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高山君の一撃 今もきえない葛藤の正体

今もふとした瞬間にもたげる葛藤は、さかのぼると12、13歳の頃から始まっていて、多感の頃に経験したことは一生ついて回るのだなぁと思う。私が内省を好むのも、葛藤を常に抱えているからだろう。



小学校を卒業する直前、高山君にふられた。

高山君はところどころに美意識を感じさせる感性が豊かな子で、ととのった顔に身長は高く、運動神経も抜群で、平民にまぎれて一人だけ貴族のような存在だった。

彼が小2の誕生日会に群青色のおはじきのようなガラス玉をくれてから、一途に思い続けた。

いっときは、高山君はいくちゃんが好きなんだよと言われて、嬉しくて嬉しくて、スキップして帰った。


しかし、卒業前の最後のやりとりは、、、

「○✖️△!✖️✖️○!△」

具体的な言葉は覚えていない。

黙って受け取っておけよ、ボケ!

そういう言葉を投げつけられ、関係ないでしょ、って言い返した。それが最後だ。

ことの発端は進学先のアンケートだった。

「進学する中学校のアンケートを配ります。N中学校とS中学校のどちらかを書いてください。」と先生が言って、手を挙げて、「私立に行くんでその用紙はいりません」と言ったところ、同じ班だった高山君が怒鳴った。

その頃、私立に行く子もほぼいない牧歌的な学校で、神奈川随一の偏差値の学校に受かった私は鼻高々だった。

誰もが、頑張ったね!おめでとう!とちやほやした。万能感でいっぱいで、卒業文集に「万事を尽くして天命を待つ」なんて書いていた。

あの頃の私を怒鳴る大人はいなかった。それだけに、高山君が不愉快感をぶつけてきたとき、初体験のようにびっくりした。そんなことがあるんだと。そして、よりによって高山君に。

盤石だと疑わなかった地面にヒビが入った。

そして、ふと我に帰った。

両思いだとわかってスキップした時や、しゃべれるだけでドキドキしていた時が遠くに感じられる。受験のあわただしい時期を経て、正直関心を失っていた。

受験を終えて、普通の日常が戻ってきたのに、両思いの頃は戻らない。それどころか、嫌われた。そしてなによりも私が変わってしまった。胸がどきりとした。

それから一年後。進学した中学校で、校舎から吊るされている、来年度入学してくる合格者番号一覧をみながら、むなしくなっていた。

合格したとき、母と抱き合って喜んだ場所だった。

「得た分、確かに失ったのだ」

議論の余地もないくらい、圧倒的にほんとうのこと、という感じがした。

高山君に怒鳴られてうっすらヒビが入ったとすれば、この時点で、見てみないふりができないくらいヒビは濃くなった。


失ったのは、とりとめもない時間だった。

空想好きでぼぉーとした子どもが、受験をして目標を持ったとき、時間の感覚が変わった。

前は、毎日はただぼんやり過ぎていった。朝起きたら夏は朝顔の様子をみて、冬は庭のしもを踏んだ。季節ごとに飛び出すカードをつくって時間をつぶした。

学校にいけば高山君のそばにいけたら嬉しくて、中休みは友だちと演劇ごっこをして、夕方は花いちもんめ。

昨日と今日と明日が繋がっているという感覚すらなかった。

思えば、色々な問題が子どもの私にも降りかかってきて、別に、楽園、ではなかったけれど、すくなくても私は空気に包まれていて、お友達とは未分化でこちゃこちゃひっついていて、何かを考えるということもなく、ただ、そこにいて今を生きるだけだった。

しかし、受験によって、毎日やるべきことができた。目標を持って、厳しく自分を律してこなせたらクリアできた。良くなっていくという感覚を知った。時間は無駄にしてはいけないものになった。

それに、頑張ることがあると、周りは応援してくれて、家族や塾の中で私は主人公になり、一体感すら生まれて、余計に誇らしかった。

そういう時間の密度を体験すると、友達と遊ぶことも、大好きな高山君のことも、朝顔を見ることも、中休みに遊ぶことも、全部だんだんどうでも良くなっていった。


こうして、私は目標を達成し、同時に、とりとめもない時間を失ったのだ。

確かに目標を達成して未来への道筋がついた、のかもしれない。しかし、合格した喜びはしばらくすると消えて行った。

逆に、失った時間は、特に意味はないかもしれないが、あの時、あの場所でしか体験できない、固有の宝物であった気がした。

人の手触り、場所のにおい、揺れ動く気持ち、そういう生生しく美しいものがつまっていて、もう一回味わうことは二度とできない。

合格した先の学校でプライドも高くなっているくせに失ったものの質に気づき、今後どうすればいいのか、わからなくなった。

それからは、目標を持つことや頑張ることがいやになった。達成して得てしまったら何かを失うのだ、と思ったら呪縛のようだった。

必ず失うなら本当に欲しいもの以外はいらない。でも本当に手に入れたいものはまだわからない。

ただよっていたかった。何に対しても気力が湧かなかった。何も決めたくなかった。

合格者掲示板の前で気づいた「得れば失う」という直感を、うまく消化できないまま、長い間、ふてくされていた。

直線的時間とらせん階段的時間、という二つの時間の捉え方について聞いたことがある。

直線的時間は、時間は前に向かって進み、人間が進歩していくことを前提としている。一方で、らせん階段的それは、階段を登ったり降りたりするけれど、ずっと同じ場所にいる、というイメージなのだそうだ。

私はらせん階段的に時間を生きていて、中学受験によって、ばこんっと直線的時間が流れ込んできて、その魅力にすっかりやられているうちに、私の中の時間感覚が変わってしまったことで、喪失感やよるべのなさを抱えてしまったのかもしれない。

この二つの拮抗する時間感覚の話は、子どもと大人や、途上国と先進国など、いろいろな文脈で語られていく、哲学的にも文化的にも掘り下げられる深い話だ。

そんな普遍的な問いに幼い私はつかまってしまったのだろう。

今でもなお、私の中には、校舎の前で一人、たちすくんでいる13歳がいる。寒空に紺色のセーラー服で立っていたのはほんの数分だったのに、何年たっても忘れない。

そして、当時は受けとめきれなかった後悔を胸に、次こそは後悔したくない、とじぃっと自分自身を観察している。

だから、前に進みたい、とか、達成したい、といった欲望を持つたびに葛藤もかかえてしまう。

なぜなら13歳が、得ようとするほど失うんだよ、ちゃんと気づいている?、今を味わえているの?といちいち聞いてくるからだ。なかなか厳しいやつなのだ。

仕方がなく、この内側の人に耳を傾けながらやっていくほかない。欲望を内省する。素因数分解する。ほんとに欲しいものは何?と。そんなことに意味があるのかはわからないけど、きっと、大好きだった高山君にああやってふられたことに今も私は傷ついているのだ。

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