焼き網から見える丁寧な暮らし

焼き網というものがある。
コンロの上に直接置いて、パンやお餅を焼ける網だ。焼いている間は焼かれている物の面倒を見る必要があり、オーブントースターに入れておけばその間使える時間を、パンや餅に注がなくてはならない。どんな時もついついコスパを求めてしまう我々にはこうした手間をかける行為が必要なのかもしれない。
こうしたあえてトースターがあれば済むのに、パスコのCMさながらゆっくりパンを焼く人がいる傍ら、必要最低限の物に絞った極限までスマートな生活を送る、「ミニマリスト」と呼ばれる人達がいる。初めてミニマリストの人の家の写真を見たとき私はなんの修行でこんなことをしているのだろうと思ったが、彼らはむしろ物に囲まれた生活を送ることによって自らが物に縛られてしまうという考えを持つ人も多い。たしかに、何かに集中したいときに喫茶店やネットカフェに行って家でも出来る作業をするのは、家にいると誘惑が多くてはかどらないからだ。物が少なければ雑念はわかない。なんの修行だろうと思ったが、修行は誘惑のなかで節度を保たたなくてはいけない今の自分の部屋の方で、ミニマリスト的部屋ではそうした試練も生まれず、快適な日々を過ごせるのかもしれない。

・『滅私』について

羽田圭介の『滅私』という小説がある。必要最低限の物だけで生きる、まさにミニマリストな暮らしをする男の話だ。その物を持たないライフスタイルを紹介する「身軽生活」というサイトの運営や、シンプルな家電や雑貨のウェブ販売を行う「MUJOU」というショップの経営と投資で生計を立てていて、無駄というものを極力省いて生きようとする様が描かれている。
物を捨てることにむしろ執着しているともとれる印象的な部分をいくつか紹介したい。

・空気清浄機つきサーキュレーター
 
作中には物に対する考え方、執着しないための努力が度々登場する。
冒頭から議題に上がるのは、羽根のない空気清浄機つきのサーキュレーター。主人公の冴津は、春というまだ扇風機を必要としない季節に、サーキュレーターの存在意義を問いていた。空気清浄機の機能があるのだから年中活用できる、スマートな家電だと思うが、それさえも不要に見えてしまうというのは、本当に家の中に無駄なものがないとわかる。私の部屋は9月でも従来型の羽根つき扇風機と、オイルヒーターがどちらも部屋に存在している。オイルヒーターはもう半年くらい一度着た服を掛けておく場所としてしか活用されていない。

・もらったTシャツとメロンパン
仕事の取引先の相手にもらった、イベントロゴが入ったTシャツとジューシーメロンパン。それを主人公は帰宅後どちらも即座に捨てた。
白シャツ3着、黒いダウン、グレーのジャケット、ジーンズとハーフパンツ。これが所有している全ての洋服である彼にイベントロゴのTシャツなんて不要でしかないのだろう。たしかに取引先のTシャツなんて、ミニマリストを目指していなくてもいらない。百歩譲って夏場のパジャマくらいにはなるかもしれないが、夢にまで仕事が出てきそうで落ち着かない。
とはいえ、メロンパンまで容赦なく捨てるのはどうだろうか。
 
「手を洗いながら、さすがにジューシーメロンパンという食べ物を粗末にしたことは、感じるものがあった。こういうときこそ、理性的になる必要がある。小麦と砂糖の塊である高カロリーのお菓子を食べれば、太る。太らないように運動したとしても、時間が奪われる。体内のミトコンドリアでカロリーを燃やすのも、ごみ焼却場でパンを燃やすのも、どこかで燃やすかの違いに過ぎない。より無駄が少ないほうをと考えたら、そもそも体内に入れず捨ててしまうべきだ。人生の時間は限られているのだから。」

さすがの冴津も、食べ物をそのまま捨てることへのためらいは見られたが、そこからの正当化の理由がすごい。
 食というものは、案外自分ひとりでコントロールし切れるものではない。ごはんには、その物自体がもったいないというだけでなく、作ってくれた人に悪いからという理由もあり、なかなか完全に自分の裁量のみで決められない所がある。誰かに作ってもらった食事や、ふと舞い込んできた飲み会など、予期せぬイベントが人生を盛り上げてくれるが、そこに甘えてしまうと、最終的に身体を壊すのは自分だ。人間は食べたものの蓄積で生きているが、最終的に何が原因で病気になったりするのかはわからない。その折り合いというものを、自分最優先にした結果がこのジューシーメロンパンの廃棄に繋がっているように思える。

・アイロンとアイロン台

「極論を言ってしまえば、それがなくても生きていける。それがなくても生活はまわっているし、結局は出番が少なくて捨てるときを想像すると、やはり買えない。そもそも根本的に、アイロンがけが必要な服を着なくても済む人間関係の中で生きていけるようにすれば、このような迷いすら捨てられるだろう。」

アイロンを所持しない事で、それ分部屋に余分が生まれ、アイロンがけという面倒な行為から解放されることと引き換えに、しわをのない綺麗な服を着る必要のある世界との繋がりをもつことを捨てる。 アイロンのために、自らの人間関係の方に調整をかけるという発想にぞっとした。

主人公の心の中にはどこか雑然とした場所によりどころを求めてい部分があり、本人もそれを自覚して徐々にこの過激なまでの「捨て思考」を捨てるのだが、私は『滅私』を読み終わった後、自分にもこの捨てたい、持ちたくない欲求があることに気づいた。それまでは、自分はむしろ物の整理も苦手だし、どちらかというとコレクター気質で物に囲まれた生活に憧れと誇りを持っている性質だと思ったいたが、ひとつひとつの物を購入する際、それが部屋のスペースを圧迫することへの苛立ちを感じるようになった。もちろん幸福感のある買い物はあるし、衝動的な物欲もあるが、それと同じくらい全部捨ててしまいたくなる時もある。物欲に駆られる人と、断捨離に走る人は紙一重なのかもしれないと思う。

 対抗馬 丁寧な暮らし系
 ミニマリストの対抗馬のような存在として、「丁寧な暮らし」というものも存在する。まさに、焼き網でトーストを作るようなゆとりが「丁寧な暮らし」だ。『滅私』の冴津は効率的に要領よく生きているように見えたが、日々の小さな部分を楽しんでいるようには見えなかった。数少ない家具のサーキュレーターでさえも常に不要かもと疑うような生活は、心が豊かな感じがしない。
 「丁寧な暮らし」は家での行動ひとつひとつを思い起こすごとに、プラスの感情が得られるような暮らしだと思う。トースターにパンを焼いてもらっている間、ぼけっとスマホを見ていると、後からその時何をしていたのかさえ忘れてしまいそうだが、焼き網を構えじっくりパンに向き合う時間は記憶に残る。この言葉は #丁寧な暮らし  とハッシュタグ化され、ナチュラル風を見せかけた自慢のように捉えてしまいがちなので、敬遠する考えだが行動自体が悪い事ではない。こうしたもの全てに逆行した生活にはいずれ破綻が来るので、どこかで折り合いをつけて向き合っていきたい。
 しかし、ミニマリストと丁寧な暮らしの目指す所は違うように見えて共通する部分がある。それは、「人生を複雑化したくない」という欲求だ。

 『モノは好き、でも身軽に生きたい。』(本多さおり 著)という、丁寧な暮らしを指南する本には、ザ・丁寧な暮らしが端から端まで紹介されているが、そこに『滅私』に似る部分をみつけたので、いくつか気になるところを取り上げてみた。

 
例えば、掃除用具のパッケージ。家で掃除をするときの用具をバスタブ用、シンク用、とすることをやめ、重曹やアルコールスプレーを活用することで、管理が楽になり、より掃除に向かう気力が湧いたとのこと。
私は細かい用途に特化した洗剤や掃除道具を見ると、「これなら確実に汚れが落ちそう!」とやる気が湧くが、それはたまにしか掃除をしないからだろう。日常的に掃除をするのならばこの方が便利というのはなるほどなと思った。しかし、その容器を見た目が“うるさくない”容器に詰め替えるのだと言う。ノイズを排除しようとする様が少し怖い。あの洗剤の強力なパッケージが掃除に説得力を持たせてくれそうなのに。
 
他にも、洋服についての記述もあった。『フランス人は10着しか服を持たない』という本が以前流行ったが、それと同じように家にある服の数を必要最低限にまで減らそうという動きに出ていた。同じ役割を持つ服は2着もいらないとして、実際に作者は12着にまで手持ちの服を減らしていた。つい手に取ってしまう選び抜かれた12着ということもあって、着回しの例を見ると確かに同じ服ばかり着ているようには見えなかった。12着のうち柄のあるものは3着ほどで、すべてストライプ柄それ以外は無地でモノトーンと極めてシンプルなものばかりなので、これとこれは絶対に合わないという組み合わせがなさそうだ。1度着ているところをみたらそれがあだ名になりそうなネタTシャツなどなかった。少ない品数で勝負する場合1点1点の主張はいらないのだ。こうしたミニマルな生活をしている、提唱している人の服装はどこか無印良品的でユニクロ的なイメージを持っていたが、それは必然なのかもしれない。

そして服を少なくすることのメリットとして、「コーディネートに悩む時間の短縮」を上げていた。そもそもの選択肢が少なければ、悩む手間が省けることは当たり前だが、これは果たして純粋に喜ばしいことなのだろうか。考えるのが大変だから、最初から考えなくて済むようにするために所持数を減らす、というのはたかがアイロン1台部屋に置きたくがないために、人間関係の方にブレーキをかけた『滅私』の冴津と同じだ。

朝の時間の短縮は喜ばしいことでも、ここまで何かを削ぎ落すところまでくると、誰しも少しは持っているラクしたいという欲を超えているように思える。シンプルというデザインを好んでいるというよりも、迷いを生じさせないためにシンプルに向かっていっているのだとしたら、人間が考えることをやめるために装飾を放棄するようで怖い。

「丁寧な暮らし」は健康的である事も必須で、食事はヘルシーで適度な運動も欠かさない。これも、ごはんを作るという面倒な作業に向き合っているし、運動だって大人が定期的にやるにはそれなりにお金と時間がかかるが、それを実践できているというのは、あらゆる投資をしているように見えるが、「健康に生きる」という正しい姿に一直線に進んでいて、寄り道がない。「わかっちゃいるけどやめられない」をせず、しっかりと真っ当に生きることも人生を複雑化していない。

おわりに
『100分de名著』というテレビ番組がある。読んでおいたほうがよさそうな作品だけど、どうにも手が出ないという本を25分×4回で解説してもらえる番組だ。その道の研究者の方の解説と、役者さんの朗読もあり、Eテレの教養番組としてかなり良質だなと思う反面、このお手軽感に甘えてはいけないなとも思う。テキストが出ているのでそれを購入して、「自分は学習意欲があるな」なんて自画自賛するときもあるが、だったらオリジナルの方も挑戦してみるべきなのは間違いない。特に大学生という期間は、難しい本に途中で挫折してでもいいから向き合うべきだと、大人の皆さんからよく言われる。わかっていても、最近の私は本屋さんに行ってはお手軽な“教養本”ばかり手に取ってしまう。

『人は○○が9割』という本の○○は腐るほどあるし、それこそ『教養としての○○』も腐るほどある。こうしたダイジェスト版ためになる本シリーズは、文章に枠がつけられ、自分でマーカーを弾く必要すらない。こうした分かりやすい本を少し小馬鹿にしつつも読み、それでいてあえて本を読む私、に浸ってしまう。

今回片付けの本を手に取ったのは、お手軽な本に鋭利なツッコミをいれてやろうという気持ちが少なからずあったが、ただの整理整頓指南や、ライフスタイルの提示ではなく、思わぬ人間の欲が見えた。そこには、もちろん自分が含まれていて、これからもっとこの「複雑化したくない」という気持ちは強まっていきそうな気がする。人から甘いパンを差し入れされたいし、柄のあるシャツも、すぐしわしわになるワンピースも今はもう少しだけ楽しみたい。


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