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[コラム] 漫才の未来は「カバー漫才」と「古典漫才」が握っている

2010年に「M-1グランプリ プレゼンツ MANZAIカバーズ」という番組がありました。「名作漫才ネタの”カバー”は,お笑いの新たなスタイルになる?」などと期待されていましたが,2018年の今も,漫才のカバーは「お笑いの新たなスタイル」にはなっていません

「MANZAIカバーズ」という番組の大罪

将来的には「カバー漫才」や「古典漫才」の時代が来ると思っていますが,この番組はその時期を遅らせたような気がします。誰の指示かは分かりませんが,この番組で披露された漫才はほとんど「カバー」ではなく「コピー」,もしくは「ものまね」でした。元のネタを「自分たちのものにした状態」にまで仕上げないと,「カバー」とは呼べません。番組制作者がそれをよく分かっておらず,「コピー」や「ものまね」的な漫才をやるよう指示したのかどうかは分かりませんが,あれを「カバー」と呼んで放映してしまった罪は大きいと思います。「コピー」がお笑いの新たなスタイルにはならないことは,ほとんどの方が分かると思います。なぜあれを「カバー」だと思ったのか,その辺の裏事情をご存じの方がいらっしゃいましたら,ぜひ教えていただきたいです。もう8年も前の番組ですが…

2010年の「MANZAIカバーズ」以降,おそらく「漫才をカバーする」という企画の番組は放映されていないと思います。あの番組によって,「漫才のカバーはあまりおもしろくない」というイメージがついてしまったような気がします。でも,それは違います。あの番組が証明したのは,「漫才のカバーはおもしろくない」ということではなく,「漫才のコピーはおもしろくない」ということです。ちなみ,「ものまね番組」という形で放送するのであれば,あれでもありだと思います。

「カバー漫才」とは?

あの番組でネタを披露した漫才師のみなさんは,番組サイドに「コピー漫才」をやらされていたのか,それとも自分たちも「カバー漫才」というものが分からなかったのか,どちらなのかも知りたいところですが,どちらにしても「カバー漫才」がどういうものであるべきかを語る人はあまりおらず,「コピー漫才」と「カバー漫才」の違いが分からないという方も多いように思います。

例えば,「チュートリアルのネタを和牛がカバーしたらこうなるのではないか」と想像して書いた漫才台本がこちらです。ご覧いただけると分かると思いますが,ただ真似をするのではなく,「自分たちのスタイルに落とし込む,自分たちらしくアレンジして演じる」のが「カバー漫才」です。歌の「カバー」と「コピー」の違いと同じようなイメージです。元ネタを知らない人が見て,「これ和牛のネタでしょ?」と思ってもらえたら,カバー成功です。

ですから,自分たちの漫才スタイルを確立しないことには,「カバー漫才」はできません。どうがんばっても「コピー」か「ものまね」になってしまいます。自分たちの漫才スタイルを確立する方法についてはこちらをご覧ください。

漫才の未来を考えよう!

わたしは「カバー漫才」,そしてその先にある「古典漫才」推進派です。「MANZAIカバーズ」という番組の失敗例かも分かるように,今はまだ「カバー漫才」をする雰囲気ではありませんが,時間の問題だと思っています。その根拠についてはこちらをご覧ください。

すでに古典がある落語家の方は「古典漫才」に好意的な反応をされる方が結構いらっしゃるのですが,漫才師の方の反応はあまりよくないです。でも,今の漫才界のやり方はいずれ限界が来ると思うので,「古典漫才」について考えた方がいいと思います。

こういう事情もあり,VALUというサイトに登録し,投資家の方からの賛同を得られないか模索中です。未来を見ている漫才師はあまりいませんが,投資家の方は未来を見ているので。漫才や落語好きの投資家の方なら分かっていただけると思います。よろしくお願いします。

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あらゆるオチを誰よりも先に小噺化するプロジェクト『令和醒睡笑』過去の創作小噺を何回も何回も回すと"古典小噺"になる・・・はず・・・【小噺はフリー台本】