

「あるあるではない」という変化球に対するツッコミの笑い。そして、最後の物語の前フリが完成する。ちなみに、この“む”のくだりをあえて入れるのは話を単調にさせないだけではなく、緩和後の説明部分である緊張をグッと間延びさせないテクニックだ。凄い。

ノッポ「なんていうの、沢山同じもの見過ぎてわかんなくなるっていうのかな、もう日常にあり過ぎて、一番大切なことに気付かないってあるよね」
ゴン太「え?なにどういうこと?」

散りばめられていた、笑いではないボケ[言い換え]が最後に再び出てくる。ラーメンズは設定的な構造とは別にこのような物語としての装置も入れている。そして、ゴン太君の「なにどういうこと?」は、また、最初のミスリードの強調(知らないフリ)にも繋がっている。


ラーメンズがなぜ重層的な作品となるのか?

こういう複数の構造を入れ子のように組み合わせているからである。しかし、このような複数の構造的な展開は難易度が極めて高い。

【説明量が増える】
【観る側がついてこれない】
【間延びしやすくなる】

このような問題とぶつかる。つまり、構造的な展開は観る側を予測させない“裏切り”と複数性を一つにまとめる“自然な繋ぎ目”が必要不可欠だ。裏切りがなければ間延びするし、つまらないものとなる。また、複数の構造同士の“繋ぎ目”が見えると、違和感を与えてまとまりのない分裂した作品となる。

その繋ぎ目と裏切りをより良く魅せるためにラーメンズは【笑いという装飾】を最大限活用している。そして、笑いだけではなくフリの使い方や説明しない工夫など、上記の問題点を取り除く工夫が大量に仕掛けられている。

[キャッチボール]

ノ「なんでもないんだ、、、はぁ〜」
ゴ「…ちょっと待て、お前、なに鈍感って書いてるんだよ」
ノ「書いてないよ!」

2人の存在→2人の関係→2人の番組を展開してきたが、ここでもう一度2人の関係について話が戻ってくる。つまり、今回のゴン太君の最初の質問である「で?なに?」という本筋の展開である。簡単に言えば恋愛模様に話は移行する。

ゴ「丸めちゃダメだろ」
ノ「違うよ、こうやって球って書くんだろ?」
ゴ「ほらっ」(球を投げる)
ノ「あっいて、、、おいなんだよ〜」


青々しい展開である。
もう一度思い出して欲しいのは
これは男子中学生の話ではない。


この2人の話である。


ノ「鈍いんだから」
ゴ「なんだと?」
ノ「鈍感なんだから」
ゴ「なんだと??」
ノ「なんだよ???」


もう一度いう。


これは中学生が付き合うか微妙なラインの時の
喧嘩ではない。


おじさんと気持ち悪い生き物のやり取りである。

ノ「この意気地なし!」
ゴ「どういうことだよ!バカ」(球を投げる)
ノ「バカ!」(投げ返す)
ゴ「バカ!」(投げ返す)
ノ「バカ」
(ゴン太君振りかぶる)
(ノッポさん手に何か持っている)

その持ってるものは指輪だった。

ノ「、、、ばかぁ、、」

暗転


非常に上手いオチである。ゴン太君は最初から散りばめられていた、ミスリードを最後までやり抜いている。そして、振りかぶるという小ボケはここでも先程言うた緊張をより良く演出する緩和の機能を果たしている。同時に、観客の視線誘導の巧みさもある。しかし、振り返ればゴン太君は告白の場面の非言語コミュニケーション(表情や姿勢など)で鈍感な男を最後まで装いながらも、なんとなくこのノッポさんの気持ちは理解していたことが読み取れる演出になっているし、それをちゃんと応えようとしてる部分も伺える。9分間という作品の中でこれ程まで組み込まれたネタを量産できるのはまさにラーメンズが評されていた部分であるし、これを皮切りに数々の演出を魅せていた小林賢太郎さんだからこそ

今回、五輪の閉会式という大舞台で白羽の矢が立ったであろうことは容易に想像できる。


[最後に]


今回の騒動はネタの中身なんて関係ありませんし、
そのような優れたネタだから今回の問題を蔑ろにしていいわけではありません。

そもそも話が違う形です。

そして解任の問題については

小林賢太郎の解任コメント

本人が書いてる通りのことなんだと考えます。
如何に「ユダヤ人を嘲笑うつもりのネタではない」
僕が伝えたところでこんなのは一般人の
妄想の域は超えませんし、関係ありません。

小林賢太郎さん本人が向き合い続ける話であり、
本文でも書かれてる

【人に不快な思いをさせることは、あってはならないことです】という言葉が全てだと考えます。

筆者が「なぜ書いたのか?」と言われたら
話題になっているネタを真面目に観たかった
という極めて個人的な動機です。

そして、ことの発端となっている
中山泰秀さん(防衛副大臣)の

https://twitter.com/iloveyatchan/status/1417909938064551936?s=21

一連の流れのコメントが
僕が当時見ていたネタの解釈と大きく異なる点から
自分の純粋な解釈も伝えようと考えました。


なぜ、伝えたのか?
これは繰り返しますが小林賢太郎さんを
非難するつもりも擁護するつもりでもなく

強いて言うなら

不快に感じた人の不快度を少しでも下げるキッカケに繋がれば嬉しく思います。


僕自身、Twitterという140字の何気ない他人の一言で傷ついたり、不快に感じたり、嫌な思いになったことは度々あります。そう言う時はブロックなどで対応をするんですが、縁あって、過去に不快だと個人的に感じたツイートの人と会うことがあったのでそのツイート内容について尋ねてました。

すると、相手の考え方を聞く内に140字では分からなかった、その人の考えが理解できて、自身の抱えていた不快なモヤモヤがなくなった体験があります。

今回の騒動で不快に感じた人が僕のネタの解釈を通して、違う見え方に繋がれば嬉しく思います。


このような長文を最後まで読んで頂いたこと
誠に感謝致します。

そして、ラーメンズのお二方には
ネタを解説するという極めて無粋なことをしてしまい誠に申し訳ありません。

応援しています。

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