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「方丈記」 鴨長明

蜂飼耳 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

訳者まえがき
方丈記(現代語訳 蜂飼耳)
エッセイ
方丈記 原典
付録
 『新古今和歌集』所収の鴨長明の和歌
 『発心集』巻五、一三「貧男、指図を好む事」訳と原文
図版
解説
年譜
訳者あとがき

方丈記前半(災厄編)


「方丈記」…ゆく河の…の一説の後には何が続いているか。
それは京都の火災と竜巻。(それから遷都・飢饉・地震)
(2024 01/16)

福原遷都について

 旧都は荒れ果て、新都はいまだに出来上がらない。あらゆる人々が、浮き雲のごとくに落ち着かない気持ちだった。もとからこの土地にいた人たちは、土地を取られて困っている。新たに移ってきた人たちは、土地を求め、家を建てなければならないので苦労している。
(p24)

 どんな場に身をおいて、どんなことをして生きれば、しばらくの間だけでも、この身とこの心を安らかにさせておくことができるのだろうか。
(p35)


この文で前半(災厄編?)終わり。後半は…

 さて、私の来し方について述べよう。
(p35)


と始まる(…のは、今確認したら原典にはなかった。訳者蜂飼氏が付け足した文だろう)

方丈記後半(来し方編)

 それまでに生活してきた家と比べると、その百分の一にも及ばない住居だ。ああだ、こうだと言っているうちに、どんどんと年を取り、住居は移動のたびに狭くなっていく。
(p36)

 その家は、世間一般の感じのものではない。広さはわずか一丈四方、高さは七尺ほどだ。建てる場所をきちんと決めたわけではなく、土台を組み、簡単な屋根を作り、柱や板の継ぎ目は掛け金で留めている。もし、気に入らないことがあったら、簡単によそへ引っ越せるようにという考えから、そのようにしている。
(p37)


ムラブリの先生である伊藤雄馬氏か?とも思う…
それはともかく、エッセイで蜂飼氏も述べているように、ここに鴨長明の住居戦略の最大の意図がある。

 もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁じる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。
(p39-40)


いいんかい?…いいと思う…

 また、山の麓に一軒の柴の庵がある。山守が住んでいる。そこに男の子がいる。その子がときどき、遊びに来る。
 なにもすることがないときなどは、この子を連れて散策をする。男の子は十歳、こちらは六十歳。年齢はだいぶ違うけれど、一緒に歩いてひとときを楽しく過ごそうという点では通じ合う。
(p40-41)

 いま、私は寂しい住まい、この一間だけの庵にいるけれど、自分ではここを気に入っている。都に出かけることがあって、そんなときは自分が落ちぶれたと恥じるとはいえ、帰宅し、ほっとして落ち着くと、他人が俗塵の中を走り回っていることが気の毒になる。
(p48)


恥じることもまだあるのか…
とにかく、このさっぱりと仏道修行に励むだけでなく、管弦(音楽)や和歌の書を庵に置いているなど、俗世間を気にかけているところが、方丈記の鴨長明の魅力だろう。
気になる、細かいおまけ。
1、平安京を開いたのが嵯峨天皇となっているけれど、これは当時はそういう認識だったのか、それとも鴨長明のミス?ひょっとして意図的?
2、「郭公」と書いて「ほととぎす」と読む。夏の鳥となっていて、注には冥途の案内人の意味で使われる、とある。現代語訳でもほととぎすとなっているから、あのホトトギスだよね。表記も、季節も、意味合いも意外。

蜂飼氏エッセイと和歌・管弦関連事件集

 葛藤を抱える鴨長明だからこそ、自足について大いに語ってしまうのだろう。自分で選んだ方丈の庵での暮らしはこんなにも心を満たされるものなのだ、と書かずにはいられない。『方丈記』の存在自体がそれを告げている。黙っていられるほど達観していたわけではないのだ。とはいえ、現代の読者はむしろそこに興味を引かれるのではないか。なぜなら、達観は完成形であり、それゆえに遠く、葛藤こそが身近な姿だからだ。
(p73)


蜂飼耳のエッセイから。
このエッセイでは鴨長明の生涯も語られる。作品(といっていいのか)は他に「発心集」(仏教説話…この本にも一話入っている)と「無名抄」(和歌関係)。

和歌関係事件
「瀬見の小川」事件…下鴨神社の歌合で参加した長明は負けてしまう。その原因の一つが「瀬見の小川」という歌枕。誰も聞いたことがないものだったが、長明に言わせればそれは鴨川の異名だという。鴨社の縁起にもあるという。それ以降、この歌枕は頻繁に使われるようになっていく。最後には「新古今和歌集」にもこの時の歌が収録されたから、長明も嬉しかったらしい。

「河合社禰宜」事件(神社の名前は、ただすのやしろ、と読む)…「新古今和歌集」の撰者に抜擢された長明は精勤したが、この時欠員が出た河合社に禰宜として推挙される。が、一族の他の人物に取られてしまった。長明は余程悔しかったのか、「新古今和歌集」の和歌所も辞めて、大原に隠居してしまう。「長明の奴め、こういうときこそ、じっとこらえていられないのか」と後鳥羽院は思ったかも、と蜂飼氏は述べているが、後々承久の乱で本人も同じ轍を踏んだ?

「実朝の和歌の師」事件…「方丈記」執筆の数ヶ月前、長明は年下の友人である飛鳥井雅経(あすかいまさつね…長明の友人として代表格。長明の15歳年下。和歌だけでなく、蹴鞠も上手かったらしい。先の「瀬見の小川」の歌を「新古今和歌集」に入れたのもこの人)とともに鎌倉へ行き、実朝の和歌の師として推挙しようとした。が、既に藤原定家がその立場に収まっていた。

管弦関係事件
「秘曲づくし」事件…鴨長明発案のイベント。賀茂の奥に集まり「秘曲」を演奏し合うもの。ここで興に乗って長明は「啄木」を弾く。それは長明の琵琶の師である中原有安から伝授を受けていない曲だった。それを後に咎められて出家の原因になったという。

「貧男、指図を好む事」


こんな楽しい?鴨長明だが、「方丈記」でずっと感じられるのは、住居・建築に関する関心。前半の災厄編でも住居が壊れたり無住になったりするものが主に選ばれていた(だから政争…保元の乱とか源平の戦いなどには、一言も触れられていない)。巻末に併録されている「発心集」の「貧男、指図を好む事」も「指図」(今で言う建築図面)を空想するだけで楽しむ人物が描かれる。仏教説話だけあって最後に「これだけではいかん」とは書かれているが、だいたいにおいて長明はこの人物に好感持っているように思える。p36の文にあるように、またヤドカリにも擬しているように、世に暮らす仮の栖としての家は、その人物そのものを体現している存在として長明にはずっと見えていたのだろう。
(2024 01/21)

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