ハーバード見聞録(19)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


諸行無常(5月23日の稿)

在米国日本大使館の防衛駐在官に着任された原田智総1陸佐から着任挨拶のメールに、米国防総省から議会に宛てた年次報告書「中華人民共和国の軍事力(2005年)」を添付していただいた。

最近中国問題に興味が湧いて来た折、早速読んでみた。同報告書は、中国の経済成長こそが軍事の近代化の源泉であるとし、第4章「軍事の近代化のための財源」で次のように述べている。

経済成長と改革の継続は、人民解放軍の近代化にとって最も重要である。厳密に言って、このことが国防の為の予算の増額を可能ならしめるものである。広範な基盤に根ざす成長と近代化はまた工業、技術、人的資源の面で中国の経済力を高め、これにより、中国の指導者達はそれに見合った軍の近代化を相当な期間加速することが出来る。

もし中国が、過去の経済成長率を維持できれば2025年までにはGDPを6兆4000億ドルに拡大することができる。因みに、2025年のGDPは、ロシアが1兆5000億ドル、日本が6兆3000億ドル、米国が22兆3000億ドルと見積もられる。

同報告書における記述順序は逆になっているが、上記のような経済発展によってもたらされる軍事の近代化により開かれる「中国の将来像」(第2章「中国の戦略についての解釈」)を次のように展望している。

中国は、世界という舞台では、地域的勢力として発展しているが、その台頭はまた世界的規模の勢力になり得る潜在力も有している。即ち中国は地域的勢力か、世界的規模の勢力のいずれの方向に進むかの戦略的岐路に差し掛かっている。

これら公式文書の婉曲的表現を私流に直截・簡単に要約すると

「中国は著しい経済発展(2025年には日本を追い抜いて世界第2位の経済大国に、また、その経済規模は米国の30パーセント程度にまで発展する可能性)により、人民解放軍の近代化を加速できる。その結果、この地球上で、冷戦構造時代のソ連のように世界を舞台に米国と張り合うライバルになることも出来るし、アジアの地域勢力として仲良く共存する道もある」

と言うことだろう。

仏教に「因果応報」と言う教えがある。「過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずる」と言う教えである。

中国の経済発展とこれに伴う軍の近代化は、米国にとってはまさに「因果応報」とも言うべき展開になっている。

米国は1960年代、東西冷戦構造の中でソ連と厳しく対決する状況にあって、ベトナム戦争という泥沼にはまり込んでいた。

一方、中国とソ連の関係においては、1956年フルシチョフのスターリン批判と平和共存路線に中国が反発し、ソ連も1966年以降の文化大革命を不快として関係が悪化し、1969年には珍宝島に於ける武力衝突に発展した。じ後、両国は国境沿いに大兵力を展開するに至った。

米国は中ソ対立に乗じ、欧州に於けるソ連の軍事的圧力を緩和すると共に、ベトナム戦争終結を少しでも有利にするため、中国を戦略的に利用しようと考え、同国との関係改善を企図した。他方、中国は、中ソ国境におけるソ連の軍事的圧力に対処する目的から、米国との関係改善を前向きに考えるようになった。この結果、1972年のニクソン大統領の中国訪問が実現し、米中の戦略的関係(準同盟とでも呼ぶべき関係)が成立した。

米国は、このような中国との関係改善の中で、1979年中国に対する最恵国待遇を承認した。1979年の米国による中国に対する最恵国待遇の承認から今日までの四半世紀の間における中国の経済発展は特に顕著であった。この結果、今日では、米国は中国との経済摩擦が激化する程になり、対中貿易赤字が逐年増加し、1990年の127億ドルから2002年には1031億ドルに大きく膨らんだ。特に、2000年には、中国が日本に変わって米国の最大貿易赤字国になったのは歴史上の皮肉とでも言えようか。

また軍事面においても、ニクソン失脚後政権を継承したフォード政権以降は中国がソ連に対抗できるようにするという理屈で、ランドサット赤外線走査機器までも含む様々な兵器及び兵器システムまでも中国に提供するようになった。皮肉にも、この間の米国の対中支援は、中国国内の人権問題には殆ど不干渉というスタンスで行われた。

このような米中蜜月の関係は、1989年の「ベルリンの壁崩壊」及び天安門事件によって大きく変化するが、それまでの間の米国から中国への様々な支援により、中国においては顕著な経済発展引いては軍事の近代化の基礎が確立された事は紛れも無い事実だと思う。

1989年の冷戦崩壊以降は、米国はソ連に対抗する為に中国を戦略的パートナーに繋ぎ止める必要性は無くなった。また天安門事件を契機に米国においては、「人権問題」がクローズアップされるようになり、米中間の火種が増えた。また、貿易摩擦が逐年激化し、最恵国待遇問題が選挙区の声に敏感な米議会の動を活発化させ、米国政府はしばしば苦境に立たされるようになった。

しかし既に僅か10年程度の間に中国は、経済学者のロストーの説に従えば経済発展のための「離陸」を果たし、アメリカとの経済摩擦でも「減速」しない程の経済成長を果たしていたのである。

このように、今日米国が懸念する中国軍の近代化――米国に対抗できる勢力への台頭――はそもそも米国が対ソ戦略上中国に対する経済的・軍事的支援によってもたらされたものである。

米国防総省の議会宛年次報告書「中華人民共和国の軍事力(2005年)」を読んで、高々四半世紀の間に世界の戦略的枠組みが激変しつつある事実を改めて思い知らされ、「諸行無常(この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないこと)」と言う仏教の基本的教義が、激動する国際情勢にも当てはまるような気がした。

キッシンジャーのような優れた洞察力の持ち主でさえも僅か四半世紀先に生起する事象を的確に予測するのは難しいようだ。


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