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記号論の効果についての日本語での会話(前篇) 対談 / リエージュ大学FNRS上席研究員セミール・バディール、イタリア・トリノ大学教授、人間・環境学研究科 客員教授マッシモ・レオーネ  訳者 / 入江風子

セミール・バディール&マッシモ・レオーネ 対談

セミール・バディール:
親愛なるマッシモ、
入江風子さんが記号論者の文章を日本語に翻訳したいらしい。彼女はあまりこれまで記号論に興味がなかった人にも読んでもらえるようなテキストを書くようにと言うんだ。だけど、あぁ、僕はその分野にはあまり明るくはない。そしてその後アイディアとして浮かんできたのが君との対談で、記号論に関する素朴な真実を明るみに出すというものだったんだ。どう思うかな?もし乗り気だったら、会話の口火として大学関係以外の人が記号論とは何かと聞いてきたらどう答えるのか教えてくれないだろうか。どう抜け出しているんだい?

マッシモ・レオーネ:
親愛なるセミール、
この日本語での会話を始めるのは何という喜びだろうか!
良く、「記号論とは何ですか?」と聞かれるんだ。寧ろ「それはどう言う仕事なんですか?」ともしばしば聞かれる。何かしらの困惑を抱えるよね。何故かというと理解してもらい難いことをしているのだから。2つの質問には場合によって違った答え方をしている。:僕は卑怯な奴なんだろう。または単純にひとつの答えで全ての状況に応じられる定義を持ち続けることが面倒なだけかもしれない。良く使う答えは以下の通り。「言語の哲学の一部」「意味とコミュニケーションを勉強する科学」「記号の哲学。ウンベルト・エーコは知ってる?」「記号の哲学。ダン・ブラウンは読んだ?」(絶望の返答)「嘘をつく為に使われるかもしれないこと全てを勉強する研究分野」。僕の学生に良く使う答えは「代案を勉強する研究分野」、けれど僕の心の奥にある定義は、「勉強する人が普通の人生を送ることを妨げる研究分野」。。。

バディール :
あぁ、君の困惑が良く理解できる!僕も良く使われる返答を試してみたのだけれど、誤解を招き易い。何故なら言語、意味、そしてコミュニケーションや記号は共通の対象を代表している訳ではないから。僕の対話者が提案してくるものは例えば日常的に研究している対象と全く異なっているから、僕が理解していない点があることを認めなければならない。経験豊かな研究者であってもね。まだ試していないんだけれど、最近こう言ってみるのはどうかと考えたんだ。記号論者はなんでも対象を一つの言語として捉えるというものなんだけれど...多分最悪だろう。尊敬するよ、僕が次の本で擁護しているものよりも君の生徒に向かって使っている定義の方が真理に近いと思う。僕は、記号論は知識を得ることの練習で対象は他者性だと思っているんだ。君は僕のように、一言、その代案的な一言あるいは他者性、対義語の関係性などを捉えようとしている気がしている。創造(代案)として、または変化(他者性)として。他にもとても抽象的な定義はあるが、意味のつかめない危険がある。まだ手を着けていない分野だからね。最終的に言うと、君が信条として使っている定義にはあまり納得がいかない。普通の人生とはなんだろうか?何故記号論はそれを邪魔してしまうのだろうか。あまり説明したくはないようだけれど?

レオーネ :
親愛なるセミール、そして風子、
なんだかこのヴァーチャルな僕たちの会議にワクワクして夢中にすらなってきたよ。こうやってテキストを介して、しかも日本語でメッセージを交換できるなんて、とても魅力的な構図じゃないか。更に言えば、日本語や日本文化はそれが指でかすめるものを更にエレガントなものにすると言った世界的使命を持っているかのようにも思える。例えば日本語で「スプレッツァトゥーラ」の対訳があるのかどうか気になるね。特にルネッサンスの審美学で、努力していることを周りには見せずに何が何でも実現すること — 困難であればあるほど — 、の意味を持っていた言葉なんだ。スプレッツァトゥーラがより示されている美学と言えば、ダンスだね。特にクラシック・バレエ。それに対して記号論はしばしばエレガンスや書き方のスタイルが足りない。更に言えば特にインヴェンティオ(修辞技法のひとつ)やテーマの位置の決定や思考の展開が足りない。ロラン・バルトはその良いアンチ・テーゼだ。気高い優美さはそのメディア・インタビューにも見て取れる: 言い方、話し方、声の抑揚の付け方、ジェスチャー、そして何と言ってもエレガントな哲学への興味は思考から流れ出るようだ。このスプレッツァトゥーラは、苦心を引き裂くものであろう。「恋愛のディスクール・断章」で細かく分析した後に、どうやって誰かを愛せると言うのだろう。その翼を修辞学の方法にしてしまった後、どうやって神秘的な推進力を感じ取れると言うのだろう。実存する記号論者で普通の人生を送ることができると言うのだろう。意味を解釈するのが職業習癖を持っている僕たちが、だ。その皮肉で知られる巨匠、ウンベルト・エーコは、 悲劇的な解釈から逃げる習性があり得意でもあった。その結果、婦人科医ですら恋に落ちると考えた。これは大概なほら話だけれど、与られる安堵感は視覚的イリュージョンの賜物だね。整備士だって車に夢中になれるし、自分の運転席に座って運転している時はその車を猛スピードで回す歯車装置のことだって忘れることができる。だけど、僕たち、記号論者はどうやって言語を忘れたらいいのだろうか。どうやったら僕たちの周りにある全ての意味が慣例の結果であったり、詐欺の一部であると言うことを忘れることができようか。僕は記号論に完全に専念すると言うのは、母国語を忘れて、母国語の自然さを忘れ、自然との関係性や動物性について精密に考え過ぎる(あぁ、何て素晴らしいフランス語の単語なんだろう)ことな気がするんだ。その所為で、記号論は大抵感じが悪い学問なんだ。英語では「パーティ用クラッカー」、イタリア語では「場を白けさせる人」、えぇとフランス語ではなんだっけ…あぁ、人の歓喜を奪ってしまう人。僕らは、「幻滅させる人達」なんだ。初めて人に会う時に、「はじめまして」とフランス語では「魔法にかけられた」と言う意味なんだけれど、それとは反対の意味の「幻滅させられた」を使わなければならないね。誰も本当は僕たちのことなんか愛していない。特に今は日常的な人間関係性において。もしかして僕たちのカンファレンスの一つを拍手で讃えてくれるかもしれない、占い師が拍手で讃えてくれるかもしれないようにね。ほら、僕たちも占い師のようなものさ、誰が言葉の予見者となんか友達になりたいと言うんだろう。だから僕たちは僕たち仲間同士の中で生きることが強いられているんだよ、セミール。セクトになる為にね。考え過ぎかな?もしかして。

後篇につづく。。。

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