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「群衆心理」 ギュスターヴ・ル・ボン

櫻井成夫 訳  講談社学術文庫  講談社

ル・ボンは物理学から心理学までの多くの著書を残し、また世界中を旅行して回った人物でもある、と解説にある。序論で書かれている群衆の見方はかなり(というか大仰に)悲観的だが、本論はどうか。
(2018  11/03)

三鷹水中書店で購入。
(2018   11/23)

昨夜から読み出す。昨夜は序論。今日は第1篇「群衆の精神」の第1、2章。

群衆心理とは…

ただ多数の人々が一箇所に集まっている状態では群衆心理とは言えない。ル・ボンが考える群衆心理とは、集団的心理により単一の精神的統一をなした状態のものを言う。そのため、離れ離れになっている個人の社会的統一体も場合によっては群衆心理を示す。ここのところはメディア論や政治学的にも欠かせないところだろう。今のSNSをル・ボンが知ったら、小躍りしながら研究し出すだろう…

ル・ボンが強調すること
1つめ、群衆心理は犯罪的心理側面に関してのみ研究されているが、一方で英雄的(ここで挙げている例が、十字軍とか1793年のフランス義勇軍とかなので、いろいろ議論の余地はありそうだが)な側面もある。ただこれも個人的な動きではなく群衆心理の高まりによって。
2つめ、群衆心理には、民族的な違いがある。フランス人始めラテン系の方が、アングロ・サクソン系より、群衆心理に直結しやすいという。でもこれは、著者自身がフランス人であり、かつ著者の志向・問題意識を考慮した上で、なので、実際にはそこまでの違いはないと思われる。1895年というこの本刊行時を考えると、その制約も逆にこの本を「楽しむ」味付けのようにも思える。「脳の思考ではなく脳髄の思考」、「群衆心理は原始人と同じ段階に落ち野蛮になる」なども同じく。

では、引用を。

  あらゆる人間の精神構造には、環境の急変に現れるかも知れぬ性格上の可能性が含まれているのである。
(p28)

 心理的群衆の示す最もきわだった事実は、次のようなことである。すなわち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。この精神のために、その個人の感じ方、考え方、行動の仕方が、各自孤立しているときの感じ方、行動の仕方とは全く異なってくるのである。
(p29)

 群衆は、いわば、智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ。
(p32)


個人的には「感染」(集団心理が新たな侵入者に移っていく過程)が非常に興味がある。

歴史と群衆心理、そして今との繋がり

ル・ボンは流布している歴史について、こうした群衆心理によって変形しているので、それは信じるに値しないというように述べている。歴史学の方からの批判を聞きたいところであるし、自分も少し言い過ぎではと思う。もっとも、ル・ボンの真意はまた違うのかもしれないが。一方、こうした群衆心理なくしては、歴史は語り得ないという主張(p37)は深掘りしてみたい。

群衆心理は基本的には非常に保守的(革命的に見えるのは、破壊・暴力の欲求が裏で働いているから)。ここでル・ボンは面白い問いを出す。

 もし、機織機械や蒸気機関や鉄道が発明された時代に、民主政治が現在のような勢いを握っていたとしたならば、これらの発明は、実現されなかったであろう。いや、再三革命がくりかえされたのちに、はじめて実現されたであろう。
(p67)


「現在」というのは19世紀末のことを指すのだが…そして、今、この現在は、新奇なものを追い求める社会心理というものもあって、それが普及の五段階説の話に繋がっていくのだが、これも新たな群衆心理?
というように、ル・ボンの時代から現代に至るまで百年以上経過して、群衆心理論も変化している。群衆心理は幻想で、そこから脱却することで社会心理学アプローチが生まれる、という説もある、と解説にはある。

自分が一番読んでいて思うのは、ル・ボンのいう「群衆心理」的な傾向があるとすれば(そこは否定しないし、研究対象として魅力あるテーマだと思う)、果たして「群衆」(多人数・複数)であるというのは、最早前提として不要ではないかというところ。それは、ル・ボンの危惧が遠のいたわけではなく、加速し既にそれに取り囲まれていることを意味すると自分は思う。

ラ・ベル・プール号の事例


「群衆心理」の最適なモデルがあるので見てみる。

 二等戦艦ラ・ベル・プール号は、暴風雨のため遠く引きはなされてしまった小艦ル・ベルソー号の捜索に海上を巡航していた。折から、日中の陽ざかりの最中であった。突然、監視兵が難航しつつある船があると信号する。乗組員一同が示された方角へ眼をやると、士官も水兵もみんなが、人々を満載した筏が危急信号をかかげた数隻のボートに曳かれているのを、はっきり認める。デフォッセ提督は、ボートに船員を乗りこませて、遭難者の救助に急行させた。ボートに乗っている士官も水兵も、近づくに従って、「一団の人々がうごめき、両手をさしのべるのが見え、大ぜいのあげる鈍い、漠とした声音がきこえていた」という。そのいわゆる筏なるもののそばにきてみれば、何のことはない、木の葉に蔽われた何本かの木の枝に行きあたったにすぎないのだ。
(p49-50)


一方には注意の集中している群衆(士官や水兵その他)がいて、他方には監視兵の暗示が与えられる。この暗示が感染によって群衆内に伝わって集団心理となったのだ。この例は、群衆というには一つの目的に向かっている度合いが高いとは思われるが、絵的にも構造的にも印象深いので、ル・ボンの入口として掲げておくことにしよう。
(2022 12/02)

ル・ボンが考えるフランスの教育

 実際、不思議なものと伝説的なものとは、文明の真の支柱である。歴史においては、外見が、実在よりもはるかに重要な役割を常に演じてきた。
(p82)


群衆(というか個人としても)は実在するもの、日常的なものより、こういったものに靡く。水面下で蓄積されている事態より、一つの事件を記憶する。その事件が典型的なものでなくても、さほど重要なものではなくても。

 もし群衆に無神論を信奉させることができるならば、この無神論は、宗教的感情に特有の偏狭な熱情を伴って、外形的にはたちまち一種の宗教となるであろう。
(p93)


この後、ル・ボンはドストエフスキーを例に挙げている。21世紀の今は、そうした壮大な実験を、そしてその実験が破綻に終わったことを、ソ連の事例などで知っている。

 国家は、ひたすら教科書をたよりに、これらすべての免状所有者をつくりあげるが、そのうちのごく少数しか採用できないから、勢い他の者たちは無職のままでいることになる。従って、前者を養い、後者を敵とすることを覚悟せねばならない。
(p117)


この辺り、ル・ボンの関心は、テーヌ(フランスの歴史家)を引用しながら、フランス始めとするラテン系教育システム、教科書丸覚え、苛烈な競争試験の実態の打破に向かう。
ラテン式とアングロ・サクソン式とを比較し、後者の職業訓練的な教育方法の方がよい、としている。ラテン式の教育の類似例ちして中国科挙制度が挙げられているが、科挙制度は598年隋の時代から1905年ちょうどこのル・ボンの時代まで行われていたというので、歴史的に単純比較はどうかなとは思う。
一方、著者の註では、イギリス支配下のインドが比較対象となっている。時代的に同時期、かつアングロ・サクソン式というのも本国だけで植民地は違った思想であったというのも理解できて、こちらの方が比較対象として最適かも。植民地インドで生まれた特権階級は「バブー」と呼ばれる。これを目指すが失敗した人々が、イギリスに対して抵抗する勢力となる。ただ支配に抵抗するだけでなく、道徳水準も低下している、と著者は述べている。
(2022 12/04)

「感染」と「屈従」

 現在、社会上の幻想が、過去の累々たる廃墟の上に勢力を揮い、そして将来も、この幻想につきまとわれるのだ。
(p141)


ここの箇所は群衆の意見の直接原因であるけれど、経験とか道理とか、ル・ボンが原因とはしていないものについての記述が多いのが不思議。それはともかく、ここでの「幻想」は直接には社会主義のこと。21世紀の今は(後略)…

 群衆の精神を常に支配しているのは、自由への要求ではなくて、屈従への欲求である。服従に対する渇望が、群衆を、その支配者と名のる者へ本能的に屈服させるのだ。
(p155)


エーリッヒ・フロムの先駆けのような記述。個人的には自分は服従の欲求があるとは思わないし、自分よりもっと明晰な人もいるだろう。それなのに、群衆の中に入れば、「感染」してしまう、というのだから、やはりここをもっと考えたい。
(2022 12/05)

砂丘のように彷徨う群衆心理

p159からの「断言、反覆、感染」は、自分が思うにこの本の思想をぎゅっと濃縮した章。

 厩にいる一頭の馬の悪癖は、同じ厩の他の馬によって、ただちに模倣される。数頭の羊の怖気やとり乱した動作は、ただちに群全体にひろがる。感動の感染ということによって、経済恐慌の突発する理由は説明される。それのみならず、例えば広場恐怖症のような、人間から動物に伝わる種々な精神錯乱の症状すらあげられる。
(p162)


人間どうし、馬どうし…だけでなく、異なる動物種間でも感染は起こるのか…この辺も最新の心理学ではかなり変わってきているとは思うのだが…

 現在では、労働者たちのいだく考えは、酒場で、断言、反覆、感染の結果、かたちづくられるのである。どの時代の群衆の信念も、これとは別の方法でつくられたことは、ほとんどなかった。ルナンは、キリスト教初期の創始者たちを、「酒場から酒場へ思想をひろめる社会主義的労働者たち」に比較しているが、これは適切である。
(p164-165)


キリスト教初期の思想と、ここでの群衆心理がつながるとは思わなかった。今思い出すのは「ユリシーズ」の「市民」が極端な民族主義を酒場で言い出すシーン。

 信者たちが、以前崇めていた神々の像をうち砕くときには、常に熱狂的である。
(p177-178)


これも非常に小説的…全くの勘だけど、フロベールとかにありそう…

 暗示と感染とによって形づくられるこれらの意見は、常に一時的であって、往々、海辺の風に積みあげられる砂丘にも劣らぬほど速やかに発生しては消滅する。
(p195)


この一時的意見の下に、永続的な民族の精神がある、というのがル・ボンの見立て。それはともかく、砂丘が動くシュミレーションを利用して、砂の一粒一粒を群衆中の個人意見としてシュミレーションを動かしてみたい気に駆られる。

 種族の精神が強ければ強いほど、群衆の劣等な性質は、弱くなる。これが根本法則である。
(p206)


この「根本法則」は、ル・ボンと違う見解。そもそも、種族(民族)の精神などというものが、群衆心理を経て生まれた近代の作られた思想ではないか。
この後、「犯罪的群衆」の虐殺の様子が描かれる。上のp162の文章と併せて読むと効能が高まる。
(2022 12/06)

思考実験がお好きなル・ボン

なんとか今週中に「群衆心理」を読み終えた。

 選挙人たちの意見や投票は、選挙委員会の掌中に握られているのであって、この委員会を牛耳るのが、多くの場合、数人の酒屋であり、そういう連中は労働者たちに掛売をしてやるので、それに対して非常な勢力を持っている。
(p236)


前にあった、初期キリスト教伝導との類似も思い出す。委員会といい、酒屋といい、ヨーロッパの政治史も様々な試行錯誤で形成されていったのだな、と今は思う。

 群衆の主権掌握の教義は、哲学の観点からすれば、中世の宗教上の教義と同様に、ほとんど擁護しがたいものではあるが、今日では絶対的な力を具えている。
(p238)


思考実験をル・ボンは想定する。中世にタイムスリップした現代人が、そこで思想の土台をなしているキリスト教思想と対決し、思想を新しくしていく、ということはおそらくしない。そのような強固なキリスト教思想のようなものとして、現在の民主主義的価値感も存在しているのだ、と結論づける。

 議会の集会は、ある程度の昂奮状態に達すると、普通にある異質の群衆と異ならなくなる。従って、その感情は、常に極端に走りやすい特徴を示す。
(p256)


フランス革命時期の国会の討論の様子の描写がされているが、乱闘も辞さない、どこかで見たような気もする光景がそこにはある。

 採決された法律は、実際には一個人の所業であって、集会の所業ではない。このような法律は、本来、最上のものである。それが不都合なものになるのは、次々に不手際な修正が加えられて、集団的な仕事になるときにかぎられるのだ。
(p260)


作成された法律そのものよりも、それが議会で審議されて加えられる修正点が、あとで個人の行動に効いてくる。このような視点の考えはなかった。
最後はイブン・ハルドゥーンの「歴史序説」みたいな、とある民族のサイクル。偶然に集まってしまった民族生成初期は、全くの群衆そのもの。それが民族の精神を手に入れることにより、それを支柱として最盛期を迎える。しかし、それが行き詰まっていくと…

 旧来の理想を遂に失うと、種族は、その精神をも失ってしまうのである。種族はもはや孤立した個人の集合にすぎなくなって、その出発点の状態、つまり群衆の状態に立ちもどってしまい、もはや群衆としての、堅実さも将来性もない、一時的なあらゆる性質を示すのである。
(p268-269)


(2022 12/07)

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