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「ロスト・シティ・レディオ」 ダニエル・アラルコン

藤井光 訳  新潮クレスト・ブックス  新潮社

同じく新潮クレストブックス、藤井光訳で、「夜、僕らは輪になって歩く」も出ている。

ロスト・シティ・レディオ


新潮クレスト・ブックスは初?  新潮社も最近海外文学に本気出してきた(笑) このアラルコンという作家(1977年生まれ)はペルー生まれのアメリカ在住作家。英語とスペイン語両方で作品を書く…クレストブックスは、こういう今までの国別文学におさまりきらない作家もフォローしているシリーズ。 

さてさて、この作品(英語)はペルーをモデルにしたような架空の国で、ラジオの最高人気番組が失踪者捜索番組を軸に、さまざまな挿話で構成されている。

 かつては、どの町にも名前があった。神のみぞ知るような消え去った民から千年に渡って受け継いできたような、なじみの名前。石をこすり合わせたような硬い子音を持つ名前の数々。 
(p10)


「戦争」後、体制は街中から村から地図を強制回収し、数字の村名をつけられる。

  ー世界の片隅にあり、歴史の外にある偽りの国家。 
(p15)


 これはアラルコンのペルーに対する印象なのかな。
(2016 04/18) 

記憶と鍵


「ロスト・シティ・レディオ」は第4章まで。

 そこかしこで、虚しいイデオロギーか地方の不満によって寄せ集めの民兵に火がつき、理想を追い求める上流階級の落ちこぼれによって、軽く武装した集団が率いれられる。それはいつものこと、一世代に二度起こることで、結果は同じだった。反乱分子たちは窮乏に向かって進み、マラリアの熱に倒れた。 
(p64)


発展途上国でのクーデター騒ぎや反乱というものの起こるシステムは、まあこんなものだろう。

 彼女だけのものだった空間に。封をされた場所、もう十年近くにわたって時が止まったままの、堅固な記憶の倉庫。 
(p67)


この小説の一つのテーマは記憶。少年の持ってきたリストがきっかけとなって、ノーマの記憶が活性化する。

 そこで、話は途切れる。自分の王国、空の監房の鍵をいじる。 
(p71)


ここもなんだかこの鍵が自分の記憶にアクセスする鍵みたいに感じるところ。 記憶は、ない記憶を後から挿入し植えつけることができる… 
(2016 04/20)

第1部終了


だいたい100ページ… 時間と場面の断片化と揺らぎが特徴。まあ、断片化手法は映画の影響もあって古くから行われているのだけど、この作品の場合は映画的というよりもっと自然な人間の奥底にある記憶のリズムに合わせているような感じがする。
例えば第1部最後にラジオ局のブースで「問題が起きた」と言われるシーン。回想しているノーマとそれに付き添う読者の夢から覚めていくようなそんな微妙な感じになっている。作品のテーマが記憶というものに深く関わるだけにここは注目かな。 今のところレイとビクトルの視点がいつ交わるのかが筋や構成的にはポイント。
(2016 04/22)

 ヘリコプターの残像


「ロスト・シティ・レディオ」第二部始め、第6章。
少年ビクトルの村の話で、視点が先生のマナウとビクトルの二者でさまよう。前に時間処理のことを書いたけど、視点の移動も同様に変わったのに一瞬気づかないくらい自然に入る。少年の視点といっても、感傷的なものを排した淡々としたもので、饒舌なものとは異なる。
そんな中から少年が木の上に登ってみたヘリコプターの残像がずっと残る。第6章の時点からは少し前のその残像は、第6章で描かれている友達に突き倒されたビクトルの脳裏に入り込む。それが何らかの予兆を感じさせてゆく。
(2016 04/25) 

記憶の喪失と再生産


この作品全体の印象。
この話は国家によって消し去れようとする記憶の話なはずなのだが、薄れ行く記憶というより、新たな記憶を植え込んでいくという意味合いがある、絶えず生成されてゆく記憶…もしそれらが実は同じことを示しているというのならば、記憶とは何だろうか。 

ふるいにかけられる砂と小石


第7章。ここまでで印象的なビクトル少年の初めての海を見る場面。残念ながら、ビクトルの村はアマゾン側なので、首都(たぶん)リマとは反対側になってしまって、母親もみつからないのだけど…
ノーマとビクトルの2人の前に現れたのは、海の砂をふるいにかけている女。この小説ではなんでも記憶と結びつけてしまうから、ここも記憶に残るものと残らないものの象徴だと考えてしまう。砂は残らず、小石は残る。実際には、女は建設現場で使う小石を集めているだけなのだが。
(2016 04/28) 

タデクとビクトル

「ロスト・シティ・レディオ」10章まで、第二部読み終わり。 まず、今日読んだ第10章から3つの文章を引用。

 ラジオと同じように、電話は距離をなくす。そしてラジオと同じように、想像力という奇跡に頼るー深く集中し、想像に身を委ねる必要がある・・・(中略)・・・全世界がばらばらになってしまったが、彼らはすぐそこ、手で触れられるほど近くにいる。匂いがするほど。目を閉じて耳を澄ましさえすれば、そこにいる。 
(p200)


 長年にわたって、戦争は執念深いほど暴力的な一つの存在だった。彼はそれに飲み込まれてしまった。それは一つの機関、一つの機械だったー銃を持った男たちなど、使用人にすぎない。彼らの死者が十分な数に達すれば、終わりだった。
 (p205)


  ジャングルでは何も長くはもたず、永続する状態などなかったー暑さとじめじめした空気と光が、すべてを駄目にしてしまう。天気は一日のうちに十回変わった。それは流動する大地で、海と同じく移ろいやすく、恐ろしく、美しかった。 
(p212)


なんか3つとも「ー」が使われているけれど…

最初のはアラルコンのこの長編を書く動機と密接な関係がありそう。
アラルコンの書き方全般に言えることなのかもしれないけれど、個別の物語を感情を追走するというより、集積して抽象化して何かの社会システムのように描写するような特徴を2番目の文章は示す。
最後のはジャングルの大地と海との、絶妙な対比。 

さて、この第二部の最初でレイが現代国家でも行われていると指摘し問題となった古い村の習俗「タデク」。
それは強い催眠作用のある茶を子供等に飲ませ、その子供がふらふらしながらたどり着いたところの人が事件の首謀者ということで両腕を切られるというもの。

ちょっと前の箇所で、ザイール(ニコの父親)をそのタデクによって選んでしまった(単に友達の父親というだけだったのに)乃がビクトルだということが明かされるのだが、この第10章では、レイとノーマの戦争開始、大停電の夜の再会の場面と、ノーマとビクトルが教師マナウに合いにいく場面、この場面が閉じてゆきついには交わるところで、ビクトルの父親が実はレイだったことが明らかになる(その前にマナウの母親がノーマのことをビクトルの母親と思い込んでいることが書き入れてあるが、実に巧妙な目配せといえよう)。

ということはレイとビクトルはタデクの加害者であり被害者であるのか・・・ ビクトルが首都に旅立つことになった原因もこの辺にあるのかもしれない。 
(2016 05/01) 

もう一つの世界と記憶の作り替え


「ロスト・シティ・レディオ」は地道に?13章。前に「記憶は植え付けることができる」とか書いた気がするけど、植え付けるというより、寄せ集めて回路を作り替えるといった方が正しい…かな。

 記憶とは大いなる騙し屋なのだし、悲しみと渇望は過去を曇らせ、鮮やかな思い出すら薄れていってしまう。 
(p281)


記憶が作り替えられるとしたら、それはもう一つの世界、アナザーワールドの入口かも。 
(2016 05/04) 

「ロスト・シティ・レディオ」読了報告


案外に時間がかかった…

 その人たちは行方不明者を探しているわけではないの。その人たちが行方不明になってるの 
(p305)


というノーマもまたそう。p315でそう書かれている。
記憶回路を発動させることが、記憶や人生を生き生きとさせるのなら、記憶の手掛かりが見失われた時はどうなるのだろうか。この物語は地名の抹消から始まって常にそれを描いている。

 私たちが見ているものはすべて幻覚なんだと言っていた。 
(p328)
 幻覚に出てくるものは、ずっと存在して、出てくるときを待っていたものなんだ。そのスリルと驚き。自分のなかで埋めて隠していたものとは? 
(p331)


たぶんノーマの想像(これも幻覚?記憶?)の中で、レイの言葉がいろいろにこだまする。幻覚というものが人間が生きていく為に必要な方略の一種だとすれば、幻覚か現実かはたいした違いはないのかもしれない。現実もこうした幻覚の一変種にすぎないのだから。そして記憶についても同じようなことが言えるのだろう。 知覚とは一種の賭けである。
(2016 05/05) 

ナショナルジオグラフィック2016年6月号には、密林に逃げ込んで姿を隠す先住民の姿という、「ロスト・シティ・レディオ」に出ていたそのものの話題が出ていた。
(2016 05/28)

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