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草原をゆく

 荷が揺れる。左に大きく重心を取られて、彼はあわててハンドルを戻した。
 つんと澄ました春空の下、彼は旅の荷を積んで、ぎいぎい軋む車を走らせていた。遥か彼方まで平に続く大地を貫くコンクリートの道。すれ違う車も居ない。獣の群れが、遠くからこちらを振り返るのが見つかるだけ。まだ春の芽吹きを迎えていない大地は、枯れ草色をして冷えた春の大気に身を縮めている。彼の走らせる車の音が、遠くに聳え立つ山脈まで響いていくようだった。
 彼はハンドルから手を離して、小さく伸びをした。夜明けから車を走らせて、日はやっと中点を過ぎたばかり。僅かに西へ傾いた日を受けて、山肌に残った雪が眩しく光る。
 遮る物のない空間で、その山脈は思うよりもずっと遠くにあるのだろう。
(あの山まで、真っ直ぐ走っていこうか)
 彼の頭をそんな思いが霞めた。山脈を回り込み、谷間へと蛇行しながら向かう道の先を視界の端で眺めつつ、山脈の天辺にかかる雲を見つめた。あの山の麓まで真っ直ぐ走り、勢いで山肌を駆け上がり、雲の高さまで登りつめ——
 ……あの山の向こうには、何があるのだろう。山を跨げば未知の壮大な、かつ不可思議な景色が広がるのだろうか。青く澄んだ大河が流れ、その畔で馬が喉の乾きを癒し、鳥たちはその上空を奔る風に戯れ——
 もし、ここと変わらぬ景色が広がるとしても、それは「見知らぬ大地」であることには変わりないのだ。
 道を縦断する羊の群れを見つけて、彼は車の速度を徐々に落とす。羊達が行く数メートル手前で車を止め、彼は窓から顔を出した。
「やあ」
 彼は久しぶりに会った親しい友人にするように、手を振った。
「調子はどうだい」
 素知らぬ顔で羊達は道をのんびり行く。時に行きつ戻りつつ、群れ全体が路上から外れるのにかなり時間がかかった。その間、彼は一頭一頭を眺めながら辛抱強く待った。
 最後の一頭が道を渡りきると、彼は「またな」と彼らに手を振って、再び車を走らせた。大きく開けた大地に、古びた車の軋む音が響いてゆく。
(あの山の向こうには、何があるのだろう)

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。