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悪意という概念を解体しよう

前の記事で、相手に悪意・悪気がないことを理由にハラスメントを許容する必要は全くないという主旨のテキストを書いた。
そこでふと気になったのが、異なる言語圏では悪意という概念をどう表現するのだろうという問題だ。

日本語における悪意・悪気の意味は、以下の様に定義されている。


goo辞書悪意/悪気/意趣

[使い分け]
【1】「悪意」「悪気」は、人に害を与えようとしたり、だまそうとしたりする気持ちをいう。
【2】「意趣」は、自分をひどい目にあわせた人を恨む心をいう。「意趣返し(=仕返し)」
【3】「悪意」は、「悪意に解釈する」のように、よくない意味、意地悪な見方という意でも用いる。


この【3】で説明されているように、日本語圏で悪意や悪気という表現を使うと、その行為が解釈者のもつ倫理観に基づいた偏った見方だという印象を与えやすい。
けれどもハラスメントについて言えば、こうした解釈は問題の核心を曖昧にしてしまう。

そこでプロの翻訳者も愛用している(らしい)検索エンジン・英辞郎を使って、英語圏では悪意をどう表現するのか調べてみた。


英辞郎アプリ版>悪意ある

形容詞の英訳だけではピンと来ないので、より具体的な「悪気はない」で検索してみる

こちらは用例に即した表現なので、より理解しやすい。
日本語の表現に対して、英語のそれは主体による他者を害そうとする意図に力点が置かれている。

日本語の特性として、言外に含まれた情報(ニュアンス)が極端に豊かな高文脈文化だという点が挙げられる。いわゆるハイコンテクストランゲージだ。


高・低文脈文化-Wikipediaより引用

高文脈文化はより抽象的な表現での会話が可能であるが受け手の誤解などによる情報伝達の齟齬も生じうる。他方、低文脈文化では具象的な表現を行い、会話の文中に全ての情報が入っているため、行間を読む必要もなく、受け手は理解できる。

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まとめると、日本語による会話では発話者とその聞き手との間で共通の価値観・行動原理が共有されていること。そして直接的な言及を避けた内容を相手が正確に読みとってくれることが期待されている、ということだ。

前記事でとりあげた「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」という教訓と、その刷り込みによる行動選択の自縛も、こうした高文脈文化の産物である。

この教訓が唱えられるとき、発話者の脳内では「他人は私と同じ倫理観を共有しており、なおかつ積極的に悪意ある行動をとることは無い」という無自覚な思考が生じている。
ここで言う「悪意ある行動」には、具体的な事例が想定されている訳では無い。

このマガジンで扱う、日常生活における他者の人格を攻撃・抑圧するハラスメントは、往々にして「意地悪」なる可愛らしい表現でザックリとまとめられてしまうのだ。

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冒頭で紹介した、日本語辞典による悪意の定義を思い出してほしい。

ハラスメントの被害者が第三者からしばしば受ける「それはあなたの偏った解釈にすぎない(から相手を許してあげなさい)」というセカンドハラスメントの背景には、日本語の高文脈文化という特性があると考えられる。

しかし!ここで和英辞典における「悪意のない」を意味する表現思い出してほしい。悪意がないとは、相手を精神的・身体的に攻撃する意図が無い行動を形容することばの筈だ。

前記事で主張した通り、ハラスメントの加害者がどこまで自らの攻撃性について自覚的であるかは問題ではない。
被害者が心身に負担を感じた時点で、それは悪意のある行動であり、他者を踏みつける許しがたい行為なのだ。

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この日本社会で出会う「意地悪な」他者によるハラスメントについて、第三者に解釈を委ねてはならない。
その第三者は、あなたや加害者が自分とは異なる価値観を有していることに無自覚である可能性が高い。

日常生活においては、あなたが信頼を寄せる相手と、痛みや苦しみを分かち合えないこともあることを理解する。それがこの世界をサバイヴする上では必要なのだと思う。

#文化人類学 #ハラスメント #感情 #教育 #コミュニケーション #ハイコンテクストランゲージ

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