見出し画像

自然神との対話の足跡⑨

女王卑弥呼はどこにいたのか

邪馬台国の所在地論争では、これまで「畿内説」と「九州説」で対立していましたが、新たに「阿波説」が邪馬台国の所在地論争に名乗りを上げています。そのきっかけになったのは、先日散策して「自然神との対話の足跡④」にまとめた通り、卑弥呼が中国王朝に献上したとされる鉱物(辰砂)の採掘場所だった「若杉山辰砂採掘遺跡」が、2019年10月16日に国史跡に指定されたことでした。

「淡海の大津宮」は「近江の国」だったか

万葉集では柿本人麻呂(660年頃生、720年頃没)や高市連黒(702年作歌)が近江あるいは淡海を歌い始めました。新古今和歌集で藤原家隆が「鳰の海:におのうみ」と歌いました。
① 万葉集 巻2-153番 大后の御歌一首、鯨魚取り 淡海の海を‥
② 万葉集 巻3-266番 柿本朝臣人麿の歌一首、淡海の海 夕波千鳥‥
③新古今和歌集389 藤原家隆の歌一首、
 鳰(にほ)の海や 月の光のうつろへば 波の花にも秋は見えけり

712年完成の古事記には、近江は「近淡海:ちかつあはうみ」「淡海:あはうみ」と記されていますが、淡海の海や大津宮が「近江の国」であったと特定するのは、もしかしたら勇み足かもしれません。
天智天皇が667年に「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」と初めて定めており、天智天皇(第38代、626~671年)が「淡海の大津宮」を拓いた当時、「近江の大津」は存在していなかったからです。

「淡海の大津宮」は阿波にあった可能性

456年から479年まで在位した雄略天皇の皇居である泊瀬朝倉宮は、鳴門市撫養町木津にある長谷寺あったとする説があります。雄略天皇は日本書紀では大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)とも呼ばれ長谷朝倉宮を定めたとされており、寺の名称である長谷(ちょうこく=はせ)は泊瀬(はせ)というお名前に由来していると見られています。

第21代雄略天皇(大泊瀬幼武)が居られた長谷(はせ)の朝倉宮:by 高岡光男氏動画(→画像クリック)

天智天皇の皇居であった淡海大津宮は泊瀬朝倉宮のすぐ隣、古津神浦の金比羅神社にあったと言われています。

淡海大津宮と近江大津宮との位置および歴史関係:by 高岡光男氏動画(→画像クリック)

金比羅神社は、国津神である大物主神(おおものぬしのかみ)の垂迹(すいじやく)として金毘羅大権現を祀っており、海上の守護神として広く信仰されています。金比羅神社の裏山は、頂に至るまでに雑木林に覆われた平らな場所は各所にありました(短い時間では古墳などを特定することはできませんでした)。

撫養港は、新都(大和、難波、京など)から淡路島を経て阿波に入る玄関口でしたが江戸時代以前は、上記金比羅神社および長谷寺がある撫養町木津が撫養街道の起点の場所(撫養港)でした。

卑弥呼に関わる古墳の存在が「淡海の大津宮」を決める

7世紀の大化の改新で国・郡・里の制度が整えられたころ、現在の鳴門市域は阿波国板野郡に属し、阿波国板野郡は讃岐国と接していました。国の境となる阿讃の山が、黒埼の山(金光山)から始まり、木津の山、大代の山、大谷の山、大麻の山と続いています。大麻・大谷・大津の山麓には日本最古の前方後円墳が確認されています(次の動画参照)ので、木津の山麓にもおそらく古墳が眠っていると思われます。また、大津大代古墳の埋葬主体が誰であるかも特定できる可能性があります。

出土している墓が、動画の中でも卑弥呼に繋がる発見を伴なう可能性に言及していますが、卑弥呼に関わる古墳の存在が「淡海の大津宮」を証明する決め手となると考えます(一ヶ月前の直感「自然神との対話の足跡③」が次第に確信に近づいています)。



人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……