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「ミスター・ランズベルギス」と中米内戦の思い出

 ソ連崩壊前後のリトアニア独立闘争の経緯を、独立運動のリーダーで初代最高会議議長をつとめたランズベルギス氏のインタビューと、当時の膨大な映像で描く4時間の大作ドキュメンタリー。
 ピアニストのランズベルギスは言葉のひとつひとつに豊かな感性がかんじられる。だれかに似ている。「世界一貧しい大統領」とよばれたウルグアイのホセ・ムヒカだ。労働運動などで何度も投獄された経験をもつ彼もひょうひょうとしていて魅力的だった。
 ランズベルギスの敵はゴルバチョフだ。ゴルバチョフはペレストロイカという開放政策によって旧ソ連の閉鎖的体制に風穴を開け「希望」をもたらした。この映画でもゴルバチョフが気さくに民衆とかたりあう姿を紹介している。でも彼はリトアニアの独立は許さなかった。
 ランズベルギスが最高会議議長に選ばれて独立を宣言すると、ソ連は軍隊によって恫喝する。圧倒的な軍が、首都におそいかかり、立ちはだかる民衆に発砲し、13人が殺された。
 このときの映像は、1973年9月11日のチリのクーデターを彷彿させる。世界ではじめて民主的に選ばれた社会主義政権は、米国に後押しされたピノチェト将軍によるクーデターで倒され、数万人という人が虐殺された。
 リトアニアもそんな悲劇が起きてもおかしくなかったが、ソ連の経済が崩壊し、西側とことを構える余裕がなく、さらに、リトアニアが独立を宣言した数カ月後にソ連が崩壊することで、ぎりぎりで惨事をまぬがれることができた。
 13人の犠牲者を弔う場面で、「泣くのはやめよう。彼らに力とともに、自由を勝ち取るのだ」という演説をする人がいた。そっくりの場面にぼくは内戦中の1989年のエルサルバドルで出会った。

 軍によって虐殺された、ロイター通信とテレビ局の記者3人の葬儀に参加した。棺が埋められるのをハンカチを手に多くの人が見守っていた。そのときだれかが声をあげた。
「彼らは事実を報道することで、民衆とともにたたかった。勇気ある英雄を拍手で見送ろう」
 みんなが手をたたき、ハンカチを振ってお別れをした。

 ランズベルギスらが独立運動をはじめたのは1988年だ。そのときぼくは内戦中のニカラグアに住んでいた。アメリカが後押しする右翼ゲリラの破壊活動で、経済が逼迫するなか、東欧諸国や南米のいくつかの国がニカラグアを支援していた。
 当時のニカラグアではソ連は「正義」だった。だがソ連人はカタくて、つきあいにくいヤツが多かった。同じ時期にソ連はリトアニアの独立運動をつぶそうとしていた……
 4時間の映画を見ながら、ぼくが接してきた中南米の民衆運動の場面を次々に思いだした。

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