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僕と僕ではない他人

僕はどうもどの環境にも馴染めない。
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・会社、次こそは次こそはと期待をもっていたが、どれもてんで駄目だった。
別に何か和を乱す行動をとるわけでも、チーム活動ができないわけでも、話してくれる人が誰もいないわけではないが、可愛げもなく、幼稚園の頃から、同じコミュニティの人と遊ぶことが嫌いで、独りでいることが好きだっただけだ。

独りでいることが好きなら馴染めなくても何の問題もないだろう、一人が好きなんて強がりの嘘だろうという声が自分の脳内で木霊するが、独りでいることが本当に好きでも、学校や社会でそれなりにやっていくには、馴染んだふりをすることが必要だし、自分の思うままに振る舞う方がストレスがないかもしれないが、僕はそれなりにちゃんとお金を稼いでそれなりに生活できるということを重要視するし、馴染んだふりをすること自体へのストレスもほとんどないので、たぶん死ぬまで本質的には孤独な人間として、しかし、社会の中ではそれなりにコミュニケーション能力のある仮面をかぶり図太く生きていくんだと思う。

ただ、馴染むふりというか、なんとか他人とコミュニケーションをとり、なんならチームのマネジメントや交渉をすることにおいては、僕のずれた人間性はプラスに働いているように思う。

人は他人をラベルで判断する。
偏見は良くないものだし、皆頭ではそれを理解していると信じているが、残念ながら、その人のことを何も知らないのにも関わらず、その人が持っている属性を情報として取り入れ、相手を偏って見てしまいがちなのが人間である。

僕は独りでいることが多い人生だったが、他人に興味がないわけではなく、なんならとても興味があったので観察力が結構あると自負している。観察して観察して、「ああ、この人はこういうタイプだな。こういうコミュニケーションをしよう。」と瞬時に判断し、馴染むふりをしてきた。(まあしかし、僕の大学生活を思い出してみると、Siriというあだ名があったから、僕が他人をラベルで判断して瞬時にコミュニケーションを返却していることが顕著に出ていたのだと思うので、馴染んだふりはできていなかったのだとは思うがどうでもよい。)

社会に出てからというもの、これが結構良いスキルとして役立っている。僕のずれた人間性や観念から図らずも勝手に育った力だが、相手に合わせて、無意識に瞬時にコミュニケーションを切り替えれることが、特に交渉において良い感じなのである。

先日、瀧本哲史さんの『武器としての交渉思考』星海社新書(2012)を読んだのだが、“「非合理的な人間」とどう向き合うか?”の章で、非合理な交渉相手をパタン化し、合意を取り付けるための向き合い方に関する考察を述べられていた。とてもクリアにバシッと言語化されていて、「ああ、これはまた読み返したくなるに違いない」と思ったので、参照用にちょっとエッセンスをメモしておくことにする。

タイプの分類

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それぞれのタイプとの向き合い方

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僕の周りには6のタイプの人間が誠に多く、人間もやっぱり動物だなあ、プロフェッショナリティに欠ける人たちだなあと思うのであるが、彼らはなんかよく分からないが幸せそうだ。あと、結婚して子どもがいて、お父さんかお母さんであることが多い。

僕は、こういう人たちとのコミュニケーションにおいて、動物的な反応を返却されると、この人たち自分の子どもにどういう教育しているんだろうな、この人たちの子どもも大凡この人たちみたいになるんだろうな、という完全に絶対悪である思考を生み出しかけるのであるが、これは自己嫌悪の一種であって、「ああ、僕はまた自分の平生を保つために自己欺瞞のループから抜け出せなくなっているなあ」と自覚してまた孤独を感じ、そしてその孤独を愛しているような人間である。

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