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怒りをタイミングよく表現することの難しさ

この数年関わっているお仕事相手で、ひどいハラスメントをしてくる人がいる。

大好きな先輩からのアドバイスを元に、今まで私ができる対処は全部してきたんだけども、ガチガチになって硬化してしまった相手の世界観はどんなアプローチを使っても変えられない。
それを痛いほど実感するできごとが最近起きて、いま私の身体には怒りの炎が渦巻いている。

そんな話を先輩にしたところ、発生した怒りを表に出すタイミングが遅すぎるのだという指摘を受けてハッとした。

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私は小学校低学年まではすごく短気で、怒りのエネルギーをもてあましていた。学校で気に食わない事があると、机や椅子をぶん投げたり、教室から飛び出していくような利かん気の強い子どもだった。

怒りの感情をもつこと自体は悪いことではない。要は暴発する前に発散していけばよいのだ。ただそのスキルは非常に高度な技術だ。良い指導者のもとで、時間をかけて訓練していく必要がある。

けれども私の場合は、そうした機会に恵まれなかった。怒りを抱いて癇癪を起こすたびに、母や教師に何度も何度も繰り返し捩じ伏せられた。特に母からは木刀で尻を張られるなどの暴力による折檻を受けた記憶があって、そのトラウマには長いこと苦しめられている。

そうして他者に怒りを抱くことは悪いことだと強く叱られ続けた私は、小学校高学年になる頃には怒りを無理に飲み込む努力をするようになった。
けれども心穏やかなままで生きるということは、人間が社会的な生物である以上は無理な話だ。あなたが出会う他者は、あなたとは違う方向から世界を見て、異なる価値観で行動している。

他者に対して適切に怒りを表明する訓練ができなかった私は、怒りを飲み込んで自己否定をすることで世界と折り合いをつけた。これは生まれもったバーサーカーのごとき気質とは真逆のアプローチで、誰にとっても不幸なことだった。

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限界まで怒りを飲み込むようになると、そのエネルギーは自分自身にも把握できない場面で爆発する。同級生たちは「普段はオドオドしているくせに、よくわからないタイミングで猛烈に怒り出す訳のわからない奴」という評を私に下した。

そういった周囲から向けられる奇異の目は、私に怒りを他者に表明することを試みることをすっかり諦めさせた。行き場を失った怒りはの行く先は自分自身だった。
中学生になる頃には他者から酷い仕打ちを受けても抗議することができなくなり、代わりに理不尽な要求に無理を押してでも応えようとする習慣が身についてしまった。

もちろん私はスーパーヒューマンではないので、周囲からの期待に十全に応えられない事の方が多かった。
置かれた環境に適応できない自分に苛立った私は、その怒りを自分自身を身体的にも精神的にも罰することで発散するようになった。

この「トラブルの原因は私のせい、私の能力が至らないのが悪い」というマインドセットからは、今も完全には抜け出せていない。
この手の習慣は、無用のハラスメントを引き寄せてしまう。おかげで仕事相手との関係を対等に構築するということが不得手になり、心身に支障をきたすようになった。まったく悔しいことだ。

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怒りを無理に抑えつけることは、身体と心にとって酷い悪影響をもたらす。けれども日本社会は、子どもが怒りを露わにすることに対して厳しい。

感情をコントロールできないことは恥ずべきことだと叩き込まれた子どもは、大人になってからもその呪縛から逃れられない。生きていくする上で理不尽なハラスメントに遭遇したとき、自分の怒りを飲み込んでしまう。

どうやって、いつ怒りを表現すれば良いのかわからない人間は、そのエネルギーを限界まで溜め込んで暴発させる様になる。私がそうだ。

この暴発のベクトルが自分に向かう人は自罰的になり、自分より(多くの場合は)弱い立場の他者に向かう人は他罰的で攻撃的になる。どちらもとても不幸な現象だ。

他者と生きていくなかで発生する怒りを、適切なタイミングで表明する技術は一人では習得できない。ここで頼りになるのは、異なる価値観をもって物事を捉えている他者だ。

一人で悩まず、信頼できる、尊敬に値する相手(年の離れた友人、他の業界で働く先達、一緒に暮らしているパートナーなど)と怒りを分かち合うこと。
そしてその誰かが苦しみに直面したときには、できる範囲で支え、あなたは孤独ではないのだと伝えること。


そういうゆるやかなケアの応酬が、ハラスメントに対抗できる社会の実現に繋がっていくのだと思う。

#文化人類学 #ハラスメント #感情 #教育 #ケア

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