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「しっかりとしたオチのある漫才を書き,フリー台本として公開する者が勝者になる時代が来る」という予想

もしも漫才が今のように,「同じネタを他の漫才師がやることはほぼない」という状態が続くとすれば,将来的に漫才はどうなるのでしょうか?いつまでも「新ネタを作り続ける」ことは可能なのでしょうか?

限られた人しか「新ネタ」を作れなくなる時代が来る?

漫才は「生活に密着した笑い」ですから,時代と共に「生活」も変化するため,ネタが完全に尽きてしまうことはないと思います。ですから,「新ネタを作り続ける」ことはできると思います。

でも,ネタの「発想」やアイデアパターン」がほぼ出尽くしてしまう日が,いつかやって来るかもしれません。そういう時期が本当に到来するなら,その状態でもなお新しい発想を生み出す才能を持ったごくごく限られた人しか新ネタが書けなくなります。

「使い捨て」のネタが日本全国で量産されている

落語が今でも成り立っている理由の一つは,「古典落語」があるからです。落語家の場合は,必ずしも「新作落語」を作ったり演じたりする必要はありません。「新作」を自分で作る方もいれば,誰かに作ってもらう方もいれば,「新作はほとんどやらない」という方もいます。もしも,現在の漫才の世界のように,基本は「新作」で,基本的には「自分で作る」という,誰が決めたのかよく分からないルールのようなものがあったとすれば,落語は衰退していたかもしれません。

現在の漫才の世界で見られるような,それぞれのコンビが自分たちだけのためのネタを作り,いずれは自分たちでさえもそのネタを演じなくなるという,いわば「使い捨てのネタが日本全国で量産されている」という状態は,良くないと思います。たとえ完成度の低いネタであっても,その中にはおもしろい「発想」や「アイデア」が含まれていることがあります。演じられたもののまったく日の目を見なかったネタであれば,それを知らないまったく別の人が同じようなアイデアを思いつき使えるので特に問題はありませんが,それなりに知られ,でもその後まったく演じられなくなってしまったネタが増えれば増えるほど,そのネタの中にあるおもしろい「発想」や「アイデア」を他の人が使えなくなるという問題があります。「パクリ」と見なされてしまうからです。

今はまだ,漫才の「発想」や「アイデア」や「パターン」が出尽くした時期ではないので,こんなことを気にしている人はあまりいないかもしれませんが,いずれこれが切実な問題となる時期が来ると思います。そんな将来を見据えて,今からできることが2つあります。

①オチがしっかりとした漫才を書く
②それをフリー台本として公開する

「古典漫才」が必要とされる時代がやって来る

今後もネタの「使い捨て」が漫才の世界の主流であり続けるなら,漫才はいずれ衰退してしまうかもしれません。でもさすがに,「今の漫才界のやり方を変革しよう」という動きが出てくると思います。漫才ファンはたくさんいますから。

どういう「動き」かというと,それはもう「古典漫才」しかないと思います。先ほど挙げた2つの点はまさに,「古典漫才」の時代が来ることを想定し,今から取り組むべき課題です。

オチがしっかりとした漫才を書く

これは今でも,「そういう漫才を作れるものなら作りたい」と多くの方が思っていることだとは思いますが,もしかすると最近若い方の中には,「しっかりとしたオチのある漫才自体を知らない」という方もいるかもしれません。例えば,「夢路いとし・喜味こいし」や「横山やすし・西川きよし」という漫才師をご存じでしょうか?現役でいえば,「オール阪神・巨人」のお二人などは,今でもしっかりとしたオチのある漫才をしておられます。

昔の漫才はテレビでやる場合でも,今もよりも持ち時間が長く,オチをつけやすい状況にありました。しかし,テレビでの持ち時間が短くなるにつれ,オチをつけるのが難しい状況になり,弱いオチが増え,今ではオチがない漫才も結構あります。そういう漫才を見て育った人が,「しっかりとしたオチのある漫才を作ろう」とは思わないでしょうし,「オチのつけ方」を教えてもらえる環境もほとんどありません。

なぜ「オチのつけ方」を教えてもらえないのかというと,教えるのが難しいからです。「オチのつけ方」にはいろいろな方法があり,漫才全体の流れとも関係しているので,それを教えたり,文章化するというのは,簡単なことではありません。しかし最近,ある「教材」を使うことで,「オチのつけ方」を文章化することができました。有料ですが,興味のある方は「『しゃべくり漫才台本(ネタ)の書き方』と『オチのつけ方』」というnoteをご覧ください。

古典漫才において,「オチ」は必須条件となります。オチが弱かったり,オチがない漫才は,誰も語り継いではくれません。オチがなくてもかなりおもいしろい漫才であれば,「誰かがオチをつけて演じてくれる」というケースもあるかもしれませんが…

今から,話の筋とオチがしっかりとした漫才台本をたくさん書いておけば,発想やアイデアを「自分のネタ」として確保することができます。そして,それを確保するために,フリー台本として公開します。

「フリー台本」として公開するメリット

フリー台本として公開するということは,「そのネタを誰でも無料で使えるようにする」という意味です。「自分たちで作った大切なネタを公開し,しかも誰でも使えるようにすることにメリットなんてあるの?」と思われるかもしれませんが,現在のように「作ったネタを自分たちのものだけにする」ことのほうがメリットがないと思います。意味があるとすれば,何かの大会のためのネタを温存するときくらいでしょうか?

まず,ネットでネタを公開すれば,そのネタの発想やアイデアが「自分のものである」という証拠になります。ネタは普通公開せず,自分のネタ帳などに書きますが,それを自分が世に出す前に,似たようなネタを考えた誰かが先に世に出すことがあります。早い者勝ちです。それなら「先に公開したほうがいい」ということになります。せっかくのアイデアを,ネタ帳に眠らせたままにしておく意味はほとんどありません。

「他の人も演じたい」と思うほどいいネタであれば,フリー台本として公開すれば誰かが演じてくれます。それはつまり,「無料で宣伝してくれる」ということです。それはすでに自分のネタとして公開しているものですから,パクられることはありません。仮にパクられたとしても,どっちが先(元ネタ)かはすぐに判明すると思います。そのネタを演じる方がどんなに増えたとしても,「本家」は自分たちだけであり,他の方たちはそれを「カバー」しているという状態になります。

わたしも「漫才台本依頼」を承っていますが,基本「フリー台本として公開する」という条件で書いてます。「なんで高いお金を出して書いてもらったネタをフリー台本として公開するんだ」と思われる方もいると思いますが,これを同じ理由です。購入した人は唯一の「本家」という立場ですから,「カバー」してくれる人が増えれば増えるほど,自分たちの宣伝になります。もちろん,作家であるわたしにとっても宣伝となります。

でも,「自分たちのネタなのに,自分たちよりも上手にカバーするコンビが現われたらどうしてくれるんだ」と思う方もいるかもしれませんが,これこそまさに「漫才師の腕を競う」ということだと思います。

「フリー台本」でも上演料をいただけるシステムになるかも

わたしの場合は,noteにフリー台本をどんどんアップしていますが,オチの部分だけを隠した有料noteにしています。少しずつですが,購入していただけるようになりました。どのような理由で買ってくださったのかは分かりませんが,「純粋にオチが読みたい」「作家として応援したい」「フリー台本として使う上演料や謝礼として支払いたい」などの意味を込めて購入していただけると,今後も活動していくうえで非常に助かります。

一番の問題は?

ただ,一番問題なのは,「漫才をカバーしよう」と思う漫才師の方があまりいないことです。以前「カバー漫才」の企画をテレビでやっていたことがありましたが,あれはほとんど「カバー」ではなく「コピー」でした。第二弾が放映されていないところを見ると,あまり評判が良くなかったのだと思います。それは当然です。「コピー」ではダメです。おもしろくありません。

番組では「カバー」という言葉を使っていながら「コピー」になってしまった原因は,そもそも「漫才をカバーするとはどういうことか」を理解している人が少ないからだと思います。まずはここから始める必要があると思います。その一環として書いた「カバー漫才台本」があります。「夢路いとし・喜味こいしがフットボールアワーの名作漫才『焼かんでええやん』をカバーしたら…」 良かったらご覧ください。

本物の「カバー漫才」をしてくださる漫才師が増えるようご協力してくださる方を探しています。何か良い情報などあれば,ぜひ教えてください。

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あらゆるオチを誰よりも先に小噺化するプロジェクト『令和醒睡笑』過去の創作小噺を何回も何回も回すと"古典小噺"になる・・・はず・・・【小噺はフリー台本】