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「ナナ(上、下)」 エミール・ゾラ

川口篤・古賀照一 訳  新潮文庫  新潮社

(読書記録うすいので、上下合わせて1記事)

橋の上の鮮やかな対比(上巻)


「ナナ」も登場人物の地位や性格等、わかってきて面白くなってきた。
今日の午前中に読んだところでは、貴族(っても古い家柄ではないらしい?)のミュファ伯爵のグループと、ナナの劇場・娼婦?グループが、田舎逗留の橋ですれ違うものの挨拶も交わさない、というシーンが出てくる。それも伯爵のグループの大半(伯爵も含め)、わざわざナナの田舎詣でに合わせてやってきたというのに。日本人にはよくわからないけれど、身分差とか慣習なのだろうか。2つのグループがほんとは溶け合っているのに、そう見せない、そしてナナグループの中に伯爵の甥であるジョルジュを見たことで広がる波紋…ますます目が離せない、と、言ったところ。
(2008 01/28)

パワーアップナナ(下巻)

下巻になって、しばらくナナはどっちかというと男になぶられる役回りになる。でも、今朝の分読み終わる頃にはそれも破綻。それをバネにパワーアップするナナに期待。 でも、上巻にあったミュファ伯爵に言った、アノ言葉は原文ではどうなっているのだろうか(笑)
(2008 01/29) 

ナナに乗るのは誰だ?


って表現が「ナナ」の中にあった。場所は競馬場。馬主の貴族がナナに入れ込んでおり、持ち馬にナナと名付けた。そのナナの出走前、馬のナナに乗る(騎手)のは誰だ?、と聞いたのに、周りの男どもは、人間のナナに乗るのは誰?と結び付けてしまう。そこへやってきた(人間の)ナナ自身が騎手の名を挙げる、という忘れ難い一場があった。 今週中にはなんとか読み終えたいところ。
(2008 01/30) 

「ナナ」読了報告

今朝、残っていた「ナナ」を読み終えた。これでゾラは「居酒屋」「獲物の分け前」に続く3冊目。ルーゴン・マカール叢書って20冊あるらしいからあと17冊(笑)。
(2008 02/01) 

「ナナ」とその他(補足その1)

ナボコフ「マルゴ」は、「ナナ」の20世紀バージョンでもあるわけなのか。
ナナの時代には演劇だったものが、マルゴの時代には映画になる。もちろん、小説手法においても…
(2008 04/02) 

「ナナ」とその他(補足その2-1)

アリストテレスに馬乗り 
「ザッヘル=マゾッホの世界」
マゾッホはグラーツからブダペストに移る(1年くらいで次はライプツィヒみたい)。えと、内容はマゾッホ自身というより1880年代の社会とゾラの「ナナ」が中心。

マゾヒズムの源流はもちろんマゾッホ自身よりはるかに古いのだけど、一つの物語の型(特に「ナナ」の馬乗りの場面の祖先)は13世紀頃成立したらしいアリストテレスと若きアレキサンダーの情人との話。アリストテレスに情人のことを父親に告げ口されたアレキサンダーは、老哲学者に刺激を与える為にそのフィリスという女をアリストテレスの元に行かせる。のぼせ上がった老哲学者に馬乗りしてはいどうどう…という話らしい。

13世紀といえばアリストテレス哲学が流入し全盛期になりつつある時代。この話のこれまた原型は古代インドみたいだけど、哲学者という知の要素とキリスト教的価値観がそこに加わった。こういう物語の型みるのも楽しい。

「ナナ」とその他(補足その2-2)


ナナとプルーストとマゾッホ
「ザッヘル=マゾッホの世界」続き
まずナナの娼婦性から 女はたしかに見世物であり慰み物であるとはいえ、男はその女を完全にはモノにしていない…(中略)…決定権があるのは購買者ではなくて、商品の方なのだ。 
(p262、ヴェルナー・ホフマン「ナナ、神話と現実」から) 
兌換可能な、すべてを平板に相対化する金を価値基準にした社会は、後にマルセル・プルーストも暴露したように、にわか成金と贋貴婦人の仮装行列とならざるを得ない。 
(p264) 
地域的制約もあって、マゾッホではゾラやプルーストの次元には至っていないが、実生活ではその渦中にいた。例えば「風紀委員会」では、ワンダ母娘をモデルにしたような女工一家が中心となるが、ナナのように男たちを破滅させはしない。 プルーストについての文章も作品全体の社会的概観がはっきり見えてくるもの。 
(2016 03/16)

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関連書籍

「ザッヘル=マゾッホの世界」


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