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ネットに書くこと、紙に書くこと

昨日、こんな記事を書きました。

正直、昨日は体調が良くなくて、そういう時は頭も冴えてないので、やっぱり冴えない中身だと読み返して思っております。

出典は明記するべき

例えば、リンクを貼る意味が元ネタを明らかにすること、私より先に誰かが同じことを言っていることを示すこと、それで自分の意見を強化すること、という点は確かにその通りなのですが、肝心の「出典」という言葉を使っていない。

ひょっとすると、そう言う人は元ネタに当たっているけど、元ネタのことを知らん顔しているのかもしれません。自分で言い出したような顔がしたいのかもしれない。

これを書いたのは、出典を明らかにせよということを言おうとしているのだけど、肝心の出典を明らかにするのが大事だ、とは言っていないわけです。そういうところがまどろっこしい文章になってます。

引用先をリンクしやすいことを活かす

もう一つ、noteを始めブログやFacebookで書いている場合もそうですが、ネットに残るものを書くときと、紙媒体になる時で、全く違うものが一つあるのに、そこに触れていないわけです。

それは、引用先を示す(アドレスを書いたり、リンク先の記事を貼ったり)と、すぐに引用元を見ることができるということです。

紙媒体で出典となると著作や論文、ネット記事などを示す場合は、知ることはできますが、すぐに見ることはできません。それでも、何をもとに書いているかを示すのは、多くの場合、著者の良心に関わる物だとされます。海外の著作は、実に丁寧に引用元を巻末に載せています。日本の著作は、これが少なかったり、なかったりするものが多いので、時折、だから日本の書き手はダメだ的な非難があったりします。

先日、本郷和人先生の本を立ち読みしていて、この引用を載せない理由が書いてありました。

引用するような元本を大量に読んだ上で、自分の体の中を通ってきた言葉を書いているから、引用しきれないし、引用に意味を見いだせない、というようなことでした(うろ覚えなので後で訂正するかも)。。

これは、歴史研究者だからできる言い訳で、科学者はそうはいかないなとか、色々論点はあると思うのですが、一理あるなとも思いました。

どこかで読んだ、誰かの言葉を引用していられないということですよね。

でも、エッセーの場合、事象と心象が交わるもとになった事象について引用しておかないと、何が出発点だか分からなくなります。そして、それが誰かの発言だとした場合、その発言が何に書いてあったかは記しておくべきです。

そして、読む側も、その引用されている記事なりリンク先を読んでみる方がいいんじゃないかと思います。そうすることで、一つ自分の中に蓄えができるわけですから。

そういう読み手への親切がしやすいのがネットで書くことの特徴ではないかと私は思います。

おかずが増えがちなネット文体

ただ、ネットで書く場合、そうした行為で分量が増えたり、見た目が散漫になりやすいということもあります。図や写真が入れやすいのはいいのですが、わかりやすさにつながっていない場合もあります。

紙媒体だと、説明を全部言葉でやらないといけない場合もあって、それが言葉を洗練させ、表現をシャープにするのに役立っています。まあ、ネットで書いてもきちんと洗練している文章はたくさんあるのですが、大概は散漫な文章です。そして、そういう文章の方がネットという媒体にあっていることも多い。それは、読むときの体勢というか読む側のスタイルが本を読むときと違うからじゃないかとも思います。

例えば、この記事を書いたとき。

プロフェッショナルの番組サイトを挟んだり、そこで読んだインタビューを引用して、引用であることを示すようにしたり、映画のサイトを説明として入れたりしています。

これは、この後で、課題提出用に文章だけにまとめるのですが、A4一枚にギュッとまとめて、しかも、引用についても説明を書きながらになるので、ここで書いたものよりもかなり凝縮した内容になりました。

そういう密度が、紙媒体では必要になるような気がします。パッと見える範囲に書いてある情報量がネットと紙では違うのではないかと思うからです。

ネットは散漫でありながらも情報量が高いものを作れます。引用やサイト紹介などの文章以外のコンテンツを挟めるからです。

紙媒体は文章以外のコンテンツは挟みにくい。文字で勝負するしかありません。

その違いは大きい。

何で読むかでも文体は変わる

また、PC のブラウザで見るかスマホのアプリで見るかも、かなり読む側に影響します。

Kindleで読むか単行本で読むかでも変わるように思います。

それは、デジタルが人生の半ばすぎに入ってきたからかもしれません。デジタルネイティブはどうなんだろう。紙媒体の方が違和感あったりして。

単行本と文庫本で、1ページに入る文章量が変わるので、書き直すという作家もいますから、そういう見た目で受ける印象は読み手が考える以上に、心理的に大きく左右するのかもしれません。

作品の見せ方についても、一つの文がページをまたがることのないように、ページ・見開きの末文で改行するよう構成する(文庫化などで字数が変わるとそれに合わせて適宜改行位置を操作する)など、独特のルールを遵守している。デザイナーの血がそうさせるのだとも言われるが、それは読者がページを開いたときの第一印象まで、作家の主体的な制御下に置こうという試みといえる。

内容を考えたり、書き足したいことがあるというような書き直しではなく、与える印象が変わるから、改行がまたがらないようにとか意味がわかりません。

文体大事。でも気にすることなない

話はズレましたが、ケータイ小説が出てきたときに、独自の文体という話があって、改行が多くて1分が短い、会話が多いなど、独特の世界観を作るのに役立っていました。(出典

今、そこまで意識してネットで文章を書いているかどうかわかりませんが、明らかに違う文体が出てきているのではないか、それが紙媒体にも浸食しているのではないかという感じはあります。

とすると、やはり紙媒体で書くのと、ネットで書くのは記事の書き方も、こうした随筆を書くのも、文体が変わってきているのではないでしょうか。

いや、変えないと伝わりにくいのではないでしょうか。

SEOとか遷移率とかそういうことも含めて、文章の書き方もつかみが大事とか、タイトルと1行目の温度差が少ないようにとか、いろいろなテストをしてネットニュースができていることは最近、いろいろな方が語っています。

ネット上の文章特に広告やリリースでは、以前からそういう研究がなされているのですが、それをブログに応用しようとは個人的には思ってません。

ちょっと前の記事ですけど、こんな話ですよね。

だって、できないんだもん。

結局、自分が書きたいようにしか書けないレベルの書き手なのです。

どうしたもんかなあ。

そういう愚痴はおいておいて。

ネットで書く文章と紙媒体で書く文章は、文体の違いが出ざるを得ないというお話でした。







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