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心の処方箋について②(『どんなときも。』)

人は病気になると薬を服用する。
心の病は厄介だから、その前に薬が必要だ。
前回に引き続き心に効く薬を紹介しよう。
心が弱った時、弱っているなぁと感じる時、
私はいつも二つの「うた」を処方する。
先週は詩。茨城のり子さんの『自分の感受性くらい』を紹介した。
今週は歌。第二段として槇原敬之さんの名曲『どんなときも。』を紹介したい。
この歌を聴くと本当に効くんだ(本人調べ)

発表されたのは1991年。
ソビエトが崩壊し、ウクライナが独立した年だ。
そのウクライナが現在ロシアに・・・。
この件は、また別の時に。

さて『どんなときも。』は社会人になって、ひとりカラオケの時に必ず歌った。
私がひとりカラオケに行く時は、もう精神的に限界に近い時だった。
歌う事によってストレスを発散し、そしてシメにはどんなきも「どんなときも。」。
自分を取り戻す為の処方箋。

どんなときもどんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち抱きしめてたい

根底がブレない限り大丈夫、勝手に解釈し辛い事を我慢するための薬だった。
ところが、数年経つと二番の歌詞がじわじわ重く圧し掛かるようになった。

もしも他の誰かを知らずに傷つけても
絶対ゆずれない夢が僕にはあるよ

「ゆずれない夢」
私にもあった。
社会人になり数年経ち責任が増える度に夢から遠ざかっていくような気がしていた。
まだ青二才であるが故それは恐ろしくなり、ある日の『どんなときも。』は薬どころか会社を辞める決断のトリガーになった。
そんな事は横に置いといて(置くんかいっ!)
今なぜ『どんなときも。』なのか?
それは昨今の風潮に嘆いているからだ。

「好きなものは好き!」と言えるきもち

は、「嫌いなものは嫌い!」という事と同義ではない。
先日も、あの店もこの店も味が不味いと発信して炎上している人が居た。
ドラマでは物語の展開が気に入らないと反省会のタグが並ぶ。
あくまでも個人の感想だし、確かにこれはお粗末と共感する部分もあるけど、そういった発言は間違いなく誰かを傷つけている。

もしも他の誰かを知らずに傷つけても絶対ゆずれない夢が僕にはあるよ

誹謗中傷をする事が、貴方のゆずれない夢ですか?
何でも垂れ流せるSNSが悪だとは思わないが、そんな事で承認欲求を満たしたいですか?
自己主張という言葉を履き違えてはいけない。
私は誰かを説教できるほど聖人ではないが、嫌いなものではなく、好きなものを言い合い、互いを認めれば争いは起きない。と、思うんだ。
綺麗ごとだろうか?
もしストレスを抱え過ぎてヘイト発言を繰り返しているのならば、
『どんなときも。』を聴いてみて。
押し売りはしたくないけど、聴いてほしいな。
そして歌詞を噛みしめてほしいな。
見てわかるように『どんなときも。』はタイトルに句点が付いているのがポイント。
新たな一歩を踏み出す為に、とりあえず句点を付けて嫌な自分を終わらせようよ。
私こそ今あらためて『どんなときも。』という処方箋が、
また必要なのかもしれないけど。

台湾は台北の落ちてゆく夕陽。トップの画像は、沖縄・玉城城の夏至の朝陽


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