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理解できないものを排除する度に、ひとつずつ自分が不自由になっていく

人にはだれでも好きなものがあるし、反対にその価値が理解できないものもある。

自分が理解できないものがやたらと褒めそやされていると、無関心ではいられないのが人の性なのかもしれない。

「あんなののどこがいいのかさっぱり分からない」
「どうせ流行り物だろ」
「にわかが騒いでいるだけ」

最初は文字通り無関心であった状態から、次第に無関心を装った排斥、最後には明確な排除を示すようになる人も出てくる。

それは自分が理解できないものを低俗だと判断し、それを理解できないとすることで自信の相対的な価値を向上させたいという思いからかもしれない。

あるいは自分の理解が追いつかないものが、世間で受け入れられていることに対するある種の嫉妬や寂しさなのかもしれない。

だが、いま理解できないものが今後も理解できないままである確証はない。ひょんなきっかけでこれまで理解できなかったものの価値を感じた時、その人は果たして素直にそれを認めることができるだろうか。

流行りものを理解できないと退けた人は、その後も流行りものを好きにはなれない。

にわかを笑った人は、もう何かのにわかになって熱中することはできない。

「理解できないから」という理由で何かを簡単に排除していくことは、ひとつずつ自分を不自由にする呪いを自分にかけてしまっていると思う。

ぼくが尊敬する経営者がかつてこんなことを言っていた。

うちは基本的にセールはやらないが、『セールをやらない』と外には名言はしていない。確かにそういう打ち出しをすると短期的にブランドの地位は高まるかもしれないが、長い年月のなかではいろんなことが起こる。セールに頼らないといけない時がくるかもしれない。みすみす自分から未来の選択肢を1つ捨てる必要はない。

自分に呪いをかけるのはやめて、可能性というカードを1枚でも多く未来に残しておきたい。

今日の1枚

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発した言葉は必ず自分に返ってきて、自分の血肉になる。呪いの言葉を使わないように気を付けたい。使ったカメラはCONTAX T3、フィルムは不明。

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