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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(4)

1990年、念願のベトナム入りを果たした私が見たホーチミン市内の様子はどのようだったかについて今回はお話します。

外国人が珍しかった時代

ホーチミン1区は、今でこそハイブランドのアパレル店舗が立ち並ぶ市内の中心部ですが、1990年はアスファルトの道は少なく、バイクが土埃を巻き上げ、スコールの後はぬかるみで足元が泥だらけになりました。

裸足の子供が多かったホーチミン市内

自動車に乗るのは外国人かよほどのお金持ちだったので、市民の足はバイクか、自転車、シクロでした。
どこへ行っても車から降りると、途端に大勢の子供が取り囲み、お金をくれとせがみます。裸足の子供が多く、サンダルを履いている子はまばらでした。

10歳くらいの男の子が他の子よりお金をもらえるように、親にパンツをはかせてもらえない姿を見て、初めは胸が痛みました。

学校に通っていない子供も多かった

しかし、5分もするとTシャツの裾を引っ張り股間を隠しながら、仲間とサッカーに講じるので可愛らしいなと思っていたら、彼らは私のウエストポーチを探るプロのスリ集団でした。

ウエストポーチに現金が入っていないので、諦めてサッカーしていたのだと後でツアーガイドから聞き、チビッコスリの早業に舌を巻きました。
どおりで毎回閉めたはずのウエストポーチのチャックが子供が立ち去ると開いていたわけです。

カメラを向けるとどんどん人が集まってくる

泥んこ道にせめぎ合うように露天の店が立ち並んだ場所で、片腕と両足のない父親を手製のスケートボードのような板切れに乗せ、紐で引きながら物乞いをする男の子に出会いました。

うつ伏せになった父親は、私のカメラと自分の体を交互に指差し、お金をくれと手を前に差し出すポーズを何度も繰り返しました。
私の足元から、私の心を見透かすように
「いいから、早く撮れ!」
ベトナム語でそんな風に言っているのがわかりました。

私には彼らを被写体に収める勇気がなく、悩んだ挙句、その場を離れました。自分にはその資格がないと思ったからです。

その後ホテルに到着した私は、サイゴン陥落の爪痕をホテルの部屋でまじまじと確認することになります。

恐怖におののく1日目の夜

どう見ても戦前に建てられた古ぼけたホテルはドンコイ通りに面し、何かを隠すように不自然に壁にかかった額縁は、通りに面した大きな窓のちょうど反対側にありました。
嫌な予感がして、額縁をずらしてみると見事な銃弾の跡が。

サイゴンの市街戦を思い出してその夜は、怖くて怖くて一睡もできなかったのを憶えています。

戦時中実際に使われていた銃や手槍

当時のベトナムの貨幣価値は、50VNDが約1円で、フォー1杯が500VND(10円)で食べられました。雑貨はもっと安く、5枚セットのバッチャン焼きの小皿が50VND(1円)で売られていました。

ホーチミン市内で今ならフォーが、22000VND(100円)なので、いかにベトナム経済が発展して、物価が上昇したかがわかると思います。

人民服の男達

ギクシャクしっぱなしのベトナムツアー

ツアーガイドを担当した国営公社の職員は、25歳になったばかりのグエンといいました。彼は英語が堪能で、後にオーストラリアに観光ビジネスを勉強するために国費留学します。

ツアーに参加したのは、私の他に男女3人の日本人。いずれも歳が近く、あっと言う間に仲良くなりました。

ツアーガイドを務めたグエン

戦後初の外国人向けツアーガイドの仕事に意欲を燃やすグエンは、アメリカ傀儡戦争犯罪展示館見学、市場探訪、海上レストランでの食事、山岳民族の演奏会、ベトコントンネル見学などを用意していました。

好奇心の強い私達が寄り道しないよう、始終ピリピリした様子で、そのピリピリが私達に伝わってなんだか重苦しい雰囲気の中、ホテルの一室で夕食後、公社が用意した山岳民族の演奏会を見ることになりました。
観客は、ツアーに参加した日本人の私達4人だけです。

約1時間ほどの退屈な演奏が終わると、今まで演奏していた彼らが、1本50000VND(当時のベトナム人月給の半分)のカセットテープをしつこく押し売りしてきました。

なんとなく断りづらい雰囲気の中、仕方なくカセットテープを購入する私達。
グエンは、とても申し訳なさそうな表情をしていて、このツアーがうまくいっていないことを象徴するような瞬間でした。

ニワトリを売る市場の女性達

グエンの苦悩

グエンは、私達がこのツアーに満足しているか始終、気がかりな様子で、
「日本人はどこへ連れて行ったら喜んでくれるのか?」、
「日本人はベトナム観光に何を期待しているのか?」
としつこいくらいに聞いてくるので、
「よし、わかった!」
とツアーも後半にさしかかったある晩、バーでお酒を飲みながらこれからのベトナムツアーについて皆でアイデアを出し合おうということになりました。

それまでお酒を一滴も飲まない真面目な彼でしたが、その日ばかりは車を職場に置いて、シクロで約束のバーまでやって来ました。

ビールを飲んで本音で語り合ううち、彼の苦悩が次第にわかって来ました。
彼の苦悩は、大きく分けて4つでした。

1.外国人は、決められた場所(ホーチミンとハノイのごく一部)以外、行動してはいけない。

2.外国人がホーチミン、ハノイ以外に行く場合には、事前に政府への申請許可が必要(申請許可が降りるまでかなりの日数がかかる)。

3.観光地と呼べるような場所は、今のベトナム国内にはない。

4.ツアー残り2日間、皆をどこに連れて行けばいいのか、アイデアが尽きてしまった。

今ではとても信じがたいことですが、1990年に初めて外国人を受け入れたベトナム国営公社のツアーは、
「とりあえず開国してみた!」
という行き当たりばったりなものでした。
それでも1日も早い戦後の経済復興をするため、外貨を獲得する必要が、当時のベトナムにはあったのだと思います。

これからのベトナムツアーについて語り合う私達

その頃ベトナムのホテルに泊まっていると、売春婦が夜中に部屋のドアを何度もノックして来るので、怖いのでホテルに抗議してくれとグエンに頼んだことがあります。

しかしグエンは、
「彼女たちにも生活があるし、ベトナムでは普通であり、仕方のないこと」と言い、喧嘩になりました。
今、思い返すと戦後間もない時期だったので、グエンが正しかったのかもしれません。

こんな風にぶつかり合いながらも、今後のベトナムについて話し合い、短い時間の中で皆の距離がどんどん縮まっていくのを感じました。

150000VNDのボッタクリに会う

当たり前かもしれませんが、振り返ると当時のベトナムの治安はかなり悪かったように思います。

弟の面倒を見ながら市場で物乞いをする少女

グエンがいないある晩、ツアー仲間の男友達とホテルを抜け出して、シクロの運転手の案内でジャングルの中にポツンとあるバーに連れて行かれたことがあります。

バーと言うと聞こえはいいですが、実際は、屋根と柱が立っている所に椅子とテーブルが置かれ、入り口にネオンサインが光っているだけの場所です。
塀のように周りを取り囲んでいるのは、生い茂ったバナナの木でした。

ベトナムビールを1人1杯ずつ頼んだだけなのに、大量のフルーツ盛り合わせと、呼んでもいないホステスが10人くらい同席して来たので、

「コレはタダごとでは済まないよ。すぐに出よう!」

と男友達に伝え、お会計を申し出ました。

そこで請求された金額はなんと150000VND(3000円)。
当時の150000VNDは、ベトナム人平均月収の約2ヶ月分の給与に相当します。ホーチミン市の中心部でのビール1杯の値段が20円〜50円くらいでしたから、100倍のボッタクリに遭遇した感覚です。

日本円に換算すれば、わずか3000円かもしれません。しかし、外国人をカモにする彼らのやり方に私は憤りを覚えました。

「は?何これ?絶対に払わない!」

バーの店員と私たちを案内したシクロの運転手に日本語で文句をガンガン言う私の横で、バックパッカーの男友達は大笑いしながら、

こんなのは払っちゃえばいいんだよー!」

とすぐに料金を支払い、事なきを得ました。
その直後、バナナの生い茂った暗闇から7、8人の男達がニヤニヤしながら現れたので、バックパッカーはすごいなと感心したけれど、納得はしてないので悔しくなった覚えがあります。

ベトナム戦争は記憶にない

グエンの高校の同級生の家は、メコン川のほとりにあります。川から庭の池に水を引いて、池の上には四方をトタンで囲ったトイレがあり、排泄物は魚の餌となる自然サイクルが理にかなったジャングルの中の一軒家です。

小舟でメコン川を移動

ベトナムツアーに煮詰まったグエンは、都市部ではないベトナム人の普通の人の生活を見てもらおうと小舟を使ってメコン川を移動し、私達を同級生の家に招待しました。

庭にはパパイヤやマンゴー、バナナ、ココナッツなどの果実が勝手に実り、戦争さえ無ければメコンデルタはこんなに肥沃な土地なんだと感慨深い思いになりました。

グエンの同級生の家

同級生の家からホテルに戻る帰り道、グエンの実家に寄りました。
父親はいかにも元北ベトナム軍で戦っていたという風貌で、始終煙草をくわえ、眼光の鋭い人でした。

私がグエンに戦時中の話が聞きたいから、通訳して欲しいと頼むと父親から、

戦争の事はあまり覚えていない」

とつっけんどんに返されました。

グエンの実家

この頃出会ったすべてのベトナム人は、戦争について語ろうとしませんでした。

どれほど質問しても、まるで戦争など無かったかのように、「あまり記憶にない」、「小さかったので知らない」、「忘れた」など手応えのない答えばかりでした。

政治的に禁じられていたのか、辛い思い出を消し去りたいのか、それともその両方なのか、グエンを含め、誰に尋ねてもベトナム戦争について断片的にでも話す人は皆無でした。

ツアー最終目的地はグエンの家

ツアー最終日の前日にグエンは、
「実は結婚していて、子供もいるんだ」と打ち明けました。

空港に行く前に子供の顔を見せろ見せろと私達がせがむので、ツアー最後の目的地はグエンの家になりました。
グエンの奥さんは生まれたての赤ちゃんの世話をしながら、お菓子や日用品を売る本当に小さな店を切り盛りしていました。

空港に着いてから搭乗時間が迫るまでの間、身の置き場がないようなソワソワした感覚に包まれて、グエンも私も同じ思いを口にしました。

「また絶対にベトナムで会おう!」

実直でカタブツだけれど、悩みながら模索する彼の姿を見て、ベトナム人の真面目さは日本人に似ているなと思いました。

結局のところツアー後半は、グエンの家族や親戚、知り合いの家を訪ねるという奇妙なスケジュールになってしまいましたが、ベトナム人の普通の生活を知ることができたことに、私はとても満足していました。

ゲートに入る時、私達は何度も何度も彼に手を振ったけれど、グエンは一瞬だけ微笑んで、手も振らず去って行きました。
シャイで、はにかみ屋の彼らしい別れ方でした。

グエンからのエアメール

戦争のその先へ

翌日ツアー仲間とバンコクで別れ、ひとりぼっちになった時、子供の頃からずっと追いかけて来たベトナム戦争への強い思いに、やっと区切りがついた気持ちがしました。

ベトナムで誰もが戦争について語ろうとしなかったのは、過去を引きずらず、前に向かって歩き出そうとしているからなのでは?とこの時、気づきました。

戦争は、2度と繰り返さないためにその事実をより正確に知るべきですが、とらわれすぎるとどちらが加害者でどちらが被害者なのかという永遠に終わらない「負」のスパイラルにはまります。

民間人が攻撃されたと主張することで被害者の立場に立とうとする国家もありますが、兵士の犠牲者も「ひとりの人間の死」という視点から見ればどちらも同じくらい大罪です。

イデオロギーから志願兵になる者もいるでしょう。しかし、宗教の教えや教育によって子供の頃からすりこまれたことを知る者は少なく、自分の意思選択だと思い込んでいる場合や、自分の意思とは無関係に兵士として戦場に駆り出される構造は、かつての日本を振り返れば火を見るよりも明らかです。

宗教や民族の違い、資源や領土の取り合い、政治の食い違い。
戦争には、いくつかの原因があります。
しかし、それがどのような原因であったとしても武力を行使する(される)以前に、あらゆる手段を使ってでも話し合いで解決するのが、地球上で唯一、言語を獲得した人類の務めです。

「紛争を起こした両国のどちらも支援しない」

「他国への軍事介入はいかなる時でも賛成できない」

これはベトナムから学んだ私の信念です。
紛争国を支援することは、人命を奪うことに加担することに等しいと私は感じています。

「忘れた」。

「覚えていない」。


ひとつの国が南北に別れ、命を奪い合ったベトナム国民が、深い悲しみや痛みや苦しみを内に秘めながらも、これからを生き抜くために「負」の感情(恨みや報復など)を手放そうとしていたと理解できたのは、実際にベトナムに行き、自分の目で物を見て、考えた結論です。

軍事政権下のベトナムへひとりで行く私を心配しながらも、反対せずに送り出してくれた両親や当時の彼氏(現在の夫であるフジマルマスター)に感謝する思いでした。

さようなら、沢田教一。
さようなら、一ノ瀬泰造。
さようなら、手足のない父親と物乞いをしていた男の子。
さようなら、アメラジアン(米軍兵とのハーフやクォーター)のたくましい女の子。
さようなら、底抜けに明るいスリの子供たち。
さようなら、私の中のベトナム戦争。

明日からの私も、戦争から意識をその先へ向けるべきなのだ。

そう思った途端、涙が込み上げてきてバンコクの深夜の路上で、声をあげて泣いてしまったのを憶えています。

市場で遊ぶアメラジアンの女の子

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