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読書めも 東浩紀著『訂正する力』

私の読書メモを元にしてまとめてみました。実際に書かれている内容と異なる箇所があるかもしれませんが、面白そうだと思われましたら、本書を読んでみてください。

訂正する力とは

現在の日本は、政治的にも経済的にも行き詰まっています。大きな改革が必要だと叫ばれていますが、日本にいま必要なのは「訂正する力」です。

それは、トップダウンではなく、一人一人の努力が必要となります。柔軟な思想を持ち、一貫性を維持しながら変わっていくことが「訂正する力」です。言い換えると、継続する力であり、老いる力でもあります。

日本社会では、常に変わらない一貫性が求められ、過去の言動と異なっていると「ぶれている」と批判を受けます。また、現体制を破棄し、新しくリセットすべきだという人たちからは保守的だと非難を受けます。

訂正する力は「自分はこれでいく」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力でもあります。「読み替える力」です。しかし、現実から目を逸らすために使ってはいけません。現実を「再解釈」するために使うべきなのです。

ゲームのルール

訂正するためには、「ぶれない」と「リセット」のバランスを取る必要があります。世界のゲームのルールはどんどん変わっていきます。それでも「同じゲーム」として「同じプレイヤー」としてまとめ上げる、それによってゲームの一貫性が生み出されます。

しかし、プレイヤー自身は自分がどんなゲームをプレイしているかわかりません。従って、一貫性を保証できるのは、ゲームに参加していない第三者しかいません。ルールが書き変わるためには「観客」が必要なのです。

観客は、クレーマーとしてゲームの中に参加してきます。クレーマーはゲームの進行を止めてしまう場合もあり、追い出すという手段もありますが、同時にクレーマーの出現を受け入れてルールを訂正するという方法もあります。そして、その2つは両立可能です。

リセットの歴史

リセットの試みは、歴史的に見て失敗に終わります。

フランス革命の共和政はあっという間に崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経た上で王政が戻ってしまいました。ロシア革命で成立した共産主義体勢は崩壊し、プーチンの支配はかつてのロシア帝国のツァーリを連想させます。

従って、リセットではなく改良です。望ましいのは「じつは‥‥‥だった」の訂正の理論によって一貫性を再発見させることです。

明治維新の訂正の力

明治維新は、近代化と植民地化の回避を目的としていましたが、そもそも最初は攘夷運動として始まりました。

攘夷とは外敵を撃退することで、天皇を敬うという言葉をつけて尊王攘夷とする必要はなかったのです。そして、最終的には開国ということで決着し、明治維新が成功したことになってしまっています。

つまり、王政復古というフィクションを作り出し、大きな運動となっていく中でどんどんルールが変わっていき、なんとなく成功してしまったのが明治維新です。過去の全否定でもなく、全肯定でもない、「じつは‥‥‥だった」と過去を書き換え、第三の道を歩んだのです。

喧騒のある国

かつて日本には、訂正する力がありました。現代においては、「ぶれない」言動が求められ、大昔の言動まで掘り起こして炎上させています。訂正のチャンスを与えず「論破」することがエンターティンメントとなり、訂正する力が機能していません。

訂正のためには「余剰の情報」が必要だし、考える時間が必要だし、試行錯誤を許しあう信頼関係が必要です。今は「考えないで成功する」ための方法や、タイパ重視で結論だけを求めるばかりで、考える人があまりに少なくなっています。

民主主義についても、お上が民草の知恵を吸いあげてなんとなくいい塩梅に采配してくれる物ぐらいに思っています。民主主義とは喧騒のことであり、喧騒によって社会全体が1つの話題に支配されず、平和が実現するのです。

そして、「訂正する力」とは「考える力」なのです。

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