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創業者・藤井林右衛門が込めた想い。「不二家」誕生秘話

2023年で創業113年目となる不二家は、小さな洋菓子店から始まりました。初回のnoteとなる今回は、「不二家」という名前の由来や、その誕生秘話をお届けします。
「お菓子で世の中を幸せにしたい」。そう心に決めた、創業者の物語です。


二つとない存在「不二家」

「不二家」という屋号は、1910年(明治43年)、創業者・藤井林右衛門(ふじい りんえもん)が横浜・元町に小さな洋菓子店を開いたときに誕生したものです。自身の姓「藤井」と、日本一の山である富士山(不二山)にちなんで付けられたました。さらに「不二」には、「二つとない存在でありたい」という、25歳の林右衛門の強い願いが込められています。当時は洋菓子自体がまだ珍しい存在でしたが、林右衛門は日本でも人気が広がると信じてお店を始めます。

新関コレクション
明治創業期の不二家元町店。 右上に「FUJI-YA」の看板が見える。 ©新関コレクション

渡米、そして日本での新たな挑戦

毎日お菓子を作り、家族と一緒に店先に立ち、材料を買ったり配達したりする日々を送った林右衛門。しかし思うように売れない日々が続きます。そこで1912年(大正元年)、欧米の菓子事情に興味を持っていた林右衛門は、一大決心をして渡米。そこでは洋菓子が一流の場所でしゃれた店舗で売られていることを知ります。
 
林右衛門がアメリカから帰国したのち、不二家は新たな展開を迎えます。元町店にはモダンなキャッシュレジスターや、清潔なソーダファウンテンが備わった喫茶室を増設。外国人だけでなく日本人のお客さまも増え、1922年(大正11年)には横浜・伊勢佐木町に2号店がオープン。「シュークリーム」や林右衛門考案の「ショートケーキ」が名物に育ちました。

ソーダファウンテンのインテリアカウンター (戦前の銀座店)
ソーダファウンテンのインテリアカウンター (戦前の銀座店)

人々を魅了した、明治の青年の強い意志

良質な材料を使っていながら価格は手頃。「常によりよい製品、サービス」「お客あってのわれわれだ」。口下手だった林右衛門が珍しく言い切ってはばからないことでした。戦前戦後を通じて、クリスマスやひなまつりにケーキを売り込むセールを企画したり、店頭にペコちゃん人形を飾ったりと、常に新しいことに挑戦。日本中をときめかせるような事業を次々と展開していきました。
 
第二次世界大戦後、焼け残ったボイラーを利用して再建された沼津の工場。そこでは「ママの味」でおなじみの「ミルキー」が誕生します。ほかにも「ルック」や「ポップキャンディ」など個性あふれるお菓子が生まれ、昭和の子どもたちの楽しいおやつの時間を彩りました。

銀座の不二家の店舗(1958年頃)
銀座の不二家の店舗(1958年頃)

林右衛門が送り出した不二家のお菓子は、今でも家族の集まりやお祝いの場で楽しまれています。「二つとない存在でありたい」「洋菓子を日本に広めたい」「お菓子で世の中を幸せにしたい」という明治の青年の夢は、100年以上経った今も、不二家の中に息づいているのです。