国立新美術館の企画展「マティス 自由なフォルム」について
先日、六本木の国立新美術館で、企画展「マティス 自由なフォルム」を見てきました。
けれど、私にはあの強烈な色使いが理解できなくて、マティスは苦手です。
「助けてー、アン、パン、マーン!」
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アンリ・マティス(1869-1954)はフランス生まれ、20才の頃虫垂炎療養中に母親から絵具箱を贈られ絵を描き始め、絵に目覚め、画家を志してパリへ行き、そのままパリで活動します。
マティスの作風は光重視、色彩は伝統的な陰影よりもボリューム感を表現し、さらには、単純化も追求、フォーヴィスム(野獣派)と称され、
当時、絵画の世界で最先端を突き進むマティスの仕事ぶりは日本へも伝わり、その画風に魅了され教えを乞うために、多くの日本人洋画家がフランスへ渡ります。
そんな日本人画家の一人が、
猪熊弦一郎(1902-1993)。
猪熊はマティスとの出会いについてインタビューに答えています。絵を見てもらったマティスから「上手すぎる」、「ピカソが好きだろ」と言われて困ったとか。
1950年、
猪熊は三越から百貨店専用のオリジナル包装紙デザインを依頼されます。デザインを考えながら猪熊は千葉の犬吠埼を散策し、波に洗われて丸くなった石を見つけ、その丸みを帯びた石は「波にも負けずに頑固で強く」しかも「自然の作る造形の美しさ」を持っていることに気づき、これをテーマにしようと決め、包装紙「華ひらく」を完成させたそうです。
そして、もう一人の日本人洋画家、
硲伊之助(1895-1977)は、
同じく1950年、
かつて何度もマティスに絵を教わっていた伝手を活かして翌年(1951年)日本で「マチス展」を開催するためマティスへ直接交渉します。マティスは高齢に加えて病み上りであり、めんどうなことに煩わされずにヴァンスのロザリオ礼拝堂デザインに注力したいと断りますが、硲が日本の若い学生達に及ぼす影響を切実に訴えかけ、次第に日本での「マチス展」開催を前向きに考えるようになり、マティスが生前に自分自身で計画した展覧会としては最後となる「マチス展」が日本で開催されることになり。
1951年、
結局、3月~6月に開催された「マチス展」には、マティスの最新作、ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関連する作品も多数含まれ、東京・大阪・倉敷での総入場者数は27万人を超える大盛況となります。
一方、1952年のニースでは、
礼拝堂を完成させたマティスは新たな仕事として、アメリカ人コレクターから大型壁面装飾の注文を受け、4つの切り紙絵を制作します。そのひとつが「花と果実」というタイトルで、縦4.1メートル、横8.7メートルという大作です。
近年、ニースのマティス美術館では「花と果実」が展示の核となっていたものの損傷が目立ち、修復し新しい展示ケースを設置することになり、その様子はYoutube動画として公開されています。(動画は約20秒、最初から見ると18分、フランス語)
話しは1950年前後に戻り、
このような状況から、
1963年、
マティスの家族から作品の寄贈があり、数年間の工事を経て、ようやくマティス美術館の開設に至ります。
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そして、ここからようやく、今回の国立新美術館、企画展「マティス 自由なフォルム」についてです。
今回のマティス作品の多くは、ニースにあるマティス美術館所有のもので、絵画、彫刻、素描、舞台の装飾、切り紙絵などのコレクション、
これはつまり、1951年に日本で開催された「マチス展」のためにマティス本人から貸し出され、展覧会後マティスへ返還され、マティス亡き後、家族がマティス美術館へ寄贈した、その作品群が約60年振りに日本へまたやって来たということです。
それに加えて、1951年にはまだなかった切り紙絵「花と果実」が初来日し、ロザリオ礼拝堂内部が展覧会の会場に忠実に再現され、日の出から日の入りまでを短時間でシミュレーションし、ステンドグラスを通して光と影が移り変わる礼拝堂の24時間を疑似体験できるのです。
そんな企画展に展示されていたの中で、私がよいと思った作品を一点上げるとすれば「ザクロのある静物」です。家庭画報のサイトに解説があったのでリンクします。
これ以上詳しくは、公式サイトの正確な解説や、
公式X(twitter)の写真などを見ていただきたいたほうがよいでしょう。
「マティス 自由なフォルム」とても素晴らしい企画展でした。
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最後に、
三越の包装紙デザインをマティスに心酔した画家、猪熊弦一郎へ依頼したのは、当時三越宣伝部の社員だった、やなせたかし(1919-2013)、
そう、あの「アンパンマン」の生みの親です。
読んでいただき、ありがとうございます。
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