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「ペドロ・パラモ」 フアン・ルルフォ

杉山晃・増田義郎 訳  岩波文庫  岩波書店


初読時

今日からフアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」を読み始め。死者の声が時間を越えて響き合う村。
ルルフォの小説はこの作品と「燃える平原」しかないみたい。
(2009 02/27)

読了はしたのだが、これしか記録がない…
そして、時間は13年進み…

お宝動画


YouTube動画に(メキシコ大使館チャンネル?)、メキシコ文学の歴史紹介動画があって、お馴染み寺尾隆吉氏始め専門家が、メキシコ革命以後の作家と作品、そして雑誌を紹介している。
メキシコ革命文学の時代を下ろしたのが、田舎の村、かつパロディ(というか外側に視線を引いたというか)化の作品、「ペドロ・パラモ」。
ルルフォは写真も結構撮って写真集も(たぶんメキシコで)出ているらしい。この動画でチラ見した限りだけど、いい感じ…
(2022 09/14)

ルルフォ動画再び


昨日またメキシコ大使館動画チャンネルで、今度はルルフォについて、研究書を出した(春風社)仁平氏と文化人類学者の人との対談形式でルルフォ限定の動画。内容はもちろん面白かったけど、もっと文化人類学者のボリビアの話題も聞きたかったような。「ペドロ・パラモ」読むか、あるいはこの研究書購入してみる?
(あと、こちらはジュンク堂チャンネル?で、ドノソ「別荘」の動画もあるのだが、こんなの見てしまうと…)
というか、ここまでお膳立てしたんだから、また出して再読せよ(笑)
あと、復讐する側とされる側を切れ切れ交互に語り一人の人間であるかのように見せた短編もある「燃える平原」もよろしく(笑)
(2022 10/01)

というわけで、再読開始。


元々杉山氏が大学3年の時に訳し、それを大学院に進んでから増田義郎氏に直してもらって岩波現代選書で刊行。その後「燃える平原」を水声社で出してから、また訳し直したのがこの文庫版。
まずは解説から。

 「エルナンデスは大きな剪定バサミをもった鳥のようだったね。ぼくのまわりを飛びまわって、余分な枝葉をちょきちょきと落としてくれたんだ。徹底的に切り落とすものだから、しまいにはだいぶスリムになったよ。あの簡潔さが『燃える平原』のスタイルなんだ」
(p212)


ルルフォが入国管理事務所に勤めていた時、同僚にエフレン・エルナンデスという作家がいた。既に名前の知られていたこの作家に受けた恩恵についてのルルフォの言葉。

さて、本文に入る。
作品冒頭は、フアン・プレシアドという人物が母と死に別れ、父がいるというコマラの町に向かうところ。途中でロバを追うアプンディオという男に道案内される、が彼の言うには、もうフアンの父親ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでいる、という。さすがに死の町コマラだが、解説読むと、今まさに町に入ろうとしているフアン・プレシアドも実は死んでいる、という。重層的な構造の作品はいろいろとあるけれど、ここまで閉鎖的な作品もないだろう。
ところが、読んでいて印象に残るのは、水のイメージの文章。

 屋根からしたたり落ちる滴が、中庭の砂地に窪みをつくっていた。ポタ、ポタ、そしてまたポタと、煉瓦の間にはさまれた月桂樹の葉に滴が落ちて、葉が跳ねたりひっくり返ったりしていた。嵐はすでに去っていた。今はときおりそよ風がザクロの枝をゆすり、大粒の滴をしたたらせていた。
(p21)


コマラの町は暑いなかそよとも動きのない死んだような町…では、なかったか。

 濾過器にひとつまたひとつと水滴がしたたる。石から滲み出た清らかな水が、水がめにポタリと落ちる。その音が聞こえる。耳を澄ます。ざわざわした物音が聞こえる。地面をこする音。歩きまわり、行ったり来たりする足音。水滴は絶え間なくしたたり落ちる。やがて水がめから水があふれ、濡れた地面にこぼれる。
(p41)


ここもまた。水が溢れてこぼれ落ちるというイメージは、日本では全くありふれた陳腐なイメージなのだが、ここコマラでは「楽園」なのだろう。これはどうやらペドロ・パラモの回想の場面らしい。

 教会の時計は、つぎからつぎへと時を告げた。時が縮んでしまったようだった。
(p27)


この作品の断章もまた…
(2022 10/19)

覚めることのない夢

 今どれだけたくさんの人間があいつのために祈りを捧げていることか。おまえはひとりだ。ひとりの願いに対して何千人もの祈りだ。
(p48)


この小説に出てくる人間みな死者…という仮定が成り立つとすれば、祈りというのがこの人々にとって重要視されるのも納得。ということで、祈りというキーワードはこの後も結構出てくる…けれど、それは数量で測れるもののようだ…変に情緒に訴えかけないドライな世界観。

 夜明けが、少しずつおれの記憶を消していった。
 ときおり話し声が聞こえてきたが、今までの声と違うと思った。どのとき気がついたのだが、それまで耳にしていた声には音がなかった。音が響いてなかったのだ。声が感じられるだけで、音がなかった。ちょうど夢で聞くことばのように。
(p80)


声と音とはどう違う?祈りの声や因縁こもった声なども、今までいろいろあったのだが、これらも音の響かない声だったのか。
そういえば、自分は、夢の中で何か音を伴う声を出すと、その夢から覚める、とずっと思っていた(今では半分くらいは覚めないこともある)。ペドロ・パラモの世界とは、決して覚めることのない夢の世界なのか。死というのは決して覚めない夢…

 このあたりはね、その時間になると、人の霊がわんさと出てくるんだ。通りを勝手に歩きまわる霊の群れってのはすごいもんさ。日が暮れるともう出はじめるよ。
(p88)


「わんさ」という言葉も「群れ」という言葉も、あまり日本においては霊に掛かる言葉ではない、日本とは違う、これもドライな感覚。
この作品の一番の外枠のフアン・プレシアドとかペドロ・パラモとかの主要人物と、それからそういう人物に話しかける(ここの場面では兄妹)人々と、それから「わんさ」と出てきて歩きまわる霊の「群れ」。これらは全部が死者なのだろうけれど、何かレイヤーが違うというか、立場や(作品上の)機能が違うというか、これらの層を超えては交わることはほとんどない、と今は考えてみる。
それから、この小説の断片、前の断片でちょっとだけ話題に出た人物が、次の断片の視点人物になっていたりする場合も多く、意外に続きもののようにも読める。
(ウルトラマンみたいに、この作品の人物達は3分ならぬ3ページ(くらいの断片)しかもたない、のかな)
(2022 10/20)

壁からの声

 空気がほしくて外に出た。だが、暑苦しさは依然として体にまといついて離れなかった。
 というのも空気がどこにもなかったからだ。八月の酷暑に熱せられた、けだるい淀んだ闇しかなかった。
 空気がなかった。口から吐き出される息が四散しないうちに手のひらでおさえ、もう一度吸い込まねばならなかった。そうやって吐いたり吸ったりするうちに空気がだんだん薄れていった。とうとうかすかになった息まで指の間から漏れて、永久になくなってしまった。
(p97-98)


ちょうど小説の真ん中付近、語り手フアン・プレシアドが語り続けているけれど、語り手自身が亡くなるという展開は珍しい限り…

 ところが壁のひび割れや剥げたところから、洩れてくるみたいに、あのささめきが聞こえるんだ。たしかに聞こえたんだ。人の声だった。はっきりした声じゃなくて、ひっそりとまるで通りしなにささやいているみたいな、耳元で唸りを立てられてるみたいな、そんな音なんだ。
(p99-100)


前に挙げた多くの霊と同じような、壁からのたくさんの声。
(2022 10/21)

スサナ・サン・フアン

今朝読んだ箇所、p127からこの小説のもう一人の主要登場人物スサナ・サン・フアンが出てくる。

 ここに、こうして仰向けになって、さびしさを紛らわそうとして、あのころのことを思い出してるの。だって、こうして横になってなきゃならない時間はそう短くないんだから。それに母さんのベッドに寝てるんじゃない。死んだ人を埋めるときに使うような、黒い箱の中に入っているんだもの。死んだんだもの。
(p127)


「ような」とか言っておきながら実はそのものだったりする。こういう言い方は、どこか自分を外側からモノとして見ているような印象を与える。
で、このスサナの「独り言」を聞いているのは、フアン・プレシアドとドロテア。彼らもまた死んでいるとは思う。死者の声を聞く死者。

 どれもこれもみんなペドロ・パラモの妄想と心の中のいざこざのせいなのさ。それもたかだか奥さんのスサナに死なれたからだよ。どんなに好きだったかわかるだろ?
(p136)


 スサナ・サン・フアンは、閉じた窓を打つ風の音を聞きながら、頭の下に腕を組んで休んでいる。考えごとをしながら、夜の騒音に耳を澄ます。風に引きずられて、夜が右往左往するさまを心で追う。その動きがふいに止む。

 戸が開かれ、一陣の風がランプを吹き消す。真っ暗になると、考えごとを止める。かすかなささやきが耳に達する。急に自分の心臓の不規則な鼓動を聞く。閉じた瞼を通じて炎の輝きをかすかに見る。
(p154)


考えごとは真っ暗の方が進むのか、と思えばそうではないらしい。先のフアン・プレシアド達と同じように、真っ暗闇は死者の声を聞く時なのだろう。そして、引用して気づいたのだけれど、最後の文の「炎の輝き」というのはどうだろう。少し前にランプは吹き消されたのではないか? 考えられるのは二つ。この段落の文の並びが時系列にはなっていない可能性、そして「炎」という言葉の象徴性…例えば魂など…今の自分の印象では、前の可能性の方が有りなのかと思う。
(ここに重要な情報があるのを後で知る…)

 ペドロ・パラモは、男たちが立ち去るのを見送った。黒々とした馬の行列は、闇夜にまぎれて足早に目の前を通りすぎていった。汗や砂ぼこり、地面を揺るがす蹄の音。蛍がふたたび光を放ちながら飛び交っているのを見たとき、男たちがひとり残らずいなくなっているのに気づいた。あとに残ったのは彼だけだった。まるで中から朽ちはじめた大木のようだった。
(p181)


ペドロ・パラモは手勢を集めて革命騒ぎに便乗しようとしている。ここの語りは三人称なのだろうけれど、「気づいた」という辺りでは半ばペドロ・パラモの視点に入り込んだいるように思われる。彼の外側で見るか、内側で見るか、で一番最後の文章の感じ方がかなり異なる。

 それから、頭が腹の上に突き刺さるのを感じた。腹を頭から突き放そうとした。目を圧迫し、呼吸を妨げるその腹を押しのけようとした。しかし、自分はだんだんとその中にめり込むばかりで、まるで夜の底に沈んでゆくようだった。
(p192)


頭が腹に突き刺さる、という違和感のある表現に戸惑いつつ…これがスサナ・サン・フアンの死。先の「中から朽ちはじめた大木」のペドロ・パラモのところもそうだったけれど、その人物自体がその時感じられないその感覚を、なんとしても感じとりたい、という意志を見ることができる。これもこの小説の特徴なのではないか。

今はここで止める。15ページほど。あとは、今朝読んだところでは、細かい脇人物、ペドロ・パラモの元を去ろうとしても、借金しにもどってくるヘラルド・トゥルヒヨという朗読弁護士とか、ファウスタとアンヘレスという老婆二人が聖母マリア誕生祭の飾りつけをした帰り道にスサナの死を感じ取る(そうなったら折角飾り付けしたのに開催されなくなる)場面とか、こういうのもまた印象が深まる。
(2022 10/22)

楽園の終わりとペドロ・パラモの死

朝、15ページほど読んで、読み終え。

 おまえを見たのはあれが最後だった。道端の楽園樹の枝をかすめながらおまえは通り過ぎていった。散らずに残っていたわずかな木の葉は、おまえのおこしたそよ風に、すっかり運び去られちまった。それっきりおまえは見えなくなった。おれはおまえに向かって叫んだ、『スサナ、戻ってくれ!』
(p197)


解説にある杉山氏の言う定説?の「楽園」の、締めくくり。
…の次の断片は、ガマリエル・ビヤルパンドとその母イネスの店に、アブンディオ・マルティネスがやってきて、妻(というか「カカア」が亡くなったので忘れるために酒をくれ、という。もうこの小説では人が死ぬのは当たり前なので、特に気にせずユーモラスな会話を楽しんでいた(レンテリア神父が革命に参加しているのにも触れられる…この神父でこの小説書き直してみたい欲望があるのだが)。

が、ここから最後に向けての怒涛の展開になっていた。
まず、このビヤルパンドの店というのは、作品冒頭付近で子供の頃のペドロがお使いに行く店でもある(p25)。そして、妻を亡くしたアブンディオ・マルティネスというのは、冒頭でフアン・プレシアドをコマラに導き入れるロバ追い(姓の方は聞き取れなかった、とそこにはある p17)…アブンディオとフアンは、ミゲル・パラモとともにペドロ・パラモの息子。
酒飲んだアブンディオは、死んだ妻レフヒオのところには向かわず町の外れに出て行く、そこに腰かけたひとりの男に声をかける…とその一方で、ダミアナ・シスネロスは「ペドロの旦那が殺される」と叫んでいる。この二つが平行し自分の頭に入ってくるのが遅れたが、腰かけた男は先のp197のペドロで、殺そうとしているのは息子でもあるアブンディオ(ロバを売ってレフヒオの治療に当てた、と言っているので、冒頭のロバ追いは…)。そして、スサナに言葉をかけながら、ペドロ・パラモは倒れる。

 乾いた音をたてて地面にぶつかると、石ころの山のように崩れていった。
(p207)


「楽園」の水のイメージの枯渇、ペドロは「石」、パラモは「荒れ地」を意味する、という。

パドレと円環

ということで、読み終えて、解説…例によって?解説先読みしてるので、ただなぞるだけだ、と流していたら、先読みしていた時に見落としていた重大な情報が(自分の読みなんて所詮そんなもの)…スサナ・サン・フアンとその父親バルトロメ、この二人は実は近親相姦の関係でもあったという。それが幾つかの断片に仄めかされている…
と言われたら振り返らざるをえない…よくよく思い出すとそんな表現があったような…というわけで見つけたのが、例えばp154、スサナが夜、考えごとをしている先に引用した文の続き…

 目は閉じたままである。頭の上に髪がこぼれている。明かりが唇の上の汗の粒を照らし出す。彼女は尋ねる。
「父さんなの?」
「そう神父だよ」
(p154)


スペイン語では父も神父も「パドレ」。その聞き間違いに微笑したところだが、夜、父親がよく訪れていたということは…でも、近親相姦って兄弟姉妹とかが多くない? 父と娘っていうのが心情的にも理解できなくて(言い訳(笑))

後は、この作品、よく円環的とされ、確かにアブンディオの誘導、アブンディオとフアン・プレシアド(彼も母が亡くなったことからコマラに来た…この冒頭時点で彼は亡くなっていたのか、それも気になる)との関係、などはその印象を強めるが、何か今回の読後感では、円環というより、別の印象、閉じられた断片が重なり合っている…例えが変かもしれないけれど、パイとかの菓子みたいな、そういう構造の感覚がある…とりあえず、いくらでもこの小説で語れる(笑)、ご飯何杯でもいける(笑)。
3回目行こうか?

あとはレンテリア神父といえば、この神父と、グレアム・グリーンの「権力と栄光」の神父と読み比べるのはどうか? 時代的には重なるところ。ルルフォの回想読むと、メキシコ革命の荒れ方は自分の認識を遥かに越えたもののようだし。
(2022 10/23)

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