見出し画像

感情の扱い方

今朝見た夢の話。

僕の友人でJOEっていう女性がいて、「こどもオモ部」っていうおもしろい活動をしている人がいます。彼女は子どもたちを集めて、とにかくみんなでやってみたいことをなんでもいいからアイディアを出し合って、それが実現できないかみんなで考えて、イベントとして楽しむコミュニティを運営しています。

https://www.facebook.com/kodomoomobu/(こどもオモ部の紹介ページです)

僕も何度か参加させてもらったことがあるんだけど、子どもたちがとてものびのびしていていきいきしていて、僕が子どもだったときにこういう場があったらよかったなと心から思う。一緒に運営してくれる大人たちもとても楽しそうで、子どもの頃にこんな大人に出会いたかったな、っていうかんじ。

僕は、子どもたちと接するときに、厳しく言ってしまうのがとても自分でいやで、NVCっていう非暴力・共感コミュニケーションをかじってみたりいろんなそういう対話についての場に参加したりしてきました。多少なりは変わってきているけど、感情をうまくつかめなくて、いまだにもがいているところがあります。

今朝の夢の中で、JOEと一緒に子どもたちと公園で遊んでいる場面がありました。自由行動になったとたん、ある男の子が芝生を育てているところで、仕切られていて立ち入り禁止になっているところにズバッと入っていきました。そのとき僕はとっさに叱ろうとしました。でもJOEは「どうしてそこに入ったん?何か理由があるん?」って言いました。

子ども「虫の幼虫がおって、木に戻してやろうと思って」
JOE「そうなんや~、じゃあ虫も喜ぶやろうね~。でも、そこ立ち入り禁止やんか?芝生が痛んでしまうからね。気をつけてね。」

僕はそこではっと、「子どもを信じるってそういうことか、見守るってそういうことか、受け止めるってそういうことか」と気がついて、目を覚ましました。

もちろん、実際のJOEの行動ではなくて僕の夢の中でのことなんだけど、JOEはありのまま受け取ること、子どもたちがどうしてそういうことをするのかっていうことにきちんと意識を向けられている印象があって、それがこどもオモ部という場にもしっかりエネルギーとして流れいるイメージなんだけど、それが夢に出たんだなと思いました。

子どもがなぜそういうことをするのかっていうことと、自分自身がきちんと分けられている。

子どもとしては、たとえば親とか先生とか身近な大人を困らせようとする意図はないのに、大人は「どうして私を困らせるの?」っていう気持ちで怒りを感じることってあるんじゃないかと思っています。僕にはそれがあったなという気づきです。いつの間にか被害者になっている。

立ち入り禁止の芝生に、わが子や受け持つ生徒が足を踏み入れたとき、「あっ!いけない!」と感じて、「だめよ!」って叱ってしまう。おまけに「どうしていつもあなたは私を困らせるようなことするの!」みたいに「いつも」そうしているように怒りをぶつけてしまう。そしてまた叱ってしまった、っていう自己嫌悪に至る。本当は優しくしてあげたいのに、怒りをぶつけたくないのに。

いけないことをいけないと感じられること、本当は優しくしたいとかんじていること。子どもたちや周りの人たちがやっていることと、自分自身のありかたや湧き出てきた感情っていうのは影響はあったとしても強烈な因果があるわけではない、あくまで自分の中での出来事なんだなっていう、頭や言葉ではわかっていたことでしたが、夢の中でがーんと気づかされました。

僕の中には、まだまだ受け止めて切れていないことがあるな~と感じた朝でした。この感覚を忘れないように、日常でもプラクティスしようと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?