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連載小説「遥か旅せよ」 第2回『迎えにきて』(白木 朋子)

 真っ赤なプラスチック製のイスに座ると、辛く酸っぱい香りが立ち上った。窓もドアも開け放たれた店内に、夜のチャイナタウンのぬるく湿った風が吹き込んでいた。
 隣席の若いカップルの前に素焼きの壺のような鍋が置かれ、ちょうど店員がその蓋を開けているところだった。カップルの女性が煮え立つ鍋に肉や野菜を入れる。この辛酸っぱさは彼らのスープから香っているらしかった。店員の細身の女性が伝票を持ってやってきて、無言の笑顔で私の顔を見る。この店の店員は厨房のスタッフも皆、この国で最もポピュラーとされるビールのロゴが入った黄色いポロシャツを着ていた。テーブルに置かれたメニューには日本語はもちろん、英語表記もない。観光客の多いレストランであればそれも望めたかもしれないけれど、私は滞在一日目にして観光向けとは程遠い小さな食堂を選んでいた。店員のお姉さんに、隣席の鍋の方を見て「あれと同じものを」と目配せしてみる。お姉さんはカップルの鍋を確かめて、伝票を書きながら何かを私に尋ねた。あいにく言葉は分からない。けれど、試しに「ビール」と答えてみると、お姉さんは小さく頷いて何かを叫びながら厨房へ向かった。間もなくして、お姉さんのポロシャツと同じビール瓶がグラスとともに私のテーブルに運ばれた。グラスには何故かたっぷりの氷が入っていた。

 国際空港に降り立ったのは、その日の午後二時過ぎだった。私は電車を乗り継いでホテルの最寄駅へと向かった。チャイナタウンの入り口近くに建つそのホテルは、予約サイトで見た「駅から徒歩五分の好立地!街ぶらにオススメ!治安の良さも私が保証します」という、見ず知らずの「私」が何やら保証してくれるレビューを鵜呑みにしたわけではないけれど、確かに立地は良いし、予算的にも私にちょうどいいクラスだった。
 地下鉄の駅の改札を出てエスカレーターを上ると、降り口で警備服を着た男性が金属探知機か何かの棒を手に立っていた。この街では数ヶ月前、観光客も多い寺院でテロ事件が起きている。不特定多数の人間が行き交う駅で、それも外国人と思しき人物に入念なセキュリティーチェックをするのは当然とも思い、私は少し緊張してエスカレーターを降りた。そして警備の男性の前へ歩み出て、ボストンバッグとリュックを床に置き、それぞれのファスナーを全開にした上で、駅の売店で買った水のペットボトルと辛そうなスナック菓子の入ったビニール袋を開いて彼に見せた。男性は一瞬驚いたような表情を見せた後、すぐに威厳を持った顔つきになり、私の持ち物に念入りに棒をかざした。そして、「行っていい」というように威厳を持って棒を振り、エスカレーターの降り口の方へ威厳を持って向き直った。何も物騒なものは持っていないのだから当然といえば当然だけれど、何事もなく解放されたことに私は安堵して、荷物を抱えて隅の方へ寄り、ボストンバッグとリュックの口を閉めた。リュックを背負おうとして体勢を変えた時、警備の男性が他の客を検査しているのが見えた。その検査は何というか、私の時とは比べものにならないほど簡素で、形式的に一応やってますという感じを隠す様子もなく、降りてくる客の持ち物に適当に棒を向けるだけだった。若い女性客に対しては、わざとミニスカートの裾に向かって棒を近づけて、女性の軽蔑するような表情を楽しんでいる向きさえあった。彼の威厳は一瞬にしてどこかへ消え去ったようだった。客も客で立ち止まる人などほとんどおらず、ましてや自ら荷物を開いて中身を見せている人など皆無だった。互いのおざなり感がおかしく、私はリュックをキュッと背負い直してホテルへ向かった。
 部屋で荷物を下ろし、冷房をつけてすぐにシャワーを浴びた。ほてった肌に冷水を当ててみる。はじめは気持ち良かったけれど、すぐに寒気がして慌ててお湯に切り替えた。真冬の東京から運ばれてきた私の身体は、すでにこの街の生ぬるさを心地良く感じ始めていた。

 夜のチャイナタウンは見るもの聞くもの全てがあざやかで、情報量の多さに圧倒された。街灯にはためく国旗や、赤や金に輝く中国語ののぼり、屋台を照らす電飾、店員同士が何かを言い合う声、立ち止まって自撮りをする女性たち、道路に置かれた扇風機のモーター音。存在する全てが溶け合うことなく生身のまま交じり合って、テレビをつけたままラジオを流しているような、落ち着かない気分だった。
 メインストリートを抜けて静かな小道に入ってもなお、屋台やレストランがぽつりぽつりと灯りをつけていた。表に数台のバイクが停まっている小さな食堂を見つけ、私はその開け放たれた入り口から中の様子を覗いた。蛍光灯が青白く照らす店内は客で溢れ、皆派手な色のイスを寄せ合って頬を上気させていた。黄色いポロシャツを着た店員が私を見つけ、入り口近くの真っ赤なプラスチックのイスをすっと引いた。

 グラスいっぱいの氷のおかげで、この暑さの中でもビールがぬるくならないのが良い。鍋が温まる前に運ばれてきたソムタムや何かの炒め物の辛さとよく合った。どちらも、読めないメニューから適当に指を差して注文した。隣席のカップルは食事を終え、互いの手を慎ましく握って何かを囁き合っていた。やがて私のテーブルにもキャベツや空芯菜、白菜、春雨、そして肉が運ばれてきた。見た目は豚肉のようだけれど、どこの部位なのか分からなかった。私は追加のビールを注文して、煮えたスープの香りを思いきり吸い込んだ。カップルの女性が私を見て柔らかく笑い、私も彼らに微笑み返した。

 意識はある、確かに。けれど目を開けることはできない。ひどい頭痛がして気分が悪かった。
 冷房の効いたホテルのベッドで、私は布団を抱きしめるようにして横たわっていた。カーテンの隙間から差し込んだ陽がまぶたの上からでも眩しい。私は布団をベッドの端に解放し、仰向けになって呼吸を整えた。昨日あの辛い鍋を食べたあと、いつどうやってこの部屋へ戻ってきたのか全く記憶がなかった。
 やっとの思いで起き上がり、半分眠ったままシャワーを浴びた。駅で買った水を飲もうと冷蔵庫を開けると、昨日の帰り道で立ち寄ったらしいセブンイレブンの袋が入っていた。何を買ったのか思い出せないまま、そっと中を確かめる。そこには全く見憶えのないパックのザクロジュースが入っていた。恐る恐る一口飲むと、それは私の身体が最も欲している味だった。
 どれくらい眠っていたのだろうと思い、この街に来てから携帯を全く見ていないことに気がついた。充電をしてホテルのフリーWi-Fiをオンにすると、携帯の表示が自動的に現地時間に切り替わった。間もなく午後一時になろうとしていた。アプリがポーンと光り、昨日の晩に届いていた弟の泰晴からのメッセージが表示された。

 ヤスハル:げんき?
 ヤスハル:しゃしんおくった
 ヤスハル:おくって
 ヤスハル:まちかいた

 文面には関係なく、携帯の画面を見ているだけで頭がぐわんぐわんに重たくなり、目が回ってきた。私はベッドに寝転がって返信を打った。

 はるか:ごめん。いま見た
 はるか:写真全然撮ってない
 ヤスハル:おはよう
 ヤスハル:えー
 ヤスハル:うまいもん見せろ
 はるか:あとで送るよ
 ヤスハル:なにたべるのきょう
 はるか:うーん決めてない
 ヤスハル:からい?
 はるか:辛いかもね
 はるか:昨日飲み過ぎたみたい
 ヤスハル:辛い?
 ヤスハル:つらい?
 はるか:まあね。でも大丈夫
 ヤスハル:すぐなおるのアル
 はるか:お前は怪しい外国人か
 ヤスハル:これしかない
 ヤスハル:むかいざけ
 はるか:はいはい
 ヤスハル:まじで
 はるか:やるかアホ

 Tシャツと短パンに着替えて帽子を被り、部屋を出た。ホテルの門の前に大きな野犬が寝そべっていて、起こさないように気をつけながらゆっくりと通り過ぎた。
 昼時のピークを過ぎたチャイナタウンは昨晩の喧騒を忘れるほど静かで、通りを歩く人やバイクさえも動きが緩慢に見えた。ザクロジュースで多少の息は吹き返したけれど、濃いめのコーヒーか冷たいものを口にしたかった。メインストリートを歩き出してじきにわりときれいそうな店を見つけ、私は帽子を脱いで中へ入った。
 中央に大きな扇風機が回り、数人のグループが昼食を食べていた。店員の姿はない。勝手に座っていいのか迷っていると、厨房から化粧の派手な恰幅の良い中年女性が出てきた。私が「一人」と指で示すと、女性は空いているテーブルに私を促し、大きなお尻を左右に振って厨房へ戻っていった。テーブルにメニューはない。他のテーブルをよく見てみると、皆同じような平皿で、同じようなものを食べている。それぞれのテーブルにはカラフルなプラスチック製のボウルがあり、客たちはその中から何かを掬ってぱらぱらと皿に振りかけていた。タイ米に、蒸し鶏とパクチー。そうか、ここは、と気づいた時、厨房から先ほどの女性が出てきて、品良く盛り付けられた皿と、真ピンクのボウルを私のテーブルにトンと置いた。それはやっぱりカオマンガイだった。ボウルには刻んだ生姜と青唐辛子がこんもりと入っていた。私の少しあとに入ってきた若い男性の二人連れにもすぐに皿とボウルが届けられた。この食堂では、座れば自動的に人数分のカオマンガイが運ばれてくるシステムのようだった。
 店員の女性に何かを訊かれ、私は迷いなく答えた。
「ビールを」
 氷の入ったグラスに冷えたビールを注ぎ、泡の落ち着くのを待って一気にそれを飲み干した。ホテルを出た時は全く食欲がなく、まだ眠っているような感覚でこの店に入ったはずなのに、いまは不思議と身体が軽くなり、頭痛も消え、見えるもの全てが極彩色に煌めき、強烈な空腹を感じていた。すぐなおるのアル。私は泰晴の助言に素直に従った。そしてそれは正しかった。私は一気にひと瓶を飲み終えて、追加のビールを注文した。この国のビールは色も味も淡白だけれど、どこか情が厚く、グラスが空になる前に必ずやってくる。お迎えに参りました、いや帰り道は分からないんですよ、はあ、昨日の記憶もないくらいで、でもこの通り参りましたのでどうぞご安心なさって、ささ、もう一杯もう一杯。
 グラスをゆっくり傾けて回すと、ビールの中の氷がカラコロと鳴った。私を迎えに行けるのは一人しかいない。私は私を迎えに行く。帰り方のあてはない。憶えていた方がいいことなんていまの私にあるだろうか。
 カオマンガイを半分ほど食べて、私は店員の女性を呼んだ。次のビールを頼もうとすると、女性は壁の時計を指差し、手でバツを作った。どうやらこの街には店で酒を提供できる時間が限られているらしかった。私は何本目かのビールを諦め、生姜と唐辛子のトッピングを足して大きく頬張った。この街で二回目に食べた食事もやっぱりとても辛かった。最後のひとくちを終えて残りのビールを飲み干した時、私は食べる前に写真を撮り忘れたことにようやく気がついた。


                         (第3回へつづく)

*しらき ともこ
東京都在住。洋食レストランと映画館に勤務。今は毎日がにちようび。

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