ディストピアに生まれるということ

加齢のせいか辛抱がなく、ネットの記事は大方斜め読み。そんな疎漏なアンテナに引っかかった、ドキッとするくだりがあった。曰く、

前後の脈絡は忘れたが、「中国人は好きな場所へ旅行ができることをもって自分たちを自由な国民と自認している」というのだ。なんならさらに、「自由に買い物ができること」を加えていいかもしれない。

数億台の監視カメラで監視され、顔を記憶され、表現や発言は検閲され、恣意的判断で投獄もしくは軟禁される。それを嫌気して国を出ても自由が得られるわけではない。どこの国にも中国思想警察の出先事務所があって、SNS上の片言隻句がチェックされ嫌がらせを受ける。

中国は今やオーウェル作『1984』の描くディストピアを具現化した国である。法治思想や人権思想の欠如、権力の無謬性、思想警察、人民監視、密告の奨励、等々。オーウェル自身でさえ到来の確信があったかどうか分からない未来が中華人民共和国の形をして現実のものとなっている。これを読んだ当時、背筋が寒くなるのを覚えたが、まさか生きてる間に現実化するとは思わなかった。

想像上とはいえ、見えない檻に囲まれた閉塞感や酸欠感が戦慄の中身だった。では中国人はそうした恐怖を感じないのだろうか? 旅行や買物さえできればそれも忘れることができる、と…

と、ここまできて思い至る。1989年の天安門事件以降に生まれた中国人は、今人口の何%を占めるか知らないが、はなから現体制のなかに生まれ落ち育ってきた。よってディストピアでない社会を知らない! ディストピアの実現によって何を喪失したかを知らない! そもそも自国がディストピアとの自覚もあるまい。

それを思うと中国人の<b>自足</b>には戦慄以上の戦慄を感じる。

中国の未来に「人権思想や表現の自由」復活の契機はあるのだろうか!?

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